哲学と福音

❖聖書箇所 使徒の働き17章16節~34節                  ❖説教者 川口 昌英 牧師

◆(序)この箇所の背景

 (パウロが)人々に守られて着いたアテネは、当時の知的世界の中心地でした。そこに住む人々は、哲学の歴史とその環境を誇り、近年、地中海一帯に広がりつつあった主イエスを信じる信仰、小さなアジアの国、ユダヤから始まった宗教には全く関心を持っていませんでした。それゆえ、パウロたちが世界の真理追求をリードしていたそんなアテネの人々に主イエスの福音を伝えたことは世界の歴史にとって画期的と言ってよい出来事です。

 

 哲学の中心、アテネにおいては、すべては創造から始まるという聖書の考えと全く違っていました。人の側が宇宙の真理、人生の真理を見い出すという人間中心主義の考え、文化でした。その典型がソクラテスやプラトンなどのギリシャ哲学です。本日の箇所においても、エピクロス派とかストア派という人々が言われていますが、アテネはそのギリシャ哲学の中心地でした。ちなみに、エピクロス派とは人の生きる理想は、外的な状況や欲望などに惑わされず、確立された心の平和、精神的快楽に達することが真の幸福であるという考えであり、ストア派は、宇宙の真理と一体になり、倫理的に正しい生活を送り、正義や他の人々への奉仕を行い、感情や衝動を制御する生き方をすることが人間にとって真理であるという考えです。このように、ギリシャにおいては、理性、経験を中心として、人生の真理を考えようとしていたのです。

◆(本論)正反対の人々に語ったパウロ

①こうして、アテネでは人間を中心として真理を理解しようとしたゆえ、あらゆる事柄について討論、議論をたたかわしていました。人々は、関心があることについて、討論場で話を聞き、真偽を判断したのです。

 そのため、さまざまな場所で福音を語り、論じていたパウロに注目し、「あなたの語っているその新しい教えがどんなものか、知ることができるでしょうか。私たちには耳慣れないことを聞かせてくださるので、それがいったいどんなことなのか、知りたいのです。」(19節~20節) と伝統ある討論場に招いたのです。この時代は、盛んな時に比べ、真摯に討論するということではなくなっていましたが(21節)、真理であるかどうか、話を聞いて判断しようとしていたのです。

 そんな人間の理性や経験を中心とするアテネの人々でしたが、しかし、実態は矛盾に満ちていました。 神々の偶像が溢れていたのです。 (16節、22節、23節)  しかも自分たちが知っている神々だけでなく、「知られていない神に」と刻んだ祭壇まで造っていたのです。不思議です。精緻な哲学による世界観、人間観を形成していながら、神々の像を街のあちらこちらに溢れさせ、祀っていたのです。理性を中心にするとしながら、宗教、存在の中心に関してはあらゆる神々、偶像を抵抗なく拝んでいたのです。しかし、一見矛盾しているように見えるこの姿こそ、ギリシャ文化の根底にあった人間中心主義の表れでありました。信仰の対象である神そのものも自分たちの願いや欲に合うように造りあげていたのです。

 そして、この姿は、創造主、真の神を認めないあらゆる時代のあらゆる民族、人々に見られる姿です。理性的に見えますが、実はいろいろな神々を持ち、それらを恐れて生活しているのです。

 

②そんな人々の様子を見て、内心深い憤りを感じていたパウロは、連れて行かれた有名な討論場、アレオパゴスにおいて人々に向かって大胆に、生きるうえにおいて本当に大切なことに気づいて欲しいと渾身の力をもって説教をしました。

 パウロは、御霊に導かれて、まずアテネの人々の思いの深くにあるものを受けとめて話し始めています。(22節~23節) 偶像を拝むことの虚しさ、愚かさを直接指摘せず、彼らの宗教心や

知られない神と刻んだ祭壇までが造られていることにふれ、信仰、宗教に対する関心の高さを否定しないで受け入れ、一番大切な創造主、真の神を伝えようとしました。(24節~25節) 

 そして、そのまことの神は「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神」「天地の主」「すべての人にいのちと息と万物を与えておられる神」であると明らかにしています。

 アテネの人々のように、人から、人間の認識によって世界や人を捉えるのではなく、反対に創造主によってすべてが造られ、人も「神のかたち」を持つ者として造られ、生かされていると明らかにしたのです。出発が正反対であると主張したのです。

 パウロは、人間中心主義に立ち、さまざまな神々を造りだしている人々に向って、私たちの存在、人生の基盤は人の側にあるのではなく、いのちを与えておられる創造主の側にあると強く言うのです。これは聖書が伝える福音の根底にある大事な使信であり、多くの宗教がある日本に住む者にとっても極めて大事なことです。

 続いて、パウロは、すべてを造られた神は、生きておられる神である、人の歴史の中で働く方、摂理によって導き、すべてを治めている方であると言い、偶像と同じものと考えてはならないと明言します。(26節~29節) そして、言葉では言っていませんが、神のかたちとして造られ、生かされ、愛されていながら神に背き、罪と死によって支配されるようになった人を愛して、イスラエル民族を選び、救いのわざを行われた神の真実と恵みを覚えながら、神の深い愛を語っているのです。(イザヤ43章1節~4節、54章10節など) 

   そして、このように救いのわざを行ってきた神は、時が満ちたときに、ご自分の御子イエス・キリストを世に送り、ついには御子の十字架の死と復活によって救いのわざを完成し、今はどこででもすべての人に罪の悔い改めを命じています、又終わりの時にすべてを裁くとはっきり言いました。(30節~31節) こうして、人が生きるうえにおいて一番の問題である罪の贖いが実現している、人生を大切にしたいのなら、悔い改めて神のもとに立ち返り、救いを得よと言うのです。

 このように、パウロが語っていることは、アテネの人々のようにすべて人間を中心として、理性的に考えようとしている者たちにとっては愚かに思えることでした。実際に、特にパウロが十字架の死と復活について語った時、多くの者が嘲ったとあります。(32節~34節) しかし、パウロたちは、人々がどのように受けとめようと、これ以外に救いはないことを知っており、神が与えられた福音をそのまま語ったのです。(第一コリント1章18節、第二コリント2章17節)

 

◆(終わりに)どこでもだれでも救いはただ一つ

 聖書ははっきりと、人は、もともと神のかたちを持つ存在として造られており、その方のもとに帰らなければ決して埋められない空白を持っていると言います。

 現代日本の人々の心もアテネの人々とよく似ています。自分たちは神を信じるような愚かな者でないと言っていますが、何と多くの人々が自分たちがつくりだした神々を拝んでいるでしょうか。そして、心からの生きる目的を持てず、喜び、平安、希望を持てないで人生を送っていることでしょうか。見えるところが整えられているにしても、根本にボタンの掛け違えがある、的が外れているからです。

 人間的に愚かに見える神の御子の十字架の死と復活の福音だけが人を救い、人にいのちを与えることができるのです。それゆえ、教会は時がよくても、悪くても福音を伝えるのです。 

 

 どんなに時代、文明が進み、世界の状況が変わったとしても、また世界中のどこの国であっても、人に救いをもたらすのは福音のみです。神は、今も一人ひとりが神のもとに帰ってくるのを待っておられます。失われていたが、捜し出された一匹の羊(ルカ15章1節~7節) のように新しい命を受けて歩んで行きましょう。私はこれからもこの教会が、人間的に愚かに見えるかもしれないが、この福音に立ち続けることを心から願ってやみません。それこそ、教会のいのちです。