クリスマスの輝き

■聖書:ヨハネ1章9節、マタイ4章15-16節    ■説教題:『クリスマスの輝き』

■中心聖句:すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。

(ヨハネの福音書19節)

はじめに 

 クリスマスおめでとうございます。クリスマス(Christmas)というのはキリストのミサ、つまりイエス・キリストを礼拝する日というのがそもそもの意味です。世間では様々に彩られ、華やかなこの日ですけれども、この日の本当の輝きはイエス様が生まれられたということにあります。このことを、みなさんとともに覚え、心からのおめでとうを言い合えたらと願っています。

1.        光が来なければならなかった「闇」 

 ヨハネの福音書14-5節には、この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。とあります。この方というのはクリスマスに生まれたお方、イエス様です。本日の9節と合わせて読みますと、この世を照らす光として、イエス様が生まれてくださったのだと聖書は教えているのです。

 イエス様が光として来られたということについては後ほど触れますが、そもそも光が来なければならない地、照らされなければならない所というのは、どういうことなのでしょうか。多くの人はそんな事を考えもしないでしょう。クリスマスに光であるお方が来なければ、この世は闇であるのです。いや、まことの光と言われていますから、まことではない光、光のように私たちの目に映る偽物が多くあり、私たちはそれで明るいと勘違いしている事が多くあります。博士たちは星をたよりに、生まれたイエス様の元を訪ねて礼拝をささげたとあります。この星は、博士たちだけに見えていたということはないでしょう。でも殆どの人々は、この救い主が生まれたことを知らせる星の光に気づかず、日々の生活の、みせかけの光に目が奪われてしまっているのです。

 この、まことの光が照らす世界が闇であるということを考えるヒントになるのが、先程お読みいただいたマタイの福音書の箇所です。もう一度お読みしますと、「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る」。これはイザヤの預言の成就であると書かれていますが、預言者イザヤというのはイエス様誕生のおよそ700年前に活動していた人物です。そんな彼に与えられた神様の言葉が、イエス様の活動開始のときに成就したというわけです。いくつかの地名が並んでいますが、これは地図で見ますとガリラヤ湖の周辺地域であり、イザヤの時代、北イスラエル王国と呼ばれている地域でした。そして大切なのは、イザヤの時代、この地域は戦争で敗れ、強大なアッシリアという帝国によって滅ぼされたのでした。今日でも、戦争は多くの犠牲があり、難民を生み、勝敗に関係なく大きな痛みや悲しみを与えます。これらの地域はまさにそんな、大きな痛みを負い、まだ血が流れ続けているような、悲しみと苦しみのさなかにありました。バビロン捕囚は有名ですが、その前にもアッシリア捕囚というものがあり、これらの地域の人々は家族を失い、生きながらも故郷を奪われ、捕虜とされていったのでした。勝者によって敗者が搾取され、強者によって弱者が痛めつけられるということはいつの時代、どこの国でも同じです。そんな中で、国土も国民の心も傷つき荒れ果てていたのでした。彼らは、闇の中に住んでいた民、死の陰の地に住んでいた者たちと言い換えられていますが、まさに先の希望が見えない暗闇の中に、死を常に近く感じざるを得ないような人々、立ち上がる元気も気力もないくらいぼろぼろに打ちのめされた人々でありました。

 この事自体は今から2700年も前のことですが、しかし人と人、国と国との争いである戦争は今日でもあります。その暴力に翻弄される人も少なくない。いや、より複雑になった国と国同士、あるいは国の内部での紛争に巻き込まれ、いのちを失い、家族を失い、故郷を失い、希望を失っている人は多くいるのです。先日召されました方に、アフガニスタンで30年以上にもわたって医療を続けてこられた中村哲という医師がおられます。国家情勢の大きな混乱の渦中にあり、難民が多く、その上深刻な飢饉が襲ったアフガニスタンで診療所を開き、やがて一つの薬よりもきれいな水が必要だということで、井戸を掘り続けたことでも知られています。この方の本を読んでいますと、風邪で命を落としてしまうという現実があるということを改めて見せつけられました。そんな悲惨が、今なお、確かにあるのです。水道をひねれば飲水が出るというのがどれほど貴重なことなのか。私たちの国が食べられる食品を捨てている一方で、食べることができずに飢餓で苦しみ、死んでいく人々、あるいはまさに死の陰に座り込んでいる人々がいるということがあります。しかし私たちは、その暗い部分を見ないようにして、見せかけの明るさの中を生きているということがある。今日の世界が抱えている大きな問題です。子どもたちでもこの矛盾に気づいています。

 世界大のことを考えるまでもなく、私たちの日常の中にも、分かっていてもどうすることも出来ない暗い部分、なるべく見ないようにしている闇はあります。それは自分と誰かの関係の中で出てくるものがあります。武器を持って殺し合ったりするということがなくても、人間関係の中で様々な困難を抱えている人は少なくありません。自分をよく見せなければならない、遅れを取ってはならないと、肩肘張って生きていることがある。人と自分を比べて優劣をつけることで自分の立ち位置を確かめなければ、自分の価値を見いだせない、やっていけないことがあります。家族さえも愛することが出来ず、反対に、家族からも愛されているという実感を受けられずに、自分の人生、自分自身を肯定できない人々は大人・子供を問わずたくさんいます。

 さらに他者との関係だけでなく、自分と向き合う中にも暗い部分があります。飢餓や飲水の心配がなくても、心が渇いていたり、満たされていないということに気づくことはないでしょうか。何か自分の中心に穴が空いているような虚しさを感じることがあります。人は生まれた瞬間から死に向かっていると言われることもありますが、誰もがたどり着く「死」を光という人はあまりいないでしょう。どこか暗いイメージがつきまといます。その死を前にして、あるいはいつもどこかで死を感じながらその陰で生きるときに、不安になり、これまでの人生は何だったのだと足もとがぐらつき、焦ることもある。国と国、人と人、そして自分自身の中にも、まるで戦争の後のような荒れ果てたところ、自分では癒やすことの出来ない傷、誰にも分かち合えないような希望のない暗闇があるのではないでしょうか。

 一人の例外もないということは、「すべての人を照らす」と言われていることからも分かります。照らされなくても良い人はいない、すべての人が照らされなければならないのです。聖書はこの暗闇を罪と呼びます。私たちは罪と聞くと悪い行いのことを考えますが、でもその一つ一つを生み出すものが私の中にある。荒れた地からは良いものが生まれないように、罪の心からは良いものが生まれないのです。光である神様から離れている者は、みなこの暗闇の中にいるのです。私たちの犯す一つ一つの行いに対処してもきりがなく、後悔して反省してもまた同じことを繰り返してしまうことがあります。その根っこにある罪をなんとかしなければならない。その暗闇をまことの光で照らされ、まことのいのちを取り戻さなければならないのです。

 

2.        光が世に来られた意味 

 だからこそ、イエス様がまことの光としてきてくださったのです。私ではどうしようもない闇に打ち勝ち、死の陰、暗闇の中に住んでいた私をその光で包み、いのちを与えるために、イエス様は来てくださった。「死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る」この光は、私たちの悪事を暴き、自分でもしたくないと思っている罪を見せつけて私たちを苦しめるような光ではありません。確かに、罪を有耶無耶にせずに、直視しそれを悲しみ、悔い改めることは必要です。しかし、ただ私たちを痛めつける光ではないのです。暗い夜が終わり、太陽が昇ってくる、朝の光に包まれて世界が色を取り戻していくような、優しく暖かな光です。イエス様が生まれられたクリスマスにはたくさんの賛美が生まれていますが、ザカリアという人の賛美はこうです。「これは私たちの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。」ここでも「曙の光」と言われ、一日の始まり、新しい朝の始まりの光が輝いています。今日は二人の方の洗礼式がもたれますが、自分の罪を見つめ、心から悔い改め、クリスマスの日に光として生まれてくださったイエス様を信じて生きる、その始まりの日です。自分の中に嫌なところ、見たくもない暗い部分がたくさんあり、誰にも言えず誰にも見せないようにと隠しているものも多いけれども、それさえも包み込んでくださるお方とともに生き始める、そのスタートの日なのです。

 先程のザカリアの賛美では、曙の光が訪れ、「暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く」とあります。このクリスマスの光、まことの光に照らされたならば、私たちの足、すなわち私たちの歩みは、平和へと進むのです。ここでの平和は平安とか安心とかとも訳される言葉です。もともとのギリシャ語では、満ち満ちた様子を表す言葉だそうです。戦争があった地には平和がおとずれ、他者との関係の中で疲れ傷ついていたものには平安が与えられ、自分でも自分を肯定できない者には安心が与えられる。この光に包まれるならば、傷は癒やされ、飢え渇く者には満たしがあるのです。まことの光であるイエス様は出会うとき、私たちはこの光りに包まれて変えられる。見せかけだけの光では届かない心の深いところの闇を照らし、新しいいのちを与えてくださるのです。

 

3.        まとめ  

 今日の交読文、詩篇の冒頭をもう一度お読みして終わりにしたいと思います。主は私の光。私の救い。だれを私は恐れよう。主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。主は私の光。まことの光を知らない私たちが暗闇の中で孤独に生き、見せかけの光だけで生きていることを、神様は放っておかれずに、イエス様を世に与えてくださったのです。それほどまでに私たちは愛されています。望みが見えなくなる時、光として私たちを照らすために来てくださった方のことを思い出してください。この光は、闇に打ち勝つ光です。すべてのものを照らすまことの光です。今日お集まりのお一人お一人が、このクリスマスの輝きを知り、その喜びに満たされますように。