二つの名前

■聖書:マタイの福音書11825節    ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。(マタイの福音書121節)

 

はじめに 

 アドベント、待降節の第二週となりました。本日は、クリスマスに生まれたお方の二つの名前が登場する箇所を開いています。最初に申しますと、それは別々のことではなくて補い合い、神の子が人として世に来られたということの意味を教えてくれる二つの名前であります。マタイはイエス誕生の経緯を語るところですが、実際には、私たちがよく知る、住民登録のために故郷であるベツレヘムに来たとか、馬小屋で生まれたとかは書かれていません。出産そのものではなく、むしろ「イエス」という名前をつけるということに重きが置かれているようです。「イエス」、そして「インマヌエル」という二つの名前から、クリスマスの本当の喜びをまた味わいたいと願っています。

1.        「イエス」という名前 

 本日の箇所、先程お読みいただいたマタイの福音書118節は、イエス・キリストの誕生は次のようであった、と始まります。これからイエス誕生の経緯を語ろうとしているのですが、しかし実際はもう始まっていると言えるかも知れません。前の部分には、人の名前がずらずらと記されている「系図」があります。イエス・キリストの誕生の前にわざわざこの系図が置かれているということは、イエス様が確かに人間の歴史の中に、まことの人として生まれてくださったということを意味しています。大工であったヨセフという父を持ち、マリアという母を持ち、このような人間の歴史の中で生まれてきたということをマタイは伝えようとしているのです。先ほどともに賛美しました「エサイの根より」という曲も、まさに人間の歴史の中で生まれられたイエス様を歌っていました。

 ところが一方で、この誕生はやはり特別なものでもありました。18節、イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。婚約中であるにも関わらず、マリアは胎の実を宿したのです。当時のユダヤ社会では、法律的には二人は夫婦となっています。およそ一年の婚約期間を過ごし、その後、花婿が友人たちとともに花嫁を迎えに行くという風習だったようです。法律上は夫婦ですから、続く19節で「夫のヨセフは」と言われているわけです。将来の結婚を見据えて、それぞれで備えている期間にマリアが身重であることが発覚したのでした。「分かった」という言葉は、判明したという意味で、少しの緊張感が含まれているようです。どのようにして「分かった」のかは記されていませんし、これがどのくらいの時期のことかもわかりません。おそらくはマリアが、ルカの福音書に記される御使いとの出来事を自分の口で説明したのでしょう。しかしヨセフは、その言葉を信じられなかったようです。19節、夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。信じられなかった、と申しましたが、この箇所には、マリアへの疑いや怒りは感じられません。あまりのことに受け入れられず、信じきれず、混乱していた、という方がふさわしいかも知れません。マリアを通して御使いが告げた言葉などを聞いていたでしょうが、「どうぞおことばどおり、この身になりますように」という信仰は持てなかったのです。目に見える現実として、マリアはヨセフの知らない子どもを身ごもっており、しかし目の前の婚約者が嘘をついているとも思えず、でも日に日にお腹は大きくなっていくため人の目はごまかせない。そんな中で彼は思いを巡らしていたのでした。もし婚約中、婚約者以外の異性と関係を持つことがあれば、それは姦淫の罪として石で打たれる死刑にあたると定められていました。神様が定められた結婚の「聖さ」を損なう罪として、厳しく禁じられていたのです。そんな中でヨセフができることは、この婚約を解消し、彼女を去らせることでした。もちろん、離縁した後の身重なマリアと父親のわからない子どもはどうするのかという問題は当然解決されずに残っていますが、少なくとも石打ちは免れる。裏切られたという失望や怒りからではなく、なんとかして彼女を守るために、この道だけが残されているように思ったのでした。そこに御使いが現れます。

 20節、彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」思いを巡らし、離縁しようと決めた後でもまだスッキリとはしていないもやもやがある中で、主の使いが夢に現れたのでした。恐れずに、と言われていますから、思い巡らすヨセフには恐れがあったのです。それも当然でしょう。この先どうなるかわからない状況で、どうすることが正解なのかもわからない。その恐れるヨセフに御使いが告げたのは、マリアが身ごもっている子どもは、「聖霊による」ということでした。このことは、三位一体の神様がされたことである、と明らかにされたのです。18節でも「聖霊によって身ごもっている」とありましたから、マタイがこの事実を強調していることに気付かされます。系図によって、歴史の中で、まことの人として生まれたことを伝える一方、しかしその誕生は聖霊によるという、私たちとは全く違った誕生であることを伝える。使徒信条でも、「主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ」とありますから、とても大切な一言です。そして聖霊による、神様がそれをしたのだと言われるときに、そこには目的がある事も合わせて伝えられるのです。

 聖霊によると言われるそれ以上に、御使いが告げた男の子につける名前こそが、恐れて迷うヨセフを立たせたのだと思うのです。冒頭でも触れましたように、その誕生が具体的にどこで、いつ、どのようになされたのかということをマタイは詳しく書いていません。その名前をつける経緯と、実際にその名前をつけたということに光が当てられていますから、この名前が最も重要な意味を持っているのです。マリアが身ごもる子どもの名はイエス。特別に珍しい名前ではありません。ヘブル語ではヨシュアと発音され、旧約聖書にも出てくる名前です。意味は「主は救い」、あるいは「主なる神は救いである」というもの。聖霊によって生まれる子は、「主は救い」という名前をつけられる子なのでした。

 親となった人が様々な願いや感謝を込めて子どもに名前をつけるのとは違い、神様が、神は救いそのものであるという名をつけるようにと言われたということには意味があります。このマリアが身ごもった子を通して、救いが実現させるという約束の意味があるのです。なぜ、イエス「主は救い」という名前をつけるのか、さらにその理由が続きます。新改訳が訳していない細かいニュアンスも含めますと、「その名をイエスとつけなさい。なぜなら、この方こそ、ご自分の民をその罪からお救いになるからです」。ここには明確に、妻の身ごもる子が「罪からの救い」をもたらすから、この名をつけよと言われます。当時のユダヤ人はローマの圧政に苦しんでいました。ユダヤ人が待ち望んでいたメシアは、何よりもまずローマからの解放を与えてくれる者であると信じて疑わなかった。しかし、御使いが告げるのは、人間の勝手な誤解や期待の一切を排除するようにはっきりと語られた、罪からの救いです。人々が願っていることに応えるご利益宗教のようなものではなく、さらに更に深いところにある、解決されなければならない問題、すべての人間が持っている、根っこにある問題の解決です。罪は的外れと言われ、罪人は何のために生きているのか、何をして生きるのかを知らずに滅びへ向かっている。神様の目にはすべての人がそうなのです。マリアの胎にいる子どもは、その罪からの救いのために来られたお方であり、ローマ支配下にあるユダヤ人なんて小さなスケールではなく、今日を生きる私たちをも含めた「罪からの救い」であると言われるのです。この重みを何度でも思い出したいのです。ある本の中で、宗教改革者ルターの説教が紹介されていました。

  あなたは、このイエスという文字をどんなに大きく書いてみても、それで十分だということにはならないでしょう。このイエスという御名を造っているひとつひとつの文字でさえも、そのひとつで全世界に勝るとさえ言うことができるのです。ここでよく学んでいただきたいことは、この御名がどんなに高く貴い御名であるかということなのです。この御名に勝るいかなる良いものも、この世には存在しないのです。あるのはただイエスというこの御名だけなのです。なぜかと言えば、この文字の中には、初めからすべての人の罪が含まれてしまっているからです。…おお、悪魔であろうが、人間であろうがかまわない。誰が私に論争を挑もうとも、いつもこういうことさえできたら負けはしない。この幼子の名はイエス!

「この御名に勝るいかなる良いものも、この世には存在しないのです。」という一言を、心に刻みたいと思います。神様が与えてくださったこの名前を持つお方は、罪人である私をなんとしてでも救おうという神様の愛の現れにほかならないのです。改めて、この素晴らしい名を持つお方が生まれられたこと、そしてその名のとおりに救いを与えてくださったことの喜びを思わずにいられません。

 

2.        「インマヌエル」という名前 

 さらにマタイは続けます。このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。急に始まったことではなく、約束されていた救い主が、あなたがたから生まれるのだと言われるのです。そしてもう一つの名前が登場します。「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。もう一つの名前は「インマヌエル」、「神が私たちとともにおられる」という意味です。ヨセフにとって、婚約者であるマリアが身ごもっているという事実は大きな恐れとなりました。それはユダヤ社会では許されないことであり、社会全体を敵に回すことにもなります。律法で禁じられていることですから、神様にも背くことであると正しい人であるヨセフは悩みに悩んだのです。しかし、他でもない神様から、聖霊によってわたしがこのことをしたのだと告げられ、イエスという名前からは人の罪を赦し、罪人を救うための子どもであると約束されたのです。そして「わたしがあなたとともにいる」という励ましと慰めを与えてくださった。たとえ全世界を敵に回したとしても、わたしがともにいる。だから恐れるなと声をかけてくださっているのでした。

 注意深くこの23節を見ますと、先程のイエス、「主は救い」という名前は神様がつけるようにと命じられたものですが、インマヌエル「神が私たちとともにおられる」という名前は、イエスを見た人々が呼ぶ名前だと言われます。先程のイエスは神様が与えられた名前ですが、インマヌエルはそのイエスと出会った人々の讃美のような応答です。名は体を表すと言われますが、人々はこのイエスを見て、あぁ、神様がともにおられるのだと知るのです。それは喜びのときだけではなく、悲しみの日、孤独を感じ、この苦しみは誰もわからない、わかるはずがないと一人で泣いている時にも、その傷つく心に寄り添い、ともにおられるということです。ともに喜び、ともに泣いてくださるお方なのです。人として世に来られたイエス様は、罪は犯さなかったが、あらゆる点で私たちと同じように試みにあわれた。だから私たちの弱さに同情できない方ではないとヘブル書で教えられています(4:15)。高く遠い所から見下ろすのではなく、救いを求める罪人を訪ね、助けを願う弱く小さい者の隣に寄り添うために世に来られ、すべての罪人のために十字架の死を遂げられたお方がイエス様であり、インマヌエルと呼ばれるお方なのです。救いそのものである主(イエス)が、ともにいてくださる(インマヌエル)という恵みがここにあふれています。

 このインマヌエルの名は、誰よりもまず、このことで悩みに悩んだヨセフと、実際に子を宿したマリアが、喜びをもって呼ぶ名前であったでしょう。周りの目は好意的ではなかったはずです。様々な疑いの声があり、その冷たい眼差しに不安になることもあったでしょう。さらに大工の子どもとして生まれた、小さく力のない赤ちゃんを人々は歓迎しません。子どもたちの劇の中では、住民登録のためにベツレヘムに来たヨセフを拒む意地悪な宿屋を熱演していますが、人々は、いや、罪人の私たちはこの方を受け入れないのです。ヨセフやマリア自身の中にも色々な疑惑や不安が出てきても決して不思議ではない。けれども、ヨセフとマリアはそれらのさまざまな攻撃を感じながらもなお、温かいクリスマスを過ごしたことと思うのです。「イエス」と「インマヌエル」、この二つの名前に込められた素晴らしい恵みと喜びを、誰よりも先に受け取ったのです。後にイエスに出会った人が「安心していきなさい」と言われたように、何ものにも揺るがされない強さと安らぎが、この二つの名前には込められているのです。

 

3.        ヨセフの信仰・応答  

 最後に24,25節をお読みします。ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。ヨセフという人は、この後はほとんど登場しません。名前だけが23回出てくるだけです。けれども、やはりこの人もまた、神様によって用いられたひとりでありました。そして、その子の名をイエスとつけた。イエス様の誕生そのものを、マタイはほぼこの一言に込めています。御使いの告げた言葉、この子は聖霊によって生まれた、主の救いを成し遂げるお方である。神であられるのに、この人の歴史の中で人として生まれてくださったお方を通して、神は私たちとともにいてくださることを知るのです。ヨセフはそれに応答して、イエスと名前をつけます。私たちもまた、「イエス」と「インマヌエル」の名前を静かに思い巡らす、そんなクリスマスを過ごしたいと願います。世の荒波は激しくとも、ときに私たちを厳しく痛めつけ、時に甘い言葉で惑わしてこようとも、私たちを罪から救うために世に来られ、神が私たちとともにおられることを教えてくださるイエス様の深い愛の中を歩んでまいりましよう。