主の順序

❖聖書箇所 使徒の働き16章1節~10節          ❖説教者 川口 昌英 牧師

◆(序)この箇所について

① パウロにとっては二回目の伝道旅行です。前回箇所で見たように、律法の知識や行いによらず、「信仰による義」が教会会議で確認されていよいよ確信に満ちて出かけています。

 

 パウロは、この二回目の旅において、まず、以前に福音を伝えた地方を訪れています。信じた者たちがどうしているかを知り、彼らを励ますためでした。この箇所には三つのことが言われていると思います。一つは、これからの異邦人伝道を共に担う人物たちが加わったことです。二つ目は、5節にあるように、異邦人地域でも教会が順調に成長していることです。三つ目は聖霊の導きによってエーゲ海を渡り、ヨーロッパ伝道が始まったことです。

◆(本論)大きな前進に備えて

①まず一つ目のことですが、ルステラでパウロは、有望な青年、ユダヤ人を母、ギリシャ人を父にもつ、その地方の教会に評判のよかったテモテに出会いました。祖母ロイス、母ユニケから純粋な信仰を受け継いだ人物でした(第二テモテ1章5節)。パウロはこのテモテを伝道旅行に連れて行きたいと思い、彼に割礼を受けさせました(3節)。この問題について厳格であったパウロには考えられない判断であり、人々は驚きましたが、この時は誤解される余地がないことから、ユダヤ人を配慮して、テモテに割礼を受けさせたのです。

 パウロは、原則は厳しく守りますが、具体的な状況では柔軟に対応する人物でした。そんな自分の考えについて、第一コリントにおいて、多くの人々を獲得するため、何とかして何人かでも救うために、すべての人の奴隷になったと言っています(9章19節~23節)。

 続いて、もう一人の大切な人物と出会っています。やがて仲間に加わり、後に福音書、そしてこの使徒の働きの著者となった歴史家であり、医者であったルカです。そのことは、16章の始めの方では、パウロたちの一行を「彼ら」と呼んでいたが、11節からは「私たち」という表現に変わったことから分かります。

 テモテにしても、ルカにしてもパウロの伝道の生涯にとって最後まで力となった人々です。二人はなぜ、この働き、異邦人伝道に加わるようになったのでしょうか。それぞれに対する聖霊の導きですが、賜物があり、他の面でも活躍が予想された彼らが伝道者として立ち上がったのはなぜか。それについて聖書は何も言っていませんが、私は、二人が福音のすばらしさによって大きく心が揺さぶられていたことに加えて、特にパウロの姿勢に影響されたものと思います。

 福音のためにすべてささげ、命を懸けて、異邦人伝道に取り組んでいたパウロの姿です。この世的な栄誉を求めず、一人でも多くの異邦人が福音を知り、主の救いを知るために全力で取り組んでいた姿勢です。本当に主のために生きている姿は、多くの人々の人生に大きな影響を与えます。

 

②注目すべき二つ目は、異邦人の地域で教会が成長していることです(5節)。私たちは当然のように読みますが、しかし、それは注目すべきことなのです。なぜなら、実際は容易ではないからです。変わらず、福音、信仰による義に強く反対するユダヤ人の攻撃が依然としてありましたし、また、その地にはそこに住む異邦人の神々が大きな影響を持っていたからです。私は、それは日本の田舎の状況を思い浮かべるとよく分かると思います。かならず神社があり、そして地域をあげて祭りが行われています。そこに住む者にとってはそれから離れ、まことの神を信じる信仰を告白することは地域から関係が断たれる恐れがあるのです。そんなところでクリスチャンとして生きるのはさまざまな困難があり、信仰生活を続けることができず、教会から離れる人々が出て教会が衰退してもおかしくないのです。しかし、実際は、パウロたちが去った後でも、その地域において諸教会は、信仰を強められ、日ごとに人数を増して行ったのです。

 再びパウロたちが来て福音を伝えたからですが、それだけではありません。先に信じた人々によって福音に触れて異教の神の虚しさに気づき、福音こそ、ユダヤ人もギリシャ人もなく、すべての人にとって真の救いであると分かった人々が多くなったからです。福音の奥義を知り、大げさではなく、全世界の全ての人のためであると深く知ったからです。異邦人の神々を中心として生きる人々の中でクリスチャンたちが本当の喜びと希望、平安を持った生活を送り、やがて廻りの人々にも影響を与えるようになっていたからです。

 主を信じる者たちが増え、みことばによって生きるようになる、言い換えれば教会が成長するために大切なのは、そこにいる一人ひとりの信仰です。この地の人々は第一次の伝道旅行の時にはっきり回心したのですが、少数であり、圧倒的な異教やユダヤ教の力が強い中でこの先どうなるのだろうかと危ぶまれていましたが、教会は消えるどころか、信じる者たちが増えていたのです。信じる者たちが聖霊によってみことばを深く宿していたからです。このことは、困難と思われている日本に生きる私たちにとって考えさせられることです。教会が成長するのは、異教の神々を恐れず、みことばを心の中に抱く人々が多く出現するすることによるのです。生まれたばかりの教会は小さかったのですが、いのちがありましたから、困難なところでも教会は成長したのです。

③注目すべき三つめは、聖霊によって、これ以上、アジアでみことば、福音を語ることを禁じられ、幻に導かれ、エーゲ海を渡り、ヨーロッパであるギリシャのマケドニヤに渡ったことです。この出来事は、キリスト教伝道の歴史上、特筆すべきことです。初めてヨーロッパに福音が伝えられたからです。余計なことですが、今でも多くの人々がキリスト教は、ヨーロッバの宗教と考えています。しかし、このところから分かりますように、キリスト教は中東で生まれ、小アジアに伝えられ、そしてヨーロッパに伝えられたのです。

 ともかく、聖霊は、これ以上アジアでの伝道を禁じ、新たな(聖霊による)幻によってギリシャ、マケドニヤ伝道を示したのです。そして、パウロたちは、これらの一連の出来事に対して、このことは主から出ていると確信したのです。なぜ、マケドニヤに渡ることが主からのものと確信したのでしょうか。第一に、行こうとした道が何度も閉ざされたからであり、第二に幻を示され、深く静まり、祈った結果、主の御心と受けとめたからです。その幻に対して、いや、これは違うと考えることもできたのですが、そう思わないで主からのものと受けとめたには理由があります。

 まず、具体的に道が開かれていたからであり、続いて、大きな視野に立って思う時、非常に納得できる理由があったからです。さらに、信頼できる仲間たちの意見が一致したからです。

 聖書は何も書いていませんが、パウロたちは話し合い、これこそ、主のビジョンと確信し、思い切ってエーゲ海を渡ったものと思われます。私たちも決断するときに主からのものと受けとめることができるかどうかの基準になるのは、実際に妨害がないか、道はひらかれているか、そのところを進む時に主からの平安があるか、そして信頼できる人々が理解、賛成してくれるか、どうかです。彼らは、これらにより、確信が与えられましたから、新しい地に踏み出したのです。

 

◆(終わりに) この箇所から何を教えられるだろうか。

 

 こうして、この箇所では次に進むために必要な備えがなされて新しい段階に入ったことが言われています。主のために献身する有望な人々が起こされ、また異邦人教会が成長していたことがあって、ヨーロッパ伝道の道が開かれて行ったのです。私たちは、ヨーロッパ伝道の開始というキリスト教の大前進は、偶然ではなく、信仰による義についての一致、ふさわしい人々の献身、また異邦人教会の成長があったことを忘れてはならないのです。それは現代の教会、個人においても同じです。神の時は、聖霊が導きの中で示してくださるのです。神の道が開かれる時は誰にもわかりません。私たちに必要なのは、主の民として日々を深い平安と希望を持って生きることです。