いのちの主

■聖書:出エジプト記2013節     ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。 創世記127

 

 はじめに 

 本日の箇所は短く一節、「殺してはならない」というものです。十戒の第六戒に位置づけられていますが、この戒めは私たちに何を教えているのでしょうか。もしかすると、これを読んでホッとする方もあるかもしれません。これまで、第一戒から四戒まで、神様についての教えがありました。わたしの他に他の神があってはならない。偶像を造り、拝んではならない。主の名をみだりに唱えてはならない。安息日を覚え、聖とせよ。そして前回の第五戒では、すべての人間関係にも通じる父母を敬え。と言われていました。どれもこれも、なかなか難しいものではないでしょうか。ところが第六戒、殺してはならないと聞くと、これはまぁ大丈夫、セーフと思われるかもしれません。そもそも、こんなの当然じゃないかとも思える戒めです。子どもでもよくわかっています。しかし本日は、人類に共通して備わっているような道徳観(モラル)としての「殺してはならない」の戒めが、十戒の六番目に置かれていることに注目し、神様は神の民に何を望んでおられるのか、神の民がどのように生きることを願っておられるのかという御心を聞いていきたいと願っています。

 神様は、イスラエルの民を神の民、礼拝の民としてふさわしく整えるために、エジプトから連れ出し、約束の地へと導き入れる途上でこの十戒を与えました。律法というルールを与え、その道中で誰が本当の導き手であり、守り手であり、いのちの主なのかを教えられるのです。今私達が開いています十戒は、その土台部分です。神の民、礼拝の民として立つための基盤がここにはある。私たちがどのような夢を描き、計画するにしても、まずはこの土台部分をきちんと固め、その上で様々な事柄を成していかなければと改めて思わされています。どれほど立派で素晴らしいウワモノであっても、この土台がしっかりしていなければ簡単に崩れてしまいます。どんなに素晴らしい計画でも形だけのものになってしまうのです。十戒は十の戒めですが、前半部分は神と人についての戒めで、前回の第五戒から始まる後半部分は人と人とにおける戒めである、ということはこれまでにもお話してきました。イエス様が律法を要約されたように、前半の4つは神を愛する戒め、後半の6つは、隣人をあなた自身のように愛する戒めです。この大枠の中で、第六戒も見てまいりましょう。

1.        神の民の土台にある人間観 

 殺してはならない。だれもがそうだと頷くでしょう。少なくとも好き好んで殺し、殺されるような殺伐とした世界であってはならないと、ほとんどの人々が思っていますし、大声でこれはおかしいと叫ぶ人は、よほどひねくれていない限りいないでしょう。しかし一方で、この短いだれもが知っている一言がそんなに単純には守られていない世界の歪んだ現実も、どこかで知っています。戦争やテロが広がり、殺されるのはいつも民衆の人々です。貧富の差の拡大で必要な栄養、清潔な水を得ることさえ出来ずに餓死している世界の現実がある。歪んだ世界のしわ寄せとして失われる命があるのです。その目は生まれる前の胎児にも向けられます。優生思想は様々に形を変えながらもなお人々の中に残り続け、まるでいのちの値踏みがされているかのようでもある。

 こう考えると、私たちは直接に人を殺すことはないかもしれない、だから大丈夫。ではなくて、無意識の中で、この第六の戒めから離れている世界に生きているのだということに気付かされるのです。いのちを大切にしない、いのちよりも利益や効率、数の原理に重きを置くような社会になっている。しかし一方で、このようにお話しながらも、私自身の中で、それは綺麗事、理想に過ぎないではないかと思ってしまう部分があります。大きすぎて自分には関係ないと思いたい誘惑もあります。問題は複雑になり、単純に「殺してはいけない」を語ることをためらってしまうようなケースがいくつもあります。しかしどんなに難しく、今の時代の価値観とかけ離れているからと言って、教会がその事に触れないなら、どんなにきれいな言葉で熱心に伝道をしても、神様の御言葉の前で偽りをしているのではないかとも思わされるのです。なぜならば神様は、そんな時代、いのちの尊厳が損なわれ、一人の存在が軽んじられている曲がった時代の中でこそ、教会が世の光として輝き、神の民が神を礼拝する生き方をなさせるために、この十戒をお与えになっているのです。

 神様はこの第六戒「殺してはならない」と言う戒めを、ただの道徳法としては教えておられません。そこには神の愛を知っている者が守るべき、明確な理由がありました。それは天地創造の時、人間が神様によって創造されたときにさかのぼり、人は本来どのような存在として造られたかを思い出させるものです。神様が明確に殺人を禁じられたのは、ノアの洪水のあとでした。地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみないつも悪に傾くのをご覧になり、神様は人を造ったことを悔やみ、心を痛められます。そしてすべての肉なるものを地の面から消し去ろうとされるのでした。今の歪んだ世をどのようにご覧になっているだろうかと考えてしまいます。しかしそんな世にあって、創世記6:9「ノアは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった」と記され、「あなたとあなたの全家は、箱舟に入りなさい。この世代の中にあって、あなたがわたしの前に正しいことがわかったからである」(7:1)と言われています。曲がった邪悪な世代のただ中で輝く、世の光のような存在だったのでしょう。世の人々はそれぞれ好き勝手に振る舞っていましたが、ノアだけは神様の言葉を第一にし、命じられたとおりに行います。そうして、やがて大水が地を覆いすべての肉なる者が滅びた時でも助かったのでした。洪水の後、神様は、もう二度と生き物すべてを打ち滅ぼすことは決してしないと約束され、そして、再び創造のときに与えられた使命とともに、いのちについて教えられます。「わたしは、あなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。いかなる獣にも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。人の血を流す者は、人によって血を流される。神は人を神のかたちとして造ったからである。あなたがたは生めよ。増えよ。地に群がり、地に増えよ」(9:6-7)ここで神様は、人は神のかたちであるから、人の血を流すことはいけない、そのいのちを傷つけることがあってはならないと言っておられます。本日の中心聖句にしました、創世記127節。26節には「われわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう」、ここで複数形で言われているのは、三位一体の神を表しているのだと説明されます。父なる神、子なる神、聖霊なる神の交わりの中、その愛の中に迎え入れられる存在として、「神のかたち」として造られたのです。これがキリスト教の人間観です。

 

 本日は、殺してはいけない、神のかたちに造られているのだから人を傷つけてはいけない、ということにとどまらず、私たちは私たちの隣人に対して、神のかたちに造られた大切な存在として、他者を見ることが求められているということを、改めて示されています。人のいのちの重みは何に由来し、何によって量られるのでしょうか。能力でしょうか。健康でしょうか。皆と同じように足並みをそろえて生きる協調性でしょうか。実際にそのような価値観に立って、まるで自分たちが神であるかのように人の価値を量り、いのちの選別をしたという歴史があります。様々な言葉で飾り立てていますが、結局は人のいのちに優劣をつけ、その尊厳を踏みにじるような行為です。一方で、数にしてしまえばただの記号に過ぎない一人を、その命をかけて助けようとそれぞれの仕事に従事している方々がおられるのも事実です。私たちはもう一度、神は人を神のかたちとして造ったということの重みを覚えたいものです。

 何度も繰り返しますが、この殺してはならないという短い第六戒は、十戒の後半、「自分自身のように隣人を愛する」という人間関係の戒めの中に置かれています。人間関係の始まりであった父母を敬うというところから、私たちのあらゆる人間関係を始めるということを第五戒から教えられました。本日もまた、第六戒「殺してはならない」という一見消極的な戒めから、人間関係における他者への新しい見方が与えられるのではないでしょうか。すなわち、私たちが関わりを持っている様々な人々を「神のかたち」として見つめるのです。神様にかたちづくられ、組み合わされ、愛されていて、高価で尊いと呼ばれる存在である。それはもちろん、他者に向けるべき目であると同時に、私自身にも向けるべき見方なのです。能力や立場や財産で人を評価する世界にあって、自分には価値がないと思っている方がおられる。生きている意味や価値を見いだせない方がおられる。そんなときに私たちは何を語るでしょうか。世界と同じ立場で、その人の評価を見出そうとしても、限界があります。自分に対しても同様です。そのような価値観で人の価値、いのちの重みを量ることなんて到底出来ないのです。

 そうではなく、あなたは神様に造られた、神様との交わりに招かれている、神様に愛された存在であるということを伝えたいのです。だれが何と言おうと、自分自身で自分自身をどう思おうと、神様がその御手をもって大事に大事にかたちづくられた大切な存在、「神のかたち」である。その神様が一人ひとりを見つめる愛の眼差しをもって、教会は福音を宣べ伝える使命が与えられているのです。

 

2.        イエス様のまなざしをもって   

 いのちの重み、さらにそんないのちを持つ存在への私たちの意識について話してきましたが、これは「殺してはならない」という戒めから少し飛躍し過ぎではないかと思われるかもしれません。しかし、イエス様はこの戒めを次のように教えておられます。マタイの福音書の5章、山上の説教で語られる一節です。21-22節をお読みします。昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院で裁かれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。ちょっと厳しすぎるんじゃないかと私なんかは思います。口に出すことはなくても、心のなかではそのような気持ちになってしまうことがあります。実際に殺すどころか、怒ってはいけない、悪口を言ってもいけない。こういう箇所を見ますと、決して神様はその程度を見て戒められているわけではないことに気づきます。ここまでならセーフ、ここからはアウト、みたいなさばき方をされずに(律法学者たちはここにこだわってしまいましたが)、殺すことにしても、兄弟に対する怒りにしても、その心をご覧になっている。しかしどうでしょうか。そんなこと、なかなかできることではありません。この曲がった時代の中にあっては、このように生きることは愚かに映るかもしれません。敵を愛するどころか、いかに敵を作り出すかに心を向けている時代です。右の頬を打たれたら左の頬も差し出すどころか、やられる前にやらなければならないという常識が支配しています。そんな中で私自身も、人を「神のかたち」と見られず、怒りに流されてしまう時がたくさんあります。けれども、そんな時、何度でも神様の愛に立ち返りたいのです。パウロがローマの教会に宛てた手紙を思い出します。互いにさばきあっている人々に対して、ローマ14:15「もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。」私たちの隣人は、「キリストが代わりに死んでくださった」人です。イエス様は、自分を信じる人々のためだけに死なれたわけではありません。それどころか、まだ罪人であった時、助けを求めることさえしていないときに、身代わりの十字架を背負われたのです。もう一度、神様との豊かな交わりの中に帰るように、「神のかたち」としての本来の姿を取り戻すために、十字架を負い、しかし死に勝利され、新しいいのちの道を開かれたのでした。

 

3.        まとめ  

 殺してはならない、という第六戒から、神様が人をどのように見ておられるのか、私たちはどのように隣人と生きるのかということを見てまいりました。「神のかたち」として造られたことの喜びを知っている私たちが、同じく「神のかたち」に造られている者との関わりの中で、どのように向かい合うかが問われているのです。神様は、どんな人をも愛されています。と同時に、神の交わりに生きるよう「神のかたち」に造られたはずの私たちが、本来のいるべき場所から離れて生きていることを悲しんでもおられます。だからこそひとり子をお与えになるほどの愛を示されたのです。神様の愛は、なんとしても神様のもとに連れ戻されなければならない無防備な迷子の羊に向けられた愛でした。私たちもまた、自分の中からは出てくるはずもないこの愛を注がれているのですから、それを自分たちだけのものとしてはいけません。まだ神様の愛を知らずに、自分がどれほど高価で尊い存在なのかを知らずに生きている方々へ、この愛を届ける者とさせていただきましょう。