主にある関係

■聖書:出エジプト記2012節     ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。

エペソ人への手紙61

 はじめに 

 出エジプト記を連続して読んでいます。エジプトの地で奴隷になっていたイスラエルの民を、神様は不思議な御業をもって助け出し、約束の地へと導かれるその途上で、十戒という神様からの十の戒めを与えられました。これは救い出された神の民として、どう生きることが神様に喜ばれるのか、何が本当に幸いな生き方なのかが示されている教えです。その中で、今日は五番目の戒めを共に見てまいりましょう。あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。

 この「父と母を敬え」という戒めが、十戒の中でもこの位置に置かれているということはとても重要な意味を持っています。そもそもこの十戒は律法の中心に当たるものですが、イエス様はこれらの律法全体を二つに要約できると言われています。一つは神を愛すること(第一〜四戒)、そしてもう一つは人を愛すること(第五〜十戒)です。この十戒は二枚の石の板に刻まれたと言われていますが、この第五戒はその二枚目の板、人に対する戒めの最初に位置しているのです。なぜこの戒めが人に対する戒めのうち最初に置かれているのでしょうか。ここではすべての人が持っている親との関係について教えていますが、ある意味で当たり前のようにも思えるようなことです。この後の第六戒には「殺してはならない」、七戒には「姦淫してはならない」とものものしい戒めが続きますから、なぜ、わざわざ最初にこれをおいたのかということを押さえておく必要があるのです。それは、後でも触れますが、人を愛するということは、この父と母を敬うことから始まる、すべての人間関係がここから始まるということを意味しているのです。

1.        父と母を敬う 親子関係から始める人間関係 

 子どもにとっての両親というのは、後の友人たちとは違い、自分の意志で選べるものではありません。それでありながら、私たちが世に生まれて最初に関わるのはこの両親であり、この両親との関係が、幼子にとっては世界の全て、それゆえに大きな影響を受ける関係なのです。ここで父母を敬うというのは、重んじるとか大切にするという意味があります。この十戒は、年端も行かない子どもたちを集めて語られたわけではありません。むしろ成人した人々が多くいたはずです。その両親は当然年を取り、あるいは子どもよりも弱い存在になることもあるでしょう。ここで、親たちがあらゆる面において優れているから「敬いなさい」と言われているのでしょうか。ここには「敬う」理由は記されていませんが、そうではないと思います。もちろんそのような部分もあるでしょうが、罪人である以上、多くの失敗を犯すことも当然あります。時にそこで傷つけられている子どもたちも少なくない。子どもたちにとって両親、家族という存在は、その影響をダイレクトに受けてしまう存在ですから、この関係の中で愛情をたっぷり受けて育つ子もあれば、一方でこの特別な関係の中で多くの悩みをもち、受けた傷を抱えながら生きている人も多いのではないでしょうか。

 それではなぜ敬うように命じられているのかを考えるときに、両親の側から見るとわかりやすいかと思います。子どもは授かりものという言葉は教会の外でも一般的に言われることですが、聖書の考え方ではもう少し踏み込んで教えられます。教会の献児式で読まれる式文には、それがまとまって言い表されていますので、少し長いですが、お読みします。

「いま、この兄弟姉妹は、神の恵みによって与えられた幼子を主の御前にささげようとしています。このことは、家族にとっても、教会にとっても大きな喜びであります。私たちは、このことを神に感謝し、幼子を守り育てる責任につき、常に祈るものでありたいと願います。両親は、この幼子を主から託された子として、これを愛し、育て守り導いていかなければなりません。神が、このことを通して家族と教会を祝福してくださることを信じます。」

つまりここで、子が与えられたということは、その両親に神様が託されたということであり、託された者としてふさわしくこれを養育しなければならないと言われているのです。神様が親とし、子とし、関係を造ってくださったのです。託すということは、そもそもすべてのものは神様の子どもであるということを意味しています。この方によらずにできたものは一つもないと言われていますように(ヨハネ1:3、エペソ3:15)、すべての者の父であるお方がおられ、子どもに愛の眼差しを向けておられる。神様の目には、だれ一人として、生まれないほうが良かった人なんていないし、誰かと比べて勝っている・劣っているなんて見方はされません。自分でも自分を受け入れられない、好きになれないという人がいますが、その人自身がどう思おうと、天の父は、大切な存在として見ておられる。自分勝手に出ていった息子を、いつまでも待ち続け、再び愛する子供として迎え入れてくれる、そんなお父さんの姿を、聖書を開くときに知るのです。ときに厳しい試練を与えることもありますが、しかしそれも意味のない苦しみではなく、愛する子を訓練するためであることを聖書は教えます。

 この、天の父が子に向ける愛の眼差しを、地上の両親、家族に託しているのです。親たちは、子どもの健康と生命を守ることは言うまでもなく、十戒の前半部分に当たる御言葉を伝え、神を恐れる礼拝の姿を学ばせ、その霊的いのちを育むという使命が与えられているのです。子どもたちをまるで自分たちの所有物のように扱い、なおかつ「敬いなさい」と言ってもそこにはなんの意味もない。それどころか、神様が望んでおられる関係は生まれないのです。親も子も、どちらもがこの神様が定められた秩序を知る必要があるのです。そのときに「父と母を敬う」というあるべき関係が生まれ、そこからあらゆる人間関係が始まってくるのではないかと思います。神様が両親を選び、この子を与え、養い育てるという特別な使命を託されたのです。

 これを覚える時に、ここでの神様が立てられた父と母というのは、血縁的な関係だけでないということに気づきます。先程、献児式の式文でも触れましたが、教会もまたこの小さな魂を大切に守り育てるようにと神様に立てられた養育者であります。ですから教会学校もそのために仕える大切な務めであるということも合わせて覚えたいと思うのです。子どもが好きな人だけが、好きにやっているのではなく、教会に与えられた大切な務めがこの「託された幼子」を愛し育むということにあるのです。

 さらにそれだけではなく、歴史の教会はこの第五戒で敬う対象として、父母だけでなく、あらゆる年長者、あるいは指導的立場にある人々に当てはめてきました。神様の秩序の中で置かれた存在として、これらの人々を受け止めたのです。先ほどは教会学校のお話をしましたけれども、一方で教会のご高齢の方々にどのように関わっていくのかということも、教会に託されている大切な使命であります。子が父や矢を尊敬し、尊重し、愛し仕えていくように、神様がともに置いてくださった兄弟姉妹について、このように愛し仕えていく。教会はこの愛の共同体であることをも、第五戒は教えているのでした。

もう一点付け加えるならば、国の為政者たちもここに含まれる、神が立てられた器であり、敬うべき存在であることを覚える必要があるでしょう。先程も申し上げたように、子供にとっての親は、神様が与えてくださった養育者であるのと同様に、すべての上に立てられた権威は神様によって備えられている(ローマ13章)ということを覚えて、これを敬い、この人々のために祈らなければならないのです。ただし、ここで言われているのは敬うことであって、崇拝ではありません。あくまでも神様が建てられた、神様の秩序の中で置かれている存在としてみることが求められているのです。

 

 しかし「敬いなさい」と言われてもどうしてもできない、ということはないでしょうか。そもそも誰かに「敬え」と言われたから「敬える」ということでもないようにも思います。頭では分かっていても、過去に受けた傷や様々な思いがあって素直にそうは出来ないこともある。幼い頃は純粋に両親を慕い、敬っていても、ここでのイスラエルの民がそうであったように、成人し、自分自身が力をつけてくると、一方で弱くなる両親に対して敬うということが難しくなるかも知れません。しかし何度でも思い出したいことは、この人々は神様が与えられた存在であり、神様が与えられた関係であるということです。だからこそ、パウロはエペソ人への手紙の中で「子どもたちよ、主にあって自分の両親に従いなさい」と告げるのでした。主にあって、ということが鍵なのです。この部分をもう少しお読みしますと、エペソ書61-3節「子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。「あなたの父と母を敬え。」これは約束を伴う第一の戒めです。「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。」前半部分には、子どもたちへの勧めが、本日の第五戒を土台に述べられています。一方後半は父と母への勧めとして、子どもたちを怒らせてはいけない、主の教育と訓戒によって育てるということが言われています。「主」という言葉がこの親と子の関係、いずれに対しても言われています。この関係の中心に「主」がおられることが、神様が喜ばれる関係の要になっており、この関係を土台としてあらゆる人間関係の基礎ができているのです。

 

2.        約束の地を継ぎ、長生きする  

 このように主にある関係を覚えて、与えられている両親を敬う時、一つの約束が実現すると言われています。出エジプト記2012節をもう一度お読みします。あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。これは第一に、エジプトの地から救出されたイスラエルの民に与えられた約束でした。何度でも強調しておきたいことですが、この戒めは、これを行わなければ救われない、というようなものではありません。救いはいつも、神様が一方的なあわれみによって与えてくださるものです。エジプトという奴隷の地から救出されたのも、決してイスラエルの民自体に救われるのに値する素晴らしいものがあったからではないのです。私たちがどんなに罪深くとも、神様なんて知らないよと強がっているときにさえも、そのひとり子をお与えになったほどの愛がまずあり、救いがもたらされるのです。ここで言われているのは、そんな一方的な恵みによって救われた者として生き続けるということであり、ここにこそ幸いな人生があるということなのです。

 

 最初にもお話しましたように、この十戒というのは奴隷から解放されたイスラエルの民が、今度は神の民として生きるために必要なガイドラインとして与えられたものでした。神様の喜ばれる生き方がここに示されたのです。困難から助け出された後は自由に、勝手にどこへでも行きなさいとは言われずに、神の民のために用意されている約束の地へ行き、神の民として神である主と共に生きることこそが、本当に祝福された、幸いな道であることを教えられたのです。これは何千年も経た今の私たちにも同じです。いや、同じどころかさらに素晴らしい約束となって私たちにもたらされました。イエス様の十字架の贖いによって、この救いはイエス様を信じるすべての者に注がれました。「主が与えようとしている土地」は、もはや地上の特定の土地ではなく、私たちが生きるどこででも神の御手があり、神が共におられることが明らかに言われたのでした。そしてそこで長生きするというのは、単に肉体の年齢が伸びるということ以上に、永遠のいのちを得るという素晴らしい約束になって、私たちに用意されているのです。神様の祝福を受け、神の御国で、ともに生きる幸いが与えられています。

 

3.        まとめ  

 本日の箇所は、人間関係の始まりを教える箇所です。神を愛することと人を愛することをつなぐ一つの戒めについて見てまいりました。天の父が与えてくださった父と母を愛し、尊敬し、従うことは、主にあるあらゆる関係の中で愛し、互いに尊敬し、仕えていくということに広がります。この生き方こそが、救われた私たちのあるべき姿であり、ここにこそ本当に恵まれた人生があります。首根っこをつかまれて無理矢理に敬いなさいと言われているのではなく、神様の愛がこの関係に表されていて、神様が与えられた豊かな交わりがあるということを覚えたいと思うのです。この主にある関係の豊かさをそれぞれのご家庭、それぞれが置かれている関係の中で、そして私たちの教会において表していきたいと願います。