聖霊はともにおられる

❖聖書箇所 エペソ人への手紙 5章15節~21節    ❖説教者 川口 昌英 牧師

◆(序)御霊についての聖書の教え

①一年の終わりの週にあたり、信仰生活を送るうえにおいて重要な役割を果たす聖霊についてみことばから教えられることを願っています。 

 聖霊について考えるうえにおいて、最も大切なのは、表れが違うが、父なる神、御子なるキリストと同じ本質を持つ神と言うことです。(三位一体の神の第三位格) 異端が言うように、神の力や息ではなく、神ご自身であることです。ある神学者は、父なる神、子なるキリスト、聖霊の三位一体の神の本質について、交わりの神と言います。聖霊は、父なる神や御子なるキリストと同じ本質を持ち、同じ目的のために働く、深い交わりを持つ方であるということです。

 聖霊の存在や働きを見直す必要があると強調するあまり、聖霊だけを突出させて、父なる神や御子なるキリストと一体であると明言する聖書から逸脱するような言動、例えば聖霊は、聖書とは別に新しく自分に真理を示された、自分を特別に導かれたと言う人がいますが、却ってそれは聖霊の根本的性質を理解していない姿です。

 真に聖霊に導かれている人は、決して高ぶったり、さばくようなことはせず、むしろ、父なる神、御子が忍耐強く人を愛したように、へりくだり、廻りの人々が真理を知るように愛を持って接するのです。

②父なる神、御子なるキリストと同じ本質を持つ神である聖霊の特徴は、信仰生活の現場で働くということです。

 基本的に一人ひとりに働く方ですが、時にはもっと広く、信ずる者全体のうちに働かれることもあります。(使徒の働き4章31節)

 では聖霊は具体的にどのように働かれるのでしょうか。聖書は次のように言います。聖霊は、まず人々に人生の真理を悟らせます。人が生きるうえにおいて何が最も大切であるか、どのように生きるべきかに気づかせ、信仰に導きます。(ヨハネ16章7節~13節、第Ⅰコリント12章3節) そして、その教えられた真理、神の御心に従って生きるように、それぞれの本質、深いところに働きます。又、人の霊と心を照らすことによってみことばの意味を悟らせ、深く慰め、励まし、そして力づけるのです。(第Ⅱコリント1章3節~5節) 

 

 このように聖霊は、一人ひとりの生涯において豊かに働くことによって、主イエスの栄光を表すように導くのです。(ヨハネ16章14節)

◆(本論) 聖霊に満たされるとは

①では、本日の箇所にもある「聖霊に満たされる」とはどういう意味でしょうか。書簡の他に使徒の働きの中にもこの表現が数カ所出ています。

 「聖霊に満たされる」という意味を考えるうえにおいて、本日の箇所で酒に酔うことと対比的に言われているのに注目させられます。何故、酒に酔うことと聖霊に満たされることが関連して取り上げられているのか。一見、似ているように見えますが、実は正反対であり、聖霊に満たされるすばらしさを強調するためと思われます。人は酒に酔うと節度を失い、抑制がきかなくなり、散漫になり、本来の姿を見失うのに対し、聖霊に満たされるとき、反対に集中し、本当に大切なものに気づき、人への愛が生まれ、そして必要なことを行う力が与えられるのです。困難にぶつかっても逃避せず、恐れないで問題に向き合い、誠実に取り組む力が与えられるのです。

 ではもう少し具体的に聖霊に満たされるとはどういう状態になることでしょうか。そのことについて聖書全体から見て参るつもりですが、最初に主イエスが聖霊について語っているところを見ますと、主は、聖霊が与えられると「人の心の奥底から、生ける水の川が流れでる」と言います。(ヨハネ7章38節) 聖霊に満たされるとき、深い霊の渇きが癒され、喜びや希望、生きる力が豊かに与えられると言うのです。生きる目的、意味が本当に変えられるというのです。

 さらに使徒パウロはガラテヤ書5章において、御霊の実は「愛、喜び、平安、寛容、誠実、善意、親切、柔和、自制」(22節~23節)と言います。聖霊に満たされるとき、このような実を結ぶというのです。これらから分かるのは、聖霊に満たされるとは、一部の人が言うような特別な真理を知る特別な人になることではなく、自分の人生において真に福音を知り、福音に生かされることであり、神を知る前と知った後では人生の中心が変えられることなのです。

②ではもっと具体的に、聖霊に満たされるとき、人生はどのようになるのでしょうか。それを示すふさわしいみことばがあります。よく知られている有名なところですが、「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。」(Ⅱテモテ1章7節)というみことばです。このところは神が与えてくださった聖霊の働きについて語っているところですが、それは同時に聖霊に満たされている人生の姿をも示しているのです。

 第一にそれはおくびょうの霊ではないと言います。表明すべきこと、行うべきことを示されていながら、非難や批判を恐れて自分の殻に閉じこもってしまう生き方ではないのです。 はじめ、ユダヤ人たちを恐れていた使徒たちも聖霊に満たされると(使徒4章8節)、堂々とただこのお方のみが救い主であると宣言するようになっています。(4章12節)

   第二にそれは力の霊です。しかし、それは人を支配したり、奪い取るという意味ではありません。そうではなく、どんな試練、誘惑の中でも倒されない、惑わされない、主にある者として立ち続けることができる力です。キリスト者には主にあって歩もうとするとき、さまざまなものが襲ってきます。全く予測していなかったものもあります。しかし、慰め主なる聖霊がどんなときにもともにいてくださいますからその中でも立ち続けることができるのです。(Ⅱコリント1章4節)

   第三にそれは愛の霊です。人の表面だけや一部だけを見て判断しない、主が見るようにその人を見るようになることです。人の愛はその根底に理由、条件があります。一言でいうならば自分中心の愛なのです。けれども聖霊に満たされるとき、その人の根底にあるものや全体を見ようとする相手中心の愛になるのです。

 第四にそれは慎みの霊です。信仰生活が長くなり、何らかの実が残っても自分自身は、粗末なまた弱い土の器である思いを失わない生き方です。(Ⅱコリント4章6節~7節) 承知のように、初代教会の中で並ぶ者がいない大きな働きをなしたパウロは、信仰生活が長くなるに従って恵みとともに自分自身の罪深さを知るようになり、晩年には自分は罪人のかしらだと言うようになっています。教会の中だけでなく、教会を敵視する側からも最重要人物と思われていましたが、パウロ自身は終生、土の器であると慎みを忘れなかったのです。

◆(終わりに)聖霊に満たされるために

 本日見て来ましたように、聖霊に満たされる(聖霊に導かれる) とは、自分を見失うことではありません。主を信じたその人が強くされ、愛が増し加わり、慎み深くなり、そして主の栄光を表す生き方をするようになることです。

 聖霊に満たされることによって、ペテロがペテロらしく、パウロがパウロらしい生涯を送ったように、本来、神がその人に望んでおられるような人になることです。

 

 聖霊は生ける神として、一人ひとりを真に神にある者として整え、用いようとされているのです。そのために、私たちにとって必要なことは神を心から礼拝し、深い交わりの時を持つことです。聖霊に満たされるために必要なのは、みことばに触れ、祈ることのみです。真の礼拝者となることによって聖霊に満たされ、実を結ぶ者となるのです。いつも聖霊とともなる歩みをしましょう。それこそ、神が与えてくださった幸いな人生です。聖霊にみたされるとはみことばが伝えているものに満たされることなのです。