キリストのからだの成長

■聖書:エペソ人への手紙416節    ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。(エペソ人への手紙416節)

 

はじめに 

 週報にもありますように、本日は金沢中央教会の創立記念日です。67年目、67歳の誕生日、とでも言えるでしょうか。教会では毎月誕生者紹介を行っていますが、それぞれのお話を聞く中で、その人がこの一年をどのように過ごしてきたか、またどのような一年を期待しているのか知ることができます。中央教会もこの創立記念の日に、これまでの歴史の恵みを数え、これからの歩みを思い巡らし、期待するということになればと願っています。特に17日は臨時総会があり、役員選挙や主任牧師交代の議事を扱います。そのときに、今日の説教題にもしましたキリストのからだ、すなわち教会の成長ということを新たに覚えたいと思うのです。

1.        キリストのからだの成長 

 最初に、教会とはどのようなところなのかを考えたいと思います。みなさんにとって教会とは、どんなところでしょうか。本日の箇所には「からだ」という言葉が出ていますが、実は既にエペソ書1章ではこのように言われていました。122節「また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」かしらはキリスト、教会はそのかしらにつながるキリストのからだなのです。これを理解する助けになる箇所もお読みします。

 ヨハネの福音書15章には、最後の晩餐の席でイエス様が弟子たちに語られたぶどうの木の話しが登場します。ぶどうの木から切り離された枝は、当然ながら実を結ばせることが出来ません。そのまま枯れていくだけです。必要な栄養は届けられませんから、それだけで生きていくことは出来ないのです。しかしイエス様を信じることでこの木につながるならば、そこにいのちが行き巡る。そしてその流れ込んでくるいのちによって、枝は太く強く育ち、実を結ばせることができるのです。いきなりぶどうの木に話が飛んで分かりづらくなってしまったかもしれませんが、これもまたイエス様が弟子たちに話された、イエス様と私たちとの関係を表す大切な表現です。そしてキリストのからだにしてもぶどうの枝にしても、イエス様につながるところに本当のいのちがあるということを教えているのです。イエス様はご自身のいのちの恵みにあずかるように、私たちを招いておられる。イエス様を知らない、信じていない人は、ぶどうの木につながらずに、でも生きている、自分は自分で何でもできると信じているのです。罪人である私たちは、生きているつもりでも、もう滅びがすぐそこにあるような虚しい存在でした。そこに本当のいのちはないのです。でもそんな、ただただ枯れゆく私たちにいのちを与えるために、イエス様は十字架にかかって死なれ、そしてよみがえられたのです。それは自らの罪を悔い改めてイエス様を信じる者が、イエス様とともに死に、そしてイエス様とともに生きる「真のいのち」を得るためでした。そうやって救いの道を開いてくださったのです。

 イエス様に繋がり、イエス様のいのちに満たされている一人一人が、遠くまで枝を広げるぶどうの木であり、そしてかしらにつながるキリストのからだなのです。つまりこの「キリストのからだ」には「いのちがある、生きている」ということがポイントであり、そして生きたからだとして、成長があると教えているのです。本日は聖餐式がありますが、何か、暗い印象を受けられる方もあるかもしれません。十字架で裂かれたイエス様の肉と流された血を覚えての式であり、それは私たちの罪のためでありますから、もちろん間違いではありません。けれどもそれ以上に、死んでいた私たちが、この真のいのちにあずかっているんだという恵みをおぼえ、感謝し、喜んで聖餐式を迎えたいものです。

 

2.        あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされる教会 

 さて、こうしていのちの主であるイエス様につながったキリストのからだ、教会ですが、そこに集う一人一人は、皆が同じ顔をしているわけではありません。一つのいのちを共有しているわけですが、しかしそこには、非常に豊かなバラエティがあるのです。そしてそれが、キリストのからだの成長にはなくてはならないとエペソ書を書いたパウロは言っています。

 本日の箇所の少し前、11節からお読みします。こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを立て上げるためです。一人一人に神様からの賜物とそれに基づく務めが与えられており、それらは教会に連なる聖徒たちを整えて、奉仕の働きをさせ、キリストのからだを立て上げるために立てられたものであるのでした。さらに第一コリント12章では、一人一人に聖霊によって与えられている賜物の違いを教えながら、その一人一人がからだにとってはなくてはならない大切な部分であると教えます。「からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成って」おり、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、一人一人はその部分なのです。」このような箇所を読みますと、キリストのからだと呼ばれる教会の結びつきが、人の好き・嫌いによるのではなくて、まさに本日の箇所の冒頭にあった「キリストによって」という一点にかかっていることが分かります。それぞれになくてはならない存在なのだと気付かされるのです。教会は建物や単なるサークルのようなものではなく、キリストにつながる、いのちを共有する、生きた集まりなのです。

 

3.        それぞれの部分がその分に応じて働くことによる「成長」 

 この、同じいのちの恵みにあずかるキリストのからだ、教会は成長すると言われています。教会の成長と聞きますと、どうしても教会員の数が増えたり、その規模が大きくなったりということを想像するのではないでしょうか。たしかにそれも大切なことでしょう。神様を知らずに、切り離された枝のように滅びに向かっていく人々が、イエス様の十字架を信じて、イエス様に繋がれていく、いのちの恵みを共に預かる。それは教会に与えられた使命でもあります。

 しかしからだの成長ということを考えるときには、単に大きくなると言うだけでなく、成熟していくというポイントも忘れてはいけません。先程411-12節をお読みしましたが、さらにその後、13-15節もお読みします。私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。

 成熟の一つは、間違った教えに吹き回されないということです。新しいいのちを与えられた私たちは、新しく生まれた、ということでもありますから、ご飯をしっかり食べなければ大きくなれません。日毎のパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つひとつの言葉、すなわちいのちの糧である御言葉に日々親しみ、祈りを持っていくことが求められます。私たちの生活においても当たり前のことをしっかりすることが大切なのです。私たちはやがて、かしらであるキリストに似たものへと変えられていくと聖書は教えます(ローマ8:29)。まさに洗礼はそのスタートです。いのちを与えられた枝はいきなり太くなるのではなく、それまでに受けた傷や痛みを回復し、徐々に太く、強くなります。いきなり実を実らせることはないかもしれませんが、それは目には見えないくらいゆっくり、少しずつの変化かもしれませんが、キリストにとどまり続けることで、確実に、成長してくるのです。

 さらに16節では、「その分に応じて働くことにより成長」するとあります。「それぞれの分」というのは、先程もお話しましたように、神様に与えられている賜物、務めであると言えるでしょう。キリストのいのちのゆえに組み合わされ、結び合わされた私たちですが、それはみな違った一人一人です。そこには当然強さがあり弱さがあります。賜物といいますと、何かできること、良いことを考えがちではないでしょうか。楽器ができる、外国語が話せる、このような能力がある。たしかにそれらは賜物ですが、でもそこだけを見ていると、見落としてしまう大切な存在があるように思うのです。先程も開きました第一コリント1217節以下では、もし、からだ全体が目であったら、どこで聴くのでしょうか。もし、体全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。…それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。とハッキリ教えます。他より弱く見える部分が、かえってなくてはならない。私たちの目では、それは何の役にも立たないと思えるようなものも、時には自分でも、自分に価値が見いだせない、自分なんてなんの役にも立たないと思ってしまうことがあります。けれども神様が、特別なご配慮の中で与えてくださっているものなのです。そう考えますと、私たちの教会にも生まれたばかりの子どもから年配の方までおられますし、からだの強さ弱さ、立場や職の違いは多くありますが、本当にお一人お一人がなくてはならない大切な存在であるということを思わされます。誰かと比べるのではなくて、神様の目には「あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言われていることを思い出すのです。

 そんな違いがある私たち一人一人が「それぞれの分に応じて働く」。私は今回の説教の備えの中で、この「分に応じて」と言われていることがずっと心に残っていました。私の、私たちの分はなんなのかを静まりの中で問い直すことが必要だと思わされているのです。そのためには、私が神様の前で、何ができるのか、何をしなければならないのかを知らなければならない。分を超えて、ではありませんから、私に今与えられているものが何なのか、いま、神様に用いていただけるものは何なのかを祈り求めていくことが必要なのだと思うのです。これまでのことを否定して、あれは間違っていた、やるべきではなかったとするのではなく、67年目の今、神様に求められていること、キリストのからだとして為すべきことを見つめ直し、与えられているいのちの恵みに応える、そんなときになればと願っています。

 

4.        まとめ  〜キリストによって、愛のうちに建てられる教会 

 教会の成長は、キリストのからだの成長であります。冒頭で誕生日の話しをしましたが、子どもの成長というものを、親は願います。それは何かができるようになるとかだけではなくて、健康に大きくなることであるとか、のびのびと自分らしく育つようにとか、そんな願いです。私はそういう親の眼差しが、父なる神様からも向けられているように感じます。だからこそパウロは、本日の箇所の最後で「愛のうちに建てられることになります」と結んでいるのではないでしょうか。イエス様の十字架によっていのちが与えられたキリストのからだは、まさにその初めから愛によって産み落とされた存在です。愛する独り子を十字架につけるほどの愛を持って永遠のいのちを与えてくださった。ここに教会は始まるのです。その愛によって生まれた教会は、その愛の中で育まれ成長していく。イエス様の成長過程について聖書は多くを教えていませんが、唯一、こう表現しています。「イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった」(ルカ2:52)。これは2017年版の訳ですが、これまでのものでは「神と人とに愛された」、とあります。成長は、神からの愛、そして、神の愛を知る人の愛の中で育まれるものです。キリストのからだは一つの部分が苦しめば共に苦しみ、一つの部分が尊ばれればともに喜ぶ(1コリ12:26)愛の交わりの中で育まれる。私たちの教会も、キリストの愛に留まり続け、今私たちが何を為すべきか、何ができるのかを静まって思い巡らし、また新たにキリストのからだとしての歩みを初めてまいりましょう。