負けずに成長した人々

❖聖書箇所 使徒の働き17章1節~15節          ❖説教者 川口 昌英 牧師

◆(序)この箇所について 

①パウロの第二次伝道旅行の続きです。まず、マケドニヤ州、テサロニケでの出来事です。ここでもパウロたちはいつもと同じようにユダヤ人の会堂に行き、彼らと論じ、自分たちが伝えているイエスこそキリスト、真の救い主であることを証ししています。

 一部のユダヤ人と神を敬うギリシャ人がパウロとシラスが語ることに耳を傾け、信じましたが、(中には高い立場にある人々の夫人たちもいました)、大半のユダヤ人はねたみと怒りの思いを持ったと記されています。彼らは、福音を受け入れていくユダヤ人やギリシヤ人が増えるのを黙って見逃すことができず、何としてでも福音宣教を阻止しようとして、街のならず者をかり集め、暴動を起こして街を混乱させ、パウロたちが活動拠点としていたヤソンの家を襲い、彼らを捉えようとしたのです。しかし、捉えることができなかったのでヤソンと幾人かのクリスチャンを捕縛し、町の役人たちのところに連れて行き、大声で告発したのです。

 彼らが言っている理由を見ると、キリストを信じる者たちを非常に危険視していることが分かります。6~7節「世界中を騒がせてきた者たちが、ここにも来ています。ヤソンが家に迎え入れたのです。彼らはみな、『イエスという別の王がいる』と言って、カエサルの詔勅に背く行いをしています。」カエサル、ローマ皇帝に反逆して世界中に混乱を起こしている輩である、彼らを放っておくと帝国の秩序そのものが危なくなると告発しています。どんな手段を用いても福音宣教を阻止しようとするユダヤ人たちの固い思いが伝わってきます。

②そんな危険な空気を感じた信徒たちは、このままでは危ないということで、その夜のうちにパウロとシラスをベレアに送りだしたのです。

 こうして危険から逃れ、別の地に来て、通常の感覚であるならば少し休養しようとなるのですが、パウロたちはここでもすぐにユダヤ人の会堂に行き、主イエスの福音を伝えたのです。このベレヤのユダヤ人たちはこれまでの多くのユダヤ人と違っていました。彼らは、「非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書~旧約聖書のこと~を調べた」のです。その結果、パウロたちが伝える主イエスこそ旧約聖書が告げているメシヤ、救い主であるとの確信を持ち、福音を信じたのです。また、会堂に集っていたギリシャの貴婦人たち、多くの男たちも福音を受け入れたのです。

 このようにベレアでみことばを信じるユダヤ人、ギリシャ人が増えていましたが、またしてもテサロニケのユダヤ人たちがはるばるやって来て、群衆を扇ぎ立てて騒ぎを起こしたのです。本当に執拗です。それで兄弟たちはパウロを海岸まで連れて行き、ともにアテネに向かう船に乗ってアテネまで送ったのです。

 

 テサロニケとベレアの非常に対照的な反応が記されている本日の箇所ですが、このところには二つの重要なことが言われています。

◆(本論)流されなかった人々

①一つは、テサロニケのことですが、激しい妨害にも関わらず、主を固く信じる者たちがいたということです。そのことは後でパウロからテサロニケの教会にあてた手紙から分かります。

 この手紙は新約聖書におさめられている、パウロによって書かれたことがはっきりしている手紙の中でもある特徴を持っています。あまり手紙の中では褒めることがないパウロが宛先の教会を褒めていることです。福音が伝えられた始めは上記のような街の状況でしたが、負けずにしっかりした信仰を持つ人々が起こされていたということです。

 参考までにテサロニケにあてた手紙を何箇所かお読みします。Ⅰテサロニケ4章9節~10節a「兄弟愛については、あなたがたに書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちで、マケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、それを実行して

いるからです。」或いは、Ⅱテサロニケ1章3~4節「兄弟たち。あなたがたについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。それは当然のことです。あなたがたの信仰が大いに成長し、あなたがたすべての間で、一人ひとりの互いに対する愛が増し加わっているからです。ですから私たち自身、神の諸教会の間で、あなたがたを誇りに思っています。あなたがたはあらゆる迫害と苦難に耐えながら、忍耐と信仰を保っています。」 といったところから明らかです。

  強硬にまた乱暴に反対するユダヤ人たちによって、街の住民たちがクリスチャンに対して不安を抱くようになった中で、信じた人々は、互いに愛し合い、懸命に福音に仕えたのです。パウロは、そんな彼らについて、「その結果、あなたがたは、マケドニヤとアカイヤにいるすべての信者の模範になったのです。主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカイヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰が、あらゆる場所に伝わっています。そのため、私たちは何も言う必要がありません。」(Ⅰテサロニケ1章7~8節) とまで言っています。

 内にあっては互いに受け入れ合い、外に対しては信仰者としてしっかりと立っていたのです。そんな彼らの中心にあったのが、第Ⅰテサロニケ2章13節です。「……あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。」ここにその理由があります。福音がどんな時にも、この人々の根底にあり、力になっていたのです。どんなに反対の嵐が吹き荒れていても、福音は、真理を求めている人々の心の深くにあり、その福音によって平安と希望に満ちていたのです。

②続いてこの箇所から教えられる二つ目のことは、みことばに取り組む人は世の流れに流されないということです。言うまでもなく、ベレヤのユダヤ人たちです。彼らは、妨害するために来た同胞であるユダヤ人たちに惑わされず、素直に、熱心にみことば、キリストについて語られることを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日、聖書、旧約聖書、この時にはギリシャ語訳のいわゆる70人訳の旧約聖書がありましたから、おそらくそれに基づいて使徒たちが語っていることを調べたというのです。

 これは、とても大事なことです。聖書によって、語ることの真偽を調べたのです。とかく人の集まりの中では大勢の人、また社会的に高い、強い立場にある人の意見が大きな影響力を持ちますが、ベレヤのユダヤ人たちは、聖書に沿って、聖書を基準にして、使徒たちが言っているキリストのことを真実かどうかを調べ、その結果、多くの人が主を信じたのです。

 

◆(終わりに)少数派となることを恐れないで

   海の上はどれだけ荒れていても、海面下20メートルは静寂の世界であると聞いたことがあります。神は死んだと言われている近代、ことに多神教の日本においては人が福音を信じ、信仰告白をすることに対して騒動が起こります。家族から、友人から反対されます。そして抗しきれず、福音から離れる人もいます。しかし、どれだけ強い反対があっても、人間のことばとしてではなく、神のことばとして受け入れ、信仰が確実に成長している人がいます。ことに聖書を素直に読み、聖書の解き明かしを聞いている人はそうです。海面深くにいるように、大きな波風に惑わされず、静まり、自分の問題として考えるからです。

 

 信仰は、大勢の人がどう言うかの問題ではありません。本当の救いがあるかどうかです。人の根本的不安、孤独の不安、おかした罪の不安、死の不安に対して真の解決があるか、どうかです。それらの不安を取り除き、真の平安を与えるのは、神の御子の十字架による贖いのみです。あの大騒動が起こったテサロニケの中でも主の福音と向き合い、心から受け入れた者たちのように、あるいは聖書をすなおに調べ、受け入れたベレアの者たちのように、自分の問題として福音を受け入れ、立ち、この世に流されず、しっかり、一歩づつ歩んで行きましょう。