律法と福音

❖聖書箇所 使徒の働き15章22節~41節       ❖説教者 川口 昌英 牧師

◆(序)この箇所について

 本日の箇所は、エルサレム会議の結論を異邦人の教会、シリアのアンティオキア教会に知らせている場面です。パウロとバルナバのほかに使者として立てられたユダとシラスが28節~29節にあることが伝え、その教会に大きな喜びがあったと記されているところです。

 

 この箇所には、もう一つ、パウロがバルナバに二回目の伝道旅行を提案し、バルナバも合意したものの、一回目の時に離脱したマルコを連れて行くかを巡ってパウロとバルナバが激しい議論を行い、とうとう袂を分かったことが記録されています。そのことについては、以前の礼拝説教において山口牧師が詳しく語りましたから、本日は、再び私たちの信仰の本質である「信仰による義」について集中してみて行きます。

◆(本論)譲ってならないこと、譲って良いこと

①異邦人の救いに関して、契約の民となることを意味する割礼を受ける必要はない、また律法を意識し、守らなければならないということはない、ただ、律法に親しんでいるユダヤ人クリスチャンの気にさわるような行いを避けるべきという結論は、この時だけでなく、キリスト教の歴史全体において非常に重要な意味を持っています。

 この時は、異邦人の救いや信仰生活に関する問題でしたが、後になると、救われることについての福音と律法の関係といった問題となっていったのです。難しい言い方をしましたが、私たちもこういうことがありませんか。主イエスの十字架の愛を信じて、自分もクリスチャンになりたいけれども自分のこれまでの姿や今の姿を思うと救われるとは思えないと感じることです。あるいは、信仰告白しているけれども、誘惑に負けて自分でも嫌だと思うようなことをしてしまったら神の恵みから落ちている、もうクリスチャンではないと思うことです。

 ここで問題となったことは、実は、多くの信仰者が悩み、苦しんだことがある問題であり、今も現実に悩んでいる問題なのです。

 キリスト教会の歴史において、この福音と行い、律法の問題は、たえず繰り返されています。実際にはっきりと解決がついたのですが、どこでもいつでも問題になる可能性が多いことから、パウロは後にこれを主題にして書簡を送り、教会としての考えを明確にしています。ガラテヤ3章1節~9節などです(朗読)。

 そのように教会会議の結論がはっきり出て、また聖書において主の御心が明確に打ち出されていますが、しかし、2000年の教会史において何度も問題が繰り返されています。

②たとえば、初期の教会の歴史において、義認の教理を巡ってアウグスチヌスとペラギウスの論争というものがありました。紀元4世紀ころです。救いの教理全体に関する非常に重要な意味を持った論争です。

 面倒くさい、今の私たちの信仰と関係ないと思われるかも知れませんが、実はとても身近な論争です。少し難しいかも知れませんが、この論争を見て行きますが、ペラギウスは救われるために「神人協力説」という考えに立ちました。人間には理性と自由意志が与えられており、それらによって神の恵みに応えて救われるという考えです。それに対して、アゥグスチヌスは、人は最初の人、アダムが神に背いたことにより、その罪の性質を受け継ぎ、自分の意思を働かせることができない。ただ、神様のあわれみ、愛と恵みによってのみ救われるという考えです。

 繰り返すように、聖書は、信仰による義を明確に現しているのですが、ペラギウスの考え、人間はアダムの罪の性質を受け継いでいるのではなく、自分の意思で神に背いているのだ、それゆえ、救われるためには神の恵みの他に個人の意思、行動が必要であるという考えは、人々の心に響き、大きな問題になったのです。そんな考えが影響を与えるようになったことに対して、教会はあらためて聖書の全体的理解に取り組み、アウグスチヌスの立場に立つことを表明したのです。

 本日の聖書の箇所と関係ないように思えるかも知れませんが、ここで異邦人も割礼を受けなければならない、信仰生活の中心に律法を置かなければならないという考えは、人の側の善い行動、人の側でも神にふさわしい者にならなければならないという考えに通じるのです。本当に、自分の罪に気づき、どうすることもできず、ただ、一方的な恵み、主の愛を受け入れるだけで良いという考えを否定するのです。

 しかし、そんな、人間の堕落、罪の状態を限定的に見て、救われるためには人間の側の意思や善い行いも必要であるという考えは、教会の歴史においてたえず繰り返されています。

 カトリックはもともと、人間の側の考えや善い行動を重視する考えがありますが、ルターやカルヴァンによる根本的な教理や教会制度を新たにした宗教改革を経験した私たちプロテスタントの側でも、近代の教会においてアルミニウス主義を巡っての論争があります。

 アルミニウスも先ほどのペラギウスと同じように、人間は自分で自発的に自分の救いを意思することができると考えたのです。この時も、全体としてアルミニウスの考えは否定されましたが、今尚、その考えはプロテスタントの有力教派に影響を与えています。そして、素直に言って、皆さんの中にもこの考えに惹かれている人がいるのではないかと思います。救われるためには人間の側の意思や行動が必要であるという考えです。

 これほど、この箇所でとりあげられていること、問われていることは、全く同じではありませんが、ただ神の恵みのみか、それだけではだめで人間の側の行いも必要とする考えは、教会の歴史において絶えず、いつでもどこでも繰り返されています。ですから、私たちもまた、我らの救いは、ただ信仰による義という立つことが大切なのです。

③では律法は何のため、与えられたのかという問題が残ります。もちろん、神の民として歩むためですが、しかし、神は、人がこれらの律法を守り、行うことによって神の義を得ることができると想定していません。なぜなら、人間の罪を知っておられたからです。律法の要約である「力の限り神を愛することも隣人を自分と同じように愛すること」ができない存在であることを知っていたからです。

 では何のために律法が与えられたのか。それは、神の義を示し、人が律法によって自分の罪を知り、砕かれ、神が与えたキリストによる救いに導くための養育係(ガラテヤ3章24節)としてです。律法は神の御心を示しているものであり、それは人には基準が高く、守り、行うことができないものです。神はなぜ守れないものを示したのか、それによって自分の姿、罪の姿をしり、霊的に砕かれ、ただ、神の愛、あわれみに気づくためです。律法は、人の高ぶりが砕かれ、神の愛の高さ、深さ、広さに気がつく役割を果たすのです。養育係とはそういう意味です。三浦綾子さんが律法の意味を知るためにどれでも良いから一つの律法を徹底的に実行する努力をしたみたら良いと言っています。そうすると、自分の姿がよく分かると言っています。そのように律法とは、キリストに示された神の愛に導くための役割を果たすものであり、人間がそれによって神の義を実現できるものではないのです。ここでとりあげられていることは、そんな問題にも通じているのです。

◆(終わりに)私たちが救われたのはただ神の恵み

  この箇所から教えられることは、私たち自身の信仰がどうかということです。私たちは自分が

神の救いを受けるにふさわしい生き方、清い生き方をしていたから神に愛された、神の子とされたのだ、もっと言うならば私は神の愛にふさわしい者だと思っていることはありませんか。もし

 

そう感じているならば、自分の罪、神の恵みを知らない、一人よがりの姿です。神が私たちに与えてくださったのは、罪に生きていた者、神に愛されるにふさわしいところが少しもない者、勝手に自分を基準、中心として生きていた者を、一方的に、最高の犠牲を払ってくださった愛です。神にふさわしいからではありません。神にふさわしくない者であったけれども最も尊い犠牲を惜しまずに与え愛されたのです。ヨハネ3章16節、第一ヨハネ4章9節~10節(朗読)に言う通りです。