長年の課題

❖聖書箇所 使徒の働き16章35節~40節        ❖説教者 川口 昌英 牧師

◆(序)この箇所について

 短い箇所ですが、使徒たちの国家に対する姿勢が明らかになっている箇所です。釈放を告げられたパウロとシラスが、不当な仕打ちを受けたことに対して、ローマ市民権を持つ者として長官たちに謝罪を求めていることから、使徒の国家に対する姿勢がわかります。

 外国人がローマ市民権を持つことは、例えて言えば、外国籍の人が日本国籍を持つようになり、日本国憲法、法律の適用を受け、それらが定める権利義務を持つようになることです。ローマ市民権を持つ者は、投票権を持ち、士官になることができ、犯罪の嫌疑を受けても丁重に扱われ、刑罰に関しても笞打ちの刑や十字架刑を課せられることはなく、また判決に対して不服がある場合、皇帝に上訴することができました。パウロは、生まれながらそのローマ市民権を持つ者でした。ローマ市民権を持つ人々は時代とともに多くなっていますが、パウロの時代は外国人がローマ市民権を持つことはまだ珍しかったのです。おそらくパウロの先祖がローマ帝国に貢献し、その功績のゆえにローマ市民権が与えられたものと考えられています。30節では、シラスもまたローマ市民であったと記されています。

 そういう二人が前回の箇所にあったように、いわれのない理由により、捕えられ、弁明の機会も与えられず、いきなりむち打たれ、投獄され、足枷をつけられたのです。ローマ市民権を持つ者に対する重大な権利侵害であり、侮辱です。

 

 なぜ、逮捕された時、自分たちはローマ市民権を持っていると言わず、釈放されることが決まった時に、実はローマ市民権を持っていることを言ったのでしょうか。おそらく役人たちは聞く耳を持たず、少しも信用されなかったからではないかと思います。しかし、この時は彼らが大地震の中で落ち着いた行動をしたことにより、一目置かれるようになり、役人たちも彼らのことばに耳を傾けるようになっていたからではないかと思われます。

◆(本論)使徒たちの国家に対する姿勢

①なぜ、この箇所が現代のキリスト者の国家との関係を考えるうえにおいて重要な意味を持つのでしょうか。

 その理由は、さまざまに参考となる初代教会において、二人がローマ市民権を持つ者であることを表明し、それに基づいて行動しているからです。分かりにくいかも知れませんが、二人は、私たちはキリスト者です、神の子とされた神の国に生きる者、現実の国家、国家が定める秩序と無関係に生きる者ですと行動したのではなく、この地上においてはローマ13章1節~7節でパウロが表明するように、国家が本来の目的から逸脱していないならその国家の法、秩序に従うという生き方を表明したのです。

 本日の箇所は、パウロとシラスが釈放されるにあたり、実は自分たちは、ローマ市民権を持つ者であることを明らかにして、役人や長官までも震え上がらせ、溜飲をさげたということが中心ではありません。二人が不当な扱いを受けながら、国家が定める法、秩序に従って生きていることを現している大切な箇所です。

 これは特別に取り上げるまでもないあたりまえの行動のように思えるかも知れませんが、実は現実のクリスチャン生活を考えるうえにおいて大変重要な意味があります。クリスチャンは、この世の、現実社会の法秩序を大切にすることを表明しているからです。

②確かに、私たちは使徒の働き4章19節「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」また5章29節「人に従うより、神に従うべきです。」にあるように、使徒たちが自治が委ねられていたユダヤ、エルサレム議会に対して、その命令に従わず、抵抗して

いるのを知っています。そのような箇所を見ると、初代教会のクリスチャンは政治的支配者に対していつも反抗している、この世の権力に従わないという印象がありますが、それは誤った理解です。4章、5章の場合は、不合理な命令であったから使徒たちはそのような態度をとったのであり、クリスチャンも基本的に国家が定める秩序、権力に従うのです。もちろん無条件ではありません。先のローマ13章で見た通り、権力、国家は、国民を実際的な力によって動かすことができる存在ですが、その目的、国民に益を与えるために神によって立てられているという目的に沿っているなら国家、権力に従うのです。

 そんなクリスチャンの現実国家との関係について非常に参考となるのが、よりとりあげるナチスが政権をとり、ドイツのあらゆる方面、政界は言うまでもなく、官界、司法、経済界、労働界、報道界、大学など国全体がナチスの主張する価値観、民族や歴史や風土を誇る大ドイツ主義、また反ユダヤ主義、反共産主義に覆われ、その価値観によって国のすべてが均質化されつつあった時に、唯一、福音主義教会、告白教会が、その均質化政策、また一人の指導者、ヒットラーのもとに集結すべきという指導者原理に流されず、教会として守るべきこと、歩むべき道を明確に示した1934年のバルメン宣言です。(日本の教会は残念ながら国の体制に呑み込まれています。)

 全部で六条からなっていますが、第五条、教会と国家の関係について次のように言ってます。

【「神をおそれ、王を尊びなさい。」(第一ペテロ2章17節)

   国家は、教会もその中にあるいまだ救われないこの世にあって、人間的な洞察と人間的な能力の量りに従って、実力の威嚇と行使をなしつつ、法と平和のために配慮するという課題を、神によって与えられているということを、聖書はわれわれに語る。

  教会は、このような神の定めの恩恵を、神に対する感謝と畏敬の中に承認する。教会は、神の国を、また神の戒めと義とを想起せしめ、そのことによって統治者と被治者との責任を想起せしめる。教会は、神がそれによって一切のものを支えたもう御言葉の力に信頼し、服従する。

 国家がその特別な委託をこえて、人間生活の唯一にして全体的な秩序となり、したがって教会の使命をも果たすべきであるとか、そのようなことが可能であるとかというような誤った教えを、われわれは退ける。

 教会がその特別の委託をこえて、国家的性格、国家的課題、国家的価値を獲得し、そのことによってみずから国家の一機関となるべきであるとか、そのようなことが可能であるとかいうような誤った教えを、われわれは退ける。】

 以上、ナチスの価値観によって国全体が覆われていた中、告白教会は、聖書信仰に立って、国家とは何か、国家の役割は何かを明らかにし、それから逸脱することは神の御心ではないことを明白にし、関連して教会が注意するべき事柄についてはっきりとした意思表示をしたのです。

◆(終わりに)キリスト者の社会的責任

 

 本日の使徒たちとの関連が分かりにくかったかも知れませんが、キリスト者は神が立てた目的に沿っている現実の国家を大事にして、国家が定める秩序に従うように、使徒たちも当時のローマ国家の法律、秩序に従って行動しているのです。このことは、現実の国家、社会との関係についてあまり意識することがない日本のクリスチャンに対して大切なことを示しています。キリスト者は、現実国家、地域を形成する責任を担っていること、そして、それらの現実国家、地域が「人に益を与えるため」に働くように実際に行動すべきということです。具体的に、私たちの国においては選挙によって為政者が選ばれています。自分はキリスト者だから、あまりこの世のことに関係ないというのは明らかに聖書が伝えていることからの逸脱です。そういう責任を果たさないで、この社会は不公正、不平等だと言うことは誤りです。私たちはこの世を形成している責任を持ち、その責任を果たすべきなのです。その責任を果たさないで為政者の暴政を嘆いても筋違いなのです。この箇所はキリスト者は自分が生きている社会に対して責任を持つことを示しているところです。