隣人となるために

■聖書:ルカの福音書1025-34節   ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」(ルカの福音書1034節)

 

   はじめに 

 世界食料ディが今週16日にあります。週報にも記されていますが、私にできることは何だろうかということを、毎年覚えます。もちろんこの日だけでなく、この日から、それぞれ置かれた場所にあって何ができるのかを考え、一歩を踏み出す。そんな出発の時になればと願っています。しかし同時に、なかなかそれを出来ない私たちの心があることも事実です。日々の忙しさの中で、助けを必要としている人がいることを知りながら、なかなか行動に移せない。愛することに鈍いものです。本日与えられているみことばから、私たちが他者とどのように向き合うのか、教えていだきましょう。

1.        本論① 

 本日は有名なイエス様のたとえ話を先程お読みいただきました。「善きサマリア人」というタイトルが付けられるお話です。たとえ話ですから、何かの伝えたいメッセージがあり、それをふさわしく届けるためにこのたとえを用いているわけです。きっかけにはこのようなやり取りがありました。25-29節。 「先生、何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」彼は永遠のいのちを求めていたようです。ここで「受け継ぐ」と言われているのは、アブラハムの子孫に約束されていたものを「受け継ぐ」ということだったのでしょう。しかし彼が心からそれを望んでいて、イエスにすがりついてきた、わけではないようです。彼はイエスを試みようとしていましたし、あとでは「自分が正しいことを示そうとして」イエスと会話を続けます。自分は正しいとして、イエスを試そうとしていたのです。彼は律法の専門家でしたから、神様がイスラエルに与えられた律法、のみならず、事細かに生活を規定した律法に精通し、それを実行していた。だからこそ、自分は正しいと信じて疑わなかったのでしょう。こう聞くと、鼻持ちならない人だなぁと思われるかもしれませんが、しかし私には、彼のような姿に心当たりがありました。神様を礼拝し、そのことばを聞くために教会に来るわけですが、いつしか自分がそれを素直に聞いていない、評価していることに気づいたことがあるのです。自分があたかもその上に立つかのように、試みている。特に外部の教会に行くとき、何かの集会に出る時でしたが、あー今日のメッセージは良かった、恵まれたと思う一方、今日のお話はいまいちだった、あんまり響かなかったなと、評価する。聖書を読んでいても、自分の思い、自分の正しさを握ったままみことばに聞く(ふりをしている)ということをどれだけしているだろうか。ひょっとするとこの律法の専門家のように、自分の中でもう正しい答えを持っていて、その上でみことばを聞いた風になっているのではないか、そんな自分に気づいたのです。へりくだって聞く、あるいは聞くためにこの心を整えていただく祈りの必要を思わされています。

 彼の中には律法の知識がありました。イスラエルの民たちが守るよう命じられた律法の要約が、「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』」であることを知っていたのです。出エジプト記を連続して開いている中で、今は十戒をひとつずつ学んでいます。十戒もまたこの2つの戒めに要約されるということはお話してきたとおりです。いずれにしても、たしかに正しい知識でもあったことはイエス様も認められるとおりです。28-29節。イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」彼にも思惑はあったようですが、とにかく実行に移るためにこのように尋ねるのでした。「私の隣人とはだれですか」。みなさんは誰を思い浮かべるでしょうか。イエス様は、その対象を具体的に思い浮かべ、その「隣人」に対して、愛の実行を求めておられます。もう少し言うなら、ここでイエス様は「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか」と尋ねられ(26節)、彼自身がこの律法をどのように受け止めているのかを聞いておられます。ただの知識的な正解ではなく、どう理解しているのかを問うておられるのです。

 もちろん聖書全体が教えているメッセージは、この愛の実行によって救われるのではなく、救われたからこそ、愛の実行ができるということです。けれども、とにかくイエス様は実行の大切さを教えておられます。しかし、です。少し先取りになりますが、この問いに答える形で話されたたとえ話の結論は、「だれが隣人になったと思いますか?」「行って同じようにしなさい」ということです。だれが?との問いに対して、「あなたが隣人となれ、隣人として同じようにせよ」と言われているのです。きちんと答えていない、といいますか、少しねじれがあるようにも感じられます。これこれこういう人があなたの隣人ですとは教えなかったということに、意味があるのではないでしょうか。その辺りに注意しながら、たとえの部分を見てまいりましょう。

 

2.        強盗に襲われた人と、祭司、レビ人、サマリア人 

 30-32節、イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。とても危険な場所だったようです。この人は半殺しにされ、体はボロボロでした。祭司はたまたま通りかかったと言われていますから、普段は人通りが少ないのでしょう。そこへ現れた祭司やレビ人というのは、旧約聖書で神様に仕えるための特別な役割を担っていた人々です。ユダヤ人にとっては尊敬すべき人々、当然律法の専門家にとっても、敬意を払う人々だったのです。ところが、そんな人々はこの傷つき倒れる人、だれが見ても助けが必要である人をそのままにするのでした。もう死んでいると思ったのかもしれません。血は汚れたものであるとされていましたから、自分たちの宗教上の正しさを盾に、関わり合うことを拒否したのかもしれない。何回も読んだことがある箇所ですが、本日の説教の備えの中で、祭司とレビ人、そのどちらも「反対側を通り過ぎて行った」と書かれていることに特に心が留まりました。「反対側を」とありますから、できるだけの距離をとって、通り過ぎていく。マザー・テレサは、愛の反対は無関心であるといいましたが、ここにもそれに近いものを感じます。道の反対側を行く人々は、愛とは程遠い、正反対の歩みをしている。しかも立ち止まることも、助けるか迷うこともせず、あたかも先を急ぐかのように、自分も巻き込まれるのはゴメンだと言わんばかりに、足早に通り過ぎるのでした。目の前に倒れている人よりも、大切にしているものがあるかのようです。

 私たちはどうでしょうか。傷ついている人、今にも死にそうな人々がいることを分かっているにも関わらず、反対側を通ろうとしていることはないでしょうか。イエス様の問いかけを思い出すならば、「誰が私の隣人か」という問いに答えずに、「あなたが隣人になるように」と命じておられる。しかし私は隣に駆けつけるどころか、道の反対側を、立ち止まることもせず、気遣うこともせず、自分のことで精一杯になり、自分の正しさにすがりついて自分を守ることばかりしていないかと思わされるのです。盗賊に傷つけられた彼は、通り過ぎる二人の背中を見て更に傷つき、孤独を感じたのではないでしょうか。

 そんな時、傷つき失望や孤独を感じるこの人に、一人のサマリア人が近づくのでした。ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら。私が帰りに払います。』盗賊に襲われた人が何人であったかは書かれていませんが、近寄った人がわざわざ、サマリア人と書かれていますから、おそらくはユダヤ人だったのでしょう。サマリア人とユダヤ人は敵対していました。もともとは同じアブラハムの子孫ですが、北イスラエルと南ユダそれぞれの王国に別れた内、北イスラエルの民たちは捕囚の際、囚われていった地で外国人と関係を持ち混血になっていました。アブラハムの子孫として「永遠のいのちを受け継ぐ」ということから脱落してしまったと、片割れであり、純血を守ったユダヤ人たちは考えていたのです。つまり律法の専門家にとってこの譬えは、当然いのちを受け継ぐべき祭司やレビ人が通り過ぎ、隣人を自分自身のように愛せなかったのに対して、いのちを受け継げるはずがないと考えていたサマリア人が愛の実行をなしたと認めざるを得ない行動をしたのです。

 もちろんこれはたとえ話ですが、愛の本質を表しているとされます。イエスを試み、自分の正しさを示そうとして専門家は「私の隣人とはだれか」を問うのですが、それは彼が考えつく範囲での「となりびと」を探していたに過ぎない。言い換えるならば、自分は自分の正しさの中にとどまったままで愛せる範囲での人を探していたのです。しかしイエス様が示された愛は、律法を理由に血は汚れているとして道の反対側を通り過ぎて行った祭司やレビ人のようではなく、敵対していたはずの関係を超えて注がれる愛でした。ユダヤ人にとっては救われるはずもないサマリア人が表した律法の実践です。しかも、手厚く介抱し、2日分の賃金に相当するデナリ二枚を宿屋の主人に渡して、帰りに不足分を払うことまで約束する徹底ぶりでした。神様を愛する際に命じられる「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして」ということが、一人の人を愛するときにも現れているようです。祭司やレビ人が自分自身を愛し守ろうとしたのに対し、このサマリア人は自分自身のようにこのユダヤ人を愛し、隣人となった、とも言えるでしょうか。だからこそイエス様は言われるのです。この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」サマリア人ですと答えなかったのは、彼の中にまだ、敵対する民族であるサマリア人を認めたくない思いがあったからでしょうか。しかしその愛は認めざるを得なかったわけです。同時に、これを実行すればいのちを受け継ぐということの、あまりの難しさを知ったのではないでしょうか。

 

3.        問題の解決はどこにあるのか 

 このたとえを聞いて、そもそも問題の元である強盗をこらしめなければ解決ではないと言う人がいるかもしれません。結局はまた傷つく人がでるのだから、この問題の本質を解決しなければ駄目だと議論を始める人もいるでしょう。ある意味で、一人の傷ついた人を助けるということは対処療法に過ぎず、問題の大きなことは何も変わっていないかもしれない。特に世界の飢餓や貧困を考えるときにも私たちは同じようなことを考え、途方に暮れるのです。何をしても無駄じゃないか、意味がないのではないか、と思ってしまう。そうやって二の足を踏んでいる間に、物事はどんどん流れていき、日々の生活の忙しさの中に時間は過ぎていく。思いは薄れていく。祭司たちのように、関わりあいになることを疎んじて、次の目的地を目指して道の反対側を通り過ぎていく。そんな自分がいます。人の痛みに鈍感で、自分を守ることばかりに心を配る、罪人の本質がここに顕著にあるのだとハッとさせられます。そんなのはきれいごとだ、みんなそうやっているじゃないか、と思われるでしょうか。

 しかし、そんな世の中の声が聞こえるときに、何度でも思い出したいのです。まことの人として世に来られたイエス様はどうだったのか。本日の箇所での「となりびと」という存在は、イエス様のことを一番良く、そしてふさわしく表す言葉のように思います。上から見守るとか、遠いところから愛を語るのではなくて、となりに来て、寄り添って下さるおかたです。神である方なのに、その姿を捨てられないとは考えず、私たちと同じ人として世に来られた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(マルコ2:17)と言われた言葉を思い出します。自分の力ではどうすることも出来ずに死んでいく者のために、イエス様はとなりびととなられたのです。自己中心に生き、神様に敵対する者のために十字架を負われたのだということを覚えるならば、盗賊に襲われ、様々なことで傷つき、孤独を感じ、死んでいこうとする旅人とは私であり、そんな私のために、イエス様がまず隣人となってくださった、ということに気づくのです。自分の正しさの中にとどまっている者には、決して出来ないことだと思い知らされます。「行って、同じようにしなさい」というイエス様のチャレンジを、私たちはどのように受け止めるでしょうか。私は、イエス様が私の隣人となられた、愛してくださったということを知らなければ、私たちが誰かの隣人になり、愛するということは出来ないんじゃないかと思います。言い換えるならば、イエス様の愛を知り、イエス様ご自身が隣人になってくださったということを信じている者だからこそ、律法の中心をふさわしく聞き取り、受け止め、神を愛し人を愛する生き方、神に仕え人に仕える生き方ができるのです。

 

4.        まとめ  

 世界の困難を知りながら、道の反対側を通り過ぎていくのではなくて、たとえ小さな働きかもしれなくても、それでもイエス様の愛を知るものとしての生き方をしたいと強く思わされます。それは世界の困難という大きな問題だけでなく、私たちの国、地域、家庭や置かれている場所にあっても求められている生き方ではないでしょうか。そんなことをして何になるのだという自己中心な自分の考え、世間の考えにとらわれることなく、「行って、同じようにしなさい」と言われるイエス様の声を聞き、歩んでいく一人一人、そして金沢中央教会であるようにと祈ります。