世の光として輝く教会

■聖書:ピリピ人への手紙212-18      ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。

                                ピリピ人への手紙2:16

 

はじめに 

 今年の年間聖句を昨年の秋頃から祈り考えていましたが、先程お読みいただいた箇所の一節、「いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです」としました。一年で最初の主日礼拝ではこの与えられた聖句から聞き、御言葉を味わう礼拝の一年を始めたいと願っております。

1.        背景 

 ピリピ人への手紙の特徴は「喜び」であり、喜びの書簡と呼ばれることもあります。本日の箇所の終わりでもまさにそんな喜びが響き合っているようです。それはパウロの個人的な喜びではなく、まるでこの手紙を受取る皆と共鳴しあい、増幅していくような喜びだったのでしょう。17-18節、たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。同じように、あなたがたも喜んでください。私とともに喜んでください。私は喜ぶ、あなたがたとともに喜ぶ、あなたがたもともに喜べ。4度も「喜び」という言葉が使われています。さぞかし、恵まれた状況、心配事が何一つない順風満帆な中で書かれた手紙かと思いきや、この手紙を書いたパウロは執筆当時、投獄されていたということが分かっています。今日の牢屋のようなものではなかったようですが、当然自由は制限され、彼の今後は処罰を定める人々に委ねられていたのですから、不安があって当然です。新年早々ですが、やっぱり先を見て、何の道筋も見えないと私たちも不安になります。新しい年を迎えても、あまり期待できない、どころか不安ばかりが増えていくということもあるでしょう。17節「信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となる」という表現は、彼の福音宣教のゆえに命を落とすことがあっても、という意味です。投獄された身で、その宣教のゆえに死というものが現実的に近づいてきている。こんなパウロの状況を考えるならば、私たちが考えるような「喜び」は生まれるはずもないように考えてしまいます。

 一方でこの手紙を受取るピリピの教会はどうだったかといいますと、やはり「あなたがたとともに喜ぶ」ことなんてできない状況でした。本日の箇所12節では従順が勧められていますが、それは言い換えれば4節にあるような「自分のことだけでなく、他の人のことを顧み」られていない教会の内部事情、分裂にもなりかねない不一致があったからです。様々な問題を抱える中で、利己的な思いや虚栄があった、自分が人よりも優れているという思い上がりがあった事がわかります。教会とはいえ、罪人の集まりなのです。手紙の書き手、受け取り手、ともに喜びとは程遠いところにいるように思えます。しかしパウロはそのような教会に対して、イエス様の従順を示し(6-11節)、その従順にならうようにと勧めるのでした。そこから喜びが生まれてくるからです。

 

2.        救いの達成のために 

 12節をお読みします。こういうわけですからとは、問題を抱えるピリピ教会に対して、パウロがイエス様の従順がどのようなものであったかを教えているところから繋がります。イエス様の従順は、単に自らを低くして他の人々に仕えるということ以上に、真の神様に従うということでした。神様に従順であるからこそ、へりくだり、他者のために生きられたのです。あの十字架の前夜、わたしの願いではなく、みこころがなりますようにと祈るイエス様は、ご自身のすべてを神様に差し出しておられました。それがすべての人のための十字架となり、すべての人を真に生かすための犠牲となったのでした。「信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となる」という先ほどの17節の表現を思うときに、何よりもまずイエス様がそのようになられた事を思い出します。罪人のために犠牲となった、罪も汚れもない子羊イエス様がおられ、この御方が私たちの罪のために世に来られ、身代わりとなって十字架を背負い、屠られた子羊としてささげられたことで神様の怒りは私たちから去った。友のために命を捨てるほどの愛を示してくださったイエス様がおられたのです。イエス様の従順、すなわち神の御姿であられるのにそのあり方を捨てられないとは考えず、しもべの姿をとられたのだから、その愛を受けている私も、あなたがたも、互いに愛し合い、仕え合うのだというのです。まず私たちのためになされたイエス様の従順があるわけだから、イエス様の愛を知ったあなたがたも自分のことばかりを考えているのではなく、他者を顧み、愛し、仕えるようにと勧めるのでした。そうすることが、「自分の救いの達成」につながるというように書かれています。

 このように書いてあると、なにか私たちは自分の努力で救いを達成する、完成させるように考えてしまうかもしれません。これはしっかりとお話しておかなければなりませんが、救いはすでに与えられています。ではなぜパウロがこのように教えるのでしょうか。それは、イエス様の愛の従順に目を向けさせることで、この愛にとどまり続けるということを教えているのです。これほどまで愛しぬいてくださったイエス様の愛から目を離さずに生きるのです。救いに関して人が関われることがあるとするならば、それは、神様が与えようとして目の前に出されている愛を、手を出して受け止めることです。注がれる恵みをそのままボーと眺めているのではなくて、手を出して、その一方的な恵みを受け取る。これが大切なのです。そして救われた後も、その注がれ続けている愛を、受け止め続ける。何か他のものに手を伸ばすのではなくて、この愛の中にとどまり続けるということ。これが、私たちの救いの達成になくてはならないことなのです。いや、この受け止める、つまり差し出された愛が自分のためのものだと信じて手を差し出すことさえも、私から生まれた思いではなく、13節「みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる」神様が、聖霊の働きによって与えてくださったものです。私たちはその愛に応えながら、ときに失敗してつまずくことがあったとしても、神様の愛から離れずに生きていく。そのときに、聖い者へと変えられていき、救いの達成に至るのです。

 これは個人的なことだけでなく、教会にとっても極めて大切なことです。ピリピの教会がイエス様の従順を思い出し、その愛にとどまることで、互いに愛し合い、仕えあっていくことを勧めているのです。教会はキリストのからだであると教えられますが、頭であるキリストにつながっているからこそ、栄養が体中に行きめぐり、成長が与えられるのです。大切なのは、ここにとどまり続けることです。それこそが、成長し救いの達成に至るための大切なポイントです。だからこそ、そんな神のなさることについて、14節、すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさいと言われているのでしょう。不平を言わず、疑わず。なかなか難しいものです。疑い、不平ばかりを言う自分の姿を私たちは様々なところで目撃します。救われた後でもそうなってしまうことは聖書の中でも多く書かれている。あの出エジプト、神様の偉大な救いのわざを見た直後でさえ、人々はつぶやきました。与えられたものに満足できないのです。神様が示される道よりも、もっと良い道があるように思ってしまう。

3.        いのちのことばを握り、世の光として輝く 

 しかし、すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行うということは、単に罪人を縛り付けるためのものではありません。その先に神様が喜ばれる姿、そして、私が私らしく喜んで生きられる本当の姿があるのです。それが年間聖句を含む、15-16節です。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。特に本日覚えたいことは、この箇所です。パウロを通して神様は、この世界がクリスチャンにとって生きやすい世界だとはいっていません。それどころか、曲がった邪悪な世代という物々しい言葉を使っています。イエス様自身、弟子たちを遣わすときには、それは狼の中に子羊を送り出すようなものだと言っています。誘惑は多く、この曲がった時代の流れの中で私たちの歩みも右に左に捻じ曲げられそうになることがあるのです。それを否定してはいません。ただ、それにも負けないでまっすぐに神様のみ前を進むために必要なものを、神様は与えてくださっている。それが「いのちのことば」です。「いのちのことば」とは何でしょうか。まず聖書の言葉、神の言葉と見ることができるでしょう。イエス様もまた、荒野でサタンの誘惑にあわれたときには、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」といわれて、私たちが神の言葉で生きる、神の言葉でいのちが与えられるということを教えておられますから、この御言葉がいのちの糧であると言えるでしょう。しかし私たちは、日々の食事ほどにはこの御言葉の糧、いのちのことばを必要とはしていないかもしれません。改めて、新しい年のはじめに、私たちを真に生かすものは何なのかを覚えたいと思います。

 さらにこのいのちのことば、それは聖書の言葉だけではないように思います。その後の世の光として輝くということと合わせて覚えるならば、このいのちのことばとは、イエス様ご自身であるとも言えるでしょう。イエス様のご生涯の中で、弟子たちのうちの多くの者が離れ、もはやイエスと共に歩もうとはしなくなった、という出来事がありました(ヨハネ6:66)。世の曲がった時代にあって、イエスの言うことが信じきれなくなった、もうついていけなくなったのでした。弟子たちの中にも、ある意味でイエスにつく者と離れる者との分裂があったわけです。イエス様は十二弟子にもお尋ねになりました。「あなたがたも離れていきたいのですか」私たちも度々この声を耳にするかもしれません。それほどに世の誘惑は大きく、私たちは未だ完成とは程遠い、弱さをもっているのです。しかしペテロは言いました。「主よ、私たちは誰のところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」これはヨハネの福音書にある記事ですが、この福音書の始まりは、イエス様ご自身がことばであることが言われています。神のことばである聖書を読み、このいのちのことばそのものであるお方とともに生きることこそが、世の曲がった時代に流されずに生きる秘訣であるのです。更にヨハネは同じく福音書の最初で、この御方は光であると言っています。ことばであり、いのちであり、光であるお方。この御方とともに生きるときにこそ、私たちは曲がった世の邪悪な世代のただ中にあったとしても、世の光として輝くことができるのです。みことばとイエス様である「いのちのことばをしっかり握る」、それは具体的には私たちの礼拝を表しているのではないでしょうか。御言葉を求め、イエス様を礼拝するそのところで、決して私達自身が光るわけではなくて、私たちのうちに生きて働かれるお方が輝いてくださる。ピリピ教会、そしてパウロ自身を含めたすべてのクリスチャンがどこを目指していくのか、それを明らかにしているのであります。

 

4.        まとめ  

 ここにこそ神様が喜ばれる姿があり、そして私たちが、どんな状況の中にあったとしても心から喜び合える姿が生まれるのです。教会の輝きはこのいのちのことばを握るということにかかっています。世の人々はこの教会の姿を見て、この世のものとは違う輝きを感じ、この光を与えてくださった神様を知るのです。そこに喜びが生まれます。あなたがたも喜んでください。私とともに喜んでください。私たちもまたいのちのことばを握り、邪悪な曲がった時代の中で輝きを放つ教会の歩みをまた始めたいと願っています。そしてこの救いの輝きを高く掲げ、曲がりくねった世の中で苦しみ悲しむ多くの方々とともに喜びあう、そんな一年になりますように。