王ではなかった

❖聖書個所 マルコ10章35節~45節      ❖説教者 川口 昌英 牧師           

◆(序)キリストの誕生とこの世

   アドベント第一週の今週はクリスマス、神の御子がこの地にお生れくださった目的について、みことばから共に教えられたいと願っています。

 よく話しますが、アメリカの著名な聖書学者がクリスマスのテレビ番組に出演した時のことです。冒頭、司会者がクリスマスの物語は、まことに美しく、世の人々は、幼子イエスがお生まれになるのを待ち望んでいたと口火を切りました。

 何人かが発言し、その人の番になった時、こう言いました。はじめの司会者の発言にふれて、「それには反対です。世の人々は、首を長くして幼子イエスを待っていた訳ではありません。そうではなく、反対に世の人々は、自分自身のことで忙しすぎて、キリストがお生まれになるための部屋すら提供しようとはしませんでした。そのため、主は家畜小屋の中でお生まれになったのです。それだけでなく、もし、神が御使いたちを送って羊飼いたちに告げず、又、星によって東方の博士たちをパレスチナに導かれなかったなら、だれ一人、キリストの誕生に気づかなかったのです。」そして続けた。「今も同じです。人々は、自分のことに気を取られるだけで、クリスマスの楽しみにふけりながら、幼子イエスについて短く口にするだけです。本当のキリストに関心を払う人はほんの僅かしかいません。人は今も尚、彼のための部屋を造ろうとはしないのです。」

 

 これを聞いて出席者は黙りました。待降節第一週のこの日、皆さんとともに、世に溢れる華やかなクリスマスではなく、神が与えてくださったクリスマス、華やかではないが、しかし、恵みに満ちたクリスマスを心に覚えたいと願います。

◆(本論)仕えられるためではなく、仕えるために

①本日の箇所は、主ご自身がこの地上に来られた目的について話しているところです。特別に扱われることを願ったヤコブとヨハネに腹を立てた他の者たちに、神の国は異邦人、神を知らない人々のように支配者が権力を振るい、上に立つという世界ではない、神の国は人の先に立つ者は人に仕える世界であることを明言してご自分について話しているところです。

 福音を伝える中で次のようなことがありました。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1章15節)と福音を伝えていた時、民衆が主を王にしようとしたことがありました。(ヨハネ6章15節)  権力を振るい、多額な税を課し、苦役を強いる実際の王と対照的に悲しむ者、苦しむ者とともに歩み、惜しみなく愛を注ぐ主の姿を見て、民衆が自分たちの王になって欲しい、自分たちを治めて欲しいと願ったのです。

  分かるような感じもありますが、民衆が求めていたのは、例えば戦前ドイツの自分たちの民族を誇り、反ユダヤ主義、反共産主義に凝り固まったナチズムに同調した「ドイツ的キリスト者」と言われた者たちが唱えたものに似ています。救い主が十字架につけられて死ぬという弱々しいキリスト教ではなく、力強さにあふれた積極的キリスト教、民族の力やその歴史や文化の優越性によって世界を導き、神の国にするという考えを主張したのです。王、権力者としてのキリストを熱望したのです。もっともらしく聞こえますが、聖書が伝える主が来られた目的ではありません。聖書によって自分たちの考えを主張しているにすぎません、聖書、神のことばからの大きな逸脱です。ちなみにそんな考えは一時大きな注目を浴びましたが、すぐに泡のように消えました。

 聖書に戻りますが、人々から王として力をもって国を治めて欲しいという願いを受けた時、主はただひとり、山に退き、父なる神の御前に祈る時を持ったと聖書は記します。神ご自身であり、神の御子であるご自分が人のかたちをとって、この地上に来たのは王になり、人々から仕えられるためではなく、人の真の問題である罪の贖いのためであること、そのために自分を無にして、仕えるために来たことを行動で示したのです。(ピリピ2章6節~8節参照)

②そんな主の御心は最後の時により明らかです。主の十字架の場面について聖書は次のように記します。死刑判決を受け、引き渡された主に対してローマ総督の兵士たちは、主イエスを取り囲み,着物を脱がせ、緋色の上着を着せ、いばらの冠をかぶらせ、右手に葦の棒を持たせ、そしてひざまずき、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」とからかい、また、主につばをかけ、葦をとりあげて頭を叩きました。さらに十字架につけた後も「もしおまえが神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りてこい。」(マタイ27章40節)とののしりました。

   しかし、そんなあざける行動に対し、主は黙ったままでした。それどころか、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか。分かっていないのです。」(ルカ23章34節)と祈っています。罪と死の支配の中にいる人が一人も滅びることなく、永遠のいのち、本来の神にある真の人生を送る者になるという神のみこころを行うために来たことを明らかにしたのです。

③主が王となるためでなく、罪よりの救い主として来られたということがどれほど重要なことか、再度考えてみましょう。聖書の言う罪は、観念の世界のことではありません。気にする人だけが気にすればよいというものでもない、また清い人生を望む人々だけの問題でもありません。全ての人の根本にある問題です。聖書は一貫して人が生きるうえにおいて最も大きな問題は罪であると言います。真の神、創造主との関係が壊れている、いや、自分から壊していることです。存在の中心、基準が自分になり、歪んでいることです。それゆえ、こどももおとなも自分を受け入れることも、他の人を認め、赦すことも出来ず、生きる目的も分からず、真の平安も希望も持つことができないのです。そして過去の罪に縛られ、死を異常に恐れるのです。また社会全体に争い混乱が満ちているのです。   

 今も多くの人は聖書の言う罪、創造主との関係が壊れている状態を重視していません。罪と言う場合、不道徳、不品行などのことを思い浮かべ、それで終わるのです。重要な罪の本質について深刻に考えません。人や社会の根底にある問題とは考えない、特に人間の自由を重視する考えに立ち、人間は神から解放された、今だに神を信じているのは暗愚なことだという近代以降、聖書が伝える世界観、創造、堕落、贖い、完成(終末)といったものを頭から否定するのです。

 主イエスは、生きるうえにおいて困難をもたらしているものは人の外側の問題である、例えば肉体や精神の弱さ、家族や周りの者たちの問題、社会の不公正であると考えることに対して、神の御子、救い主として真の問題は内側にある、いのちを与え、愛しておられる創造主から背をむけた罪である、わたしはその根本問題である罪を贖う、罪の代価を全て支払い、神のもとに買い戻し、神にあって生きる者となるために、人々に仕えるためにこの世に来たと言われるのです。(マタイ11章28節~30節) 

◆(終わりに)苦難のしもべとしての生涯を送られた主

 主は栄光の姿を捨てて、この世に来てくださいました。しかし、その誕生を歓迎し、お祝いした者はごく少数でした。また、その最後は奴隷や重大な犯罪人を処刑する十字架刑による死でした。主の誕生の700年前のイザヤが預言したように「彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」という通りでした。(53章2~3節)

 

   今でも主にこの世界の王になって欲しいと願っている人々がいます。信仰的に見えるがそれは聖書が伝えることではありません。主は人々の王となり、治めるためにこの地上に来たのではない。人を愛してその罪を贖うためにへりくだり、この地に来られたのです。それによって私たちにいのちが与えられたのです。私たちに求められているのは主を王とし、言葉で敬うと言いながら、自分のために利用することではなく、罪よりの贖い主として、本当に迎え入れているか。中心を変えてくださる方として迎え入れていますか。クリスマスを祝うとはこの方を中心に迎え入れることです。これ以上、救い主として来られた主を閉め出してはならないのです。