義しい人の苦しみ

聖書箇所  ヨブ記42章1節~6節            説教者 川口 昌英 牧師

◆(序) ヨブ記について         

①ヨブ記は、神を信じる者になぜ苦しみがあるのかという義人の苦しみが主題になっています。

 この書は大きく分けて三つの部分からなっています。まず物語の導入の部分です。主人公であるヨブという人物の紹介、そして義人の苦しみがとりあげられるようになる背景の部分です。

 続いて、主題をめぐってのヨブとヨブを慰めに来た三人の友との対話の部分、そして、終わり、この問題についての神からの答えの部分です。このようにこの書の構成は、舞台劇のように分かりやすく、また主題もすべての人にとって身近ですから古くから多くの人々の関心を集めています。

 

②最初にプロローグです。1章を見ますと、ヨブという人物が非常に正しい、神を敬う歩みをしていた人物だということが分かります。そんなヨブに対して、神に敵対する存在であるサタンが神に、あなたがヨブの生活を祝福しておられるから、ヨブはあなたを愛し、従っているのです、そういった祝福されたものが奪われるならば、ヨブはきっとあなたを呪うでしょうと神に挑戦したのです。なぜ、このようなサタンの挑戦を受け、その通りになることを許されるのか、理解できない思いがありますが、とにかく神はヨブから全てのもの、10人のこども、全ての財産が奪われるのを許したのです。しかし、こんな大変な経験をしながら、ヨブは「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(1章21節)と語り、その信仰はゆらぎませんでした。自分が神を信じているのは、生活が祝福されているからではないと告白したのです。そんなヨブに対して、サタンは執拗にさらなる試練を与えることを神に挑戦しています。ヨブは自分の命の危険がなかったから激しい苦難にも耐えることができたのだ、信仰が揺らぐことがなかったのだ、もし、自分の体、命が危険になるなら、きっと彼はあなたを呪うでしょうと神に再度、挑戦したのです。神は、サタンのその言葉をも許し、ただヨブ自身の命に手を出してはならないとしましたが、ヨブは足の裏から頭のいただきまで悪性の腫物で覆われる重い病気になり、肉体的に非常に苦しむようになったのです。

 

 変わり果てたヨブを見て、ヨブの妻は「あなたは、これでもなお、自分の誠実さを硬く保とうとしているのですか。神を呪って死になさい。」と言いましたが、ヨブ自身は「あなたは、どこかの愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けるべきではないか。」と言い、このような状態になっても罪をおかすようなことを口にしなかったのです。サタンがいくらヨブでも自分自身の身に危険が及ぶならば、信仰が揺らぐだろうと挑戦したことに対しても変わらずに神に対する信仰を告白したのです。彼は、サタンの考え、挑戦は間違っていることを証明したのです。さまざまなことが恵まれているから、また自分が安全に守られているから神を信じているのではないことを明らかにしたのです。すさまじい信仰告白です。

◆(本論)なぜ、義しい人に苦しみがあるのか

①このように、次々と自分を襲うものに対しては揺らぐことがなかったヨブでしたが、魂の深いところでは、神を懸命に信じている者になぜ、このような苦しみがあるのか、分からない思いが湧き上がってきたのです。それは、ヨブのことを伝え聞いて彼を慰めようと駆けつけた三人の友との2章の後半から31章までの対話から分かります。

 この対話(ダイアローグ)の部分はとても興味深いことで満ちています。一人の友がヨブに語り、それに対してヨブが答え、また別の一人が語り、再びヨブがそれに答え、問うというかたちがそれぞれ二人とは三回、一人とは二回繰り返される構成になっており、神を信じる人になぜ苦しいことが起こるのか、三人の友の考えとヨブの考えが激しくぶつけられているからです。

 この対話の部分を要約すると、結局、三人の友は、ヨブがこのように大きな試練を次から次と受けているのは、ヨブが過去に大きな罪をおかしたからである、それを悔い改めよと言ったのですが、ヨブは、たとえば「私に教えよ。そうすれば私は黙ろう。私がどのように迷い出たのか、私に悟らせよ。」(6章24節)あるいは「今日もまた、私の嘆きは激しく、自分のうめきのゆえに私の手は重い。ああ、できるなら、どこで神に会えるかを知って、その御座にまで行きたいものだ。私は神の御前に自分の言い分を並べて、ことばを尽くして訴えたい。」(23章1節~4節)と語り、神を信じる者が苦しみにあう真の理由を知りたいと彼らに表明しているのです。長く激しい対話を行いましたが、ヨブと三人の友との溝は埋まりませんでした。絶望にも似た重い雰囲気が満ちていました。

 

②その時、ヨブと三人の友との対話を黙って聞いていた若者、エリフが、ヨブと三人の友に対して怒りをもち、ヨブに話し始めました(32章から)。彼は若者らしく、ヨブが神よりも自分自身を義としている姿に怒りを持ち、そのたかぶりをはっきり指摘しました。エリフは、三人の友が自分は義しいと強く言っているヨブに対して何も言い返せず、沈黙したこと、またヨブがなおも神に迫ることをやめない姿勢を見て、我慢できなくなり、ついに言葉を発し、32章から37章までと延々とヨブに語り続けたのです。ヨブ記全体の中で、このエリフが果たしている役割についてはとても

興味深いものがありますが、はっきりしているのは、エリフの場合、ヨブや三人の友のように神から退けられていないということです。むしろ、38章から始まるエピローグ、神からの応答のさきがけの役割を果たしているように見えるのです。

 

◆(終わりに)すべては神の御手にある

  義憤にかられたエリフの言葉に続いて、神を信じる者になぜ、苦しみがあるのか、執拗に尋ねたヨブについに神から応答がありました。長い沈黙の後でした。38章以後、主は嵐の中からヨブに仰せられたのです。ご自分が世界を創造したことを強調したのです。そして、ヨブにあなたはこれらを知っているかとこれでもかこれでもかと問うています。

 なぜ、神を信じる者に苦しみを与えるのか、激しく迫ったヨブに対して、神からの答えは直接にその問いに答えるものではありません。神の応えは、自然界にあるもの、被造物一つひとつをとりあげ、あなたはだれがこれらのものを創造したのか、知っているかというものでした。人間の知恵、知識では捉えきれない創造主の偉大さを知らしめるものでした。摂理の深遠さを伝えるものでした。

 そのとき、ヨブの心に神の御旨が大きく響き渡りました。そして、彼は心から信仰を告白しました。長い箇所ですがお読みします。「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。あなたは言われます。『知識もなしに摂理をおおい隠す者は、だれか』確かに私は、自分の理解できないことを告げてしまいました。自分では知り得ない、あまりにも不思議なことを。あなたは言われます。『さあ聞け。わたしが語る。わたしがあなたに尋ねる。わたしに示せ。』私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし、今、私の目があなたを見ました。それで私は自分を蔑み、悔いています。ちりと灰の中で」(42章)

 

 ヨブ記は直接の問いに対して神は何も答えていません。しかし、神は答えていないのではありません。すべてをお造りになり、すべてを摂理のうちに治めておられる方だということ、人には分からないこともすべては神の御手のうちにあることを明らかにされたのです。ヨブは悟りました。自分の苦しみもすべて神の御手のうちにあること、神の摂理は容易に理解できないが、人のためであること、自分には分からないがすべてを委ねたらよいと悟ったのです。神の知恵は人には測りがたい、しかし、すべてのことが神の御手のうちにあるのです。信じて委ねて歩みましょう。