恵みとまことに満ちた方

❖聖書個所  ヨハネの福音書1章1節~18節     ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖説教の構成

◆(序)使徒ヨハネが記す主イエスの姿

①マタイやルカが御子の誕生について詳細に記すのに対し、ヨハネは、その出来事そのものについて記していません。象徴的表現で神の御子がこの世に来られたことを表現しています。

 ❶「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。」(9節) 

 ❷「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(14節)  

 

 ❸「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(18節) など。

 

 

②救い主の誕生に関して、登場人物や場面や起こったことではなく、先のような記述をしているのは、次のような理由があります。ヨハネがこの福音書を書いたのは、主イエスの昇天後、約50年以上も経った後であり、主の誕生の経緯、様子についてはマタイやルカによって記され、教会の中に定着しており、改めて書く必要がなかった、一方、主イエスについて教会の中に影響力がある誤った教えが入りこんで来ていたことから、主イエスはどのような方であり、何のために来られたのかをより明瞭に伝える必要があったのです。(20章31節) そのため、主イエスはどのような方であるのか、私たちに何をなしてくださったかをあらためて伝えるために、先にあげたような特別の言い方をしていると思われます。では、中身を見て参ります。

◆(本論)御子は、ことばであり、光である

①ヨハネはまず、主はことばであったと言います。新約聖書が書かれた元々の言語、ギリシャ語ではロゴスです。そして「初めに、ことばがあった。」と、元々、存在する方であったと言い、続いて「ことばは、神とともにあった。」と、この方は、父なる神とともに、親しい交わりのうちにおられた方と言い、そして「ことばは神であった。」と、この方は、神ご自身であったと強調します。更に、2節~3節で、この方は初めから神とともにおられ、すべてのものをお造りになった神であると強く言っています。

 この箇所は、気づいている方も多いと思いますが、旧約聖書、創世記の冒頭「初めに、神が天と地を創造した。」(1章1節)を思い起こさせる記述です。救いの御業を成就するために世に来られた方が父なる神とともに、天地万物を創造され、御心のうちに治めておられる神ご自身であることを強調しているのです。

 ヨハネが主をことば(ロゴス)と表していることについて、さまざまな解釈がなされています。「父なる神とともにおられる知恵であり、力であり、豊かな愛を持つ方」であるとか、「父なる神とともに創造の御業を行い、宇宙全体を支配しておられる方」を表しているとか、さらに「全て世にあるいのちあるものの基であり、存在の目的である方」を表しているといった考えなどです。いづれもこの世のすべてをお造りになり、意味あるものとなし、治めておられる至上の存在だということです。それがことば、ロゴスという意味です。

 ヨハネは、主はロゴスであると言うことによって、主のご降誕は、神の御子の到来という人の想像を超えた重大な出来事であると伝えているのです。誰がこの地上の全てのものをお造りになり 、深遠な知恵をもって治めておられる方自身が、罪深い生き方をしている人を救うために、みずから人のかたちをとってこの地上に来られると想像できるでしょうか。どれほど真理を追求をする哲学者でも考えつかないことです。いや、むしろ人の歴史や現状を深く知る者は却ってそんな奇跡は信じられないのです。このように人間の知恵では考えられないことを、神はなして

くださったとお生まれになった方はロゴスであると言うことによって伝えているのです。そして、当時、教会の中に入り込み、誤った信仰に引きずりこもうとした、キリストは神ではなく、敬虔な人であったとか、反対に神であったが、完全に人となられたのではなく、人のかたちをとったように見えただけであり、十字架の死と復活は神の性質が離れた抜け殻にすぎなかった、それゆえ、救われるためにはその方を信ずるだけでは足りず、特別の知識が必要であるという誤った教えに惑わされないようにしなさいと言うのです。

 真のロゴスである方が、人としてこの地上にお生まれになり、生涯を送り、最後には人の罪のために、十字架の死を受けて三日目に甦られた、この方によって人間の真の問題である罪の贖いが成就したのである、そのめぐみとまことに満ちておられた方が生まれ、人の社会の中に来られたことを世界の全ての人はしっかり受けとめなければならないと言うのです。

 

②続いて、ヨハネは、主は光、まことの光であると言います。そして、4~5節において、そのまことの光は人を照らし、いのちを与える方と言います。対比して、人々から特別の人物と思われたバプテスマのヨハネを取り上げ、ヨハネ自身は、人を照らし、いのちをもたらす光ではなく、光について証しするために来た人であると言います(7節~8節)。 バプテスマのヨハネをとりあげているのは、イスラエルの人々に大きな影響を与えた人物であるからです。しかし、彼自身は、まことの光ではなかった、ただ、光について証しする「燃えて輝くともしび」であったと言うのです。厳しく人々の罪を指摘し、悔い改めを迫り、多くの人々の心を神に向けさせたが、人々を闇の中から救い出し、いのちを与える光ではなかったと言います。

 それに対し、神でありながら人としてお生れになった方は、人々の暗闇を照らし、暗闇を消滅させ、生きる道を示し、暖かさをもたらし、喜び、平安、希望を与えたまことの光であったと言うのです。公生涯を開始し、神の国の到来、福音を宣べ伝え始めた時について「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。闇の中にすわっていた民は大きな光を見る、死の陰に住んでいた者たちの上に、光が昇る。」(マタイ4章15節~16節) と言われています。闇は死の陰に住む者を覆っています。このみことばは、周辺国と国境を接し、異邦人との交流が盛んに行われていましたが、さまざまな偶像が入り込み、霊的には全く希望がない地と思われていたガリラヤから主が御国の到来を宣べ伝え始めたというところです。そんなガリラヤから、主が神の時が来たと伝え始めたのは偶然ではありません。暗く、寒い、よごれた家畜小屋の中でお生まれくださったことと同じように、本当に真の希望を失っていた人々の暗やみを追い出し、照らし、生きる道を示すためであったと示しているからです。

 

◆(終わりに)ことば、光である方と私たち

 古いアメリカでのこと、大きな罪を犯し、死刑判決を受け、執行を待つだけの人がいました。しかし、それには背景があり、同情の余地があることが知られ、沢山の嘆願状が寄せられ、再調査を命じた大統領から遂に恩赦状が出たのです。しかし、その恩赦状を届ける役人がそれを忘れてしまったのです。気づいて慌てて届けると、少し前に死刑になっていたということでした。

 

 ことばであり、光である方が来られて人の想像をはるかに超える恵みを示し、すべての暗やみを追い出し、生きる希望を与えてくださったのです。人の根本、又中心である罪に対して、完全な赦しと神のもとに迎えられる新しいいのち、いわば確かな恩赦状が発せられているのです。しかし、世の多くの人々はその事実を知りません。私たち自身も誰かによって、この恵みを知ることができたのです。それなのに今それを自分のポケットにしまっているのではないでしょうか。救い主の誕生というすばらしい恩赦状を届けましょう。ことばである方、光である方がすでに来られているのです。今年のクリスマス、一人でも多くの方と心から共にお祝いする時としましょう。