信仰の本質

❖聖書箇所 使徒の働き15章1節~21節     ❖説教者 川口 昌英 牧師

◆(序)この箇所について

 

 使徒の働きの続きです。本日の箇所は、パウロとバルナバによる第一次伝道旅行において各地で多くの異邦人が救われ、教会につながるようになったという報告を受けて、最初の教会会議が行われた場面です。

◆(本論)初代教会の重要な問題

 ①神の御子であるイエス・キリストによって、律法によらない、信仰による義が示され、契約の民でなかった異邦人も救われる、神の国に入ることができるようになったことにより、本格的に異邦人伝道が行われ、その結果、各地で多くの人々が救われたことが報告され、彼らを派遣したアンティオキア教会では大きな喜びが湧き上がり、主をほめたたえたのです。

 しかし、すべてのクリスチャンが喜んだ訳ではありません。今まで汚れた民として見ていた異邦人が福音宣教によって救われたことを聞いたエルサレム教会の人々の中に、率直に喜ばない人々がいたのです。

 この人たちは、旧来の律法学者や祭司、バリサイ派が主張するように律法の知識や行いによる義ではなく、主イエスを信じる義によって救われたのですが、律法に慣れ親しんでいましたから、少しも律法の知識がない異邦人が救われたということを聞いて、心配になり、アンティオキアの教会に使いを送り、1節にあるようなことを告げたのです。

 時々誤解されるのですが、これを言った人々というのは、クリスチャンたちです。律法による義を唱え、使徒たちを迫害した者たちではなく、そんなユダヤ人から離れて主イエスを受け入れた教会の人々です。同じ信仰を持つ人々だったのです。

 不思議です。知識や行いによらない、信仰による義によって救われた者であるのに、同じく主イエスによって救われた異邦人クリスチャンに対して、割礼を受け、律法を守ることを要求しているのです。想像するに、エルサレムのクリスチャンからするならば、旧来のパリサイ人のように律法による義を求め、福音による救いを否定しているわけではないのですが、全く律法を無視することはできないと思ったことから、異邦人も神の民の印である割礼をうけ、信じた後、律法を守らなければならないと主張したのです。

 けれども、このことは、異邦人宣教を行ってきたパウロとバルナバにとっては信仰の本質が崩されることであり、指導的な役割を果たして来たエルサレム教会の人々の主張でしたが、決して容認できませんでした。それゆえ、遂にその人々との間に激しい対立と論争が起こり、エルサレムで会議を行い、どちらの主張が正しいか決めることにしたのです。なぜなら、主イエスによって実現した、信仰による義という信仰の本質、根幹に関わることであったのです。

②福音を信じることだけでは足りず、律法も守らなければならないとする、福音と律法の関係についての重要な会議が始まりました。ちなみに救われた者は律法に定められたことを行う必要があるとする考えは、私はキリスト教会のどの時代においても、そして現代のクリスチャン生活にとっても非常に重要な問題であると考えます。特に信仰による義がなかなか分からない日本のクリスチャンにとって大切な問題だと考えます。

 さて、会議の始めに、元パリサイ派(律法を詳しく学び、忠実に行うことによって神の義を受けると信じ、世の汚れから分離して厳しく生きていたグループ)であったが、主を知り、福音を信じて救われた人々が、異邦人クリスチャンについて、彼らにも割礼を受けさせ、律法を守るように命じるべきであると主張しました。強烈な先制パンチでした。それを受け、使徒たちと長老たちは長時間にわたって論争し、一つの結論を出したのです。

 そして、教会の中心的存在であったペテロが立ち、結論を告げました。7節から11節です。(朗読) まず、ペテロ自身が、神様から異邦人も救われ、また聖霊が与えられることを示されたことを

語り、それゆえ、パウロたちの伝道によって救われた異邦人もただ主を信じる信仰による義によって完全に救われている、それなのに、選びの民である我々も律法を負いきれず、ただ福音によって救われた者であるのに、彼らのみにその律法のくびきを負わせようとするのは、神に対して異を唱えることである、神を試みることであるとはっきりと言明したのです。

 全ての参加者が疑う余地がないはっきりとした答えでした。福音にふれる異邦人に割礼や律法のくびきを負わせてはならない、ただ神の愛と恵みによって生きることが神の御心であると宣言したのです。

③この結論を聞いた時、聖書は全会衆が静かになったと記します。これが神ご自身の御心であると受けとめたからです。そして一同はあらためて、パウロとバルナバから異邦人伝道の様子を聞き、多くの異邦人が救われたのは神が働いてくださったことだと確信したのです。

 こうして参加者全体が神様が異邦人宣教の道を開かれたこと、そして福音を信じるだけで完全に救われること、信じる時も信じた後も律法の縛りをうけないこと、ただ、福音にふさわしく生きれば良いということで一致した後、やはりエルサレム教会の長老の一人であったヤコブが続いて立ち、旧約のエレミヤ書から、神に背いていた選びの民の回復と異邦人の救いについて説き明かし、異邦人の救いは、神ご自身が何百年も前から明らかにしていることであると会議の結論を根拠づけ、援護しています。ただし、異邦人の側でも、律法に反することが明白でユダヤ人たちが特に嫌うような事柄については注意して避けるべきだと付け加えています。というのは、ユダヤ人たちは、ローマ世界の至るところでユダヤ人社会を形成し、会堂に集まり、モーセの律法をいつも朗読し、福音のゆりかごである律法に親しんでいるからと言います。いたずらにユダヤ人クリスチャンの反発を招くようなことには気をつけるべきだと言っています。
◆(終わりに)惑わされないために

  こうして、一同が納得するような結論が出て、そして全教会に対して具体的指示がなされ、問題が収まったのですが、実は、現場の教会においてはなお混乱が続いたのです。

 この会議の数年後ですが、信仰の本質を大切にしたパウロがこの問題を主題とした書簡を送る必要が起きました。ガラテヤ書です。その2章を見ますと、エルサレム会議のことが記されています(1節~10節)。続いて、その会議の中心であったペテロその人が不明瞭な行動をし、また一緒に異邦人伝道を行ったバルナバまでが偽りの行動をしたと厳しく非難し、自分は、信仰による義によって生きることを強く言っています。自分が神の子として生きているのは、律法によるのではなく、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によると明言します(2章11節~21節)。

 なぜ、ペテロやバルナバまでがそんな間違った行動をするのでしょうか。そして、現代の私たちもまた、救われるためには、主を信じるだけでは足りない、律法にあるような清い敬虔な生活が必要、また救われた後も、清い生活をしなければならない、そして、一旦罪をおかすならばもはやクリスチャンでないというような考えになるのでしょうか。

 私は、本日のところで問題となっていること、救いに際しても救われた後も律法の定めることをしなければならないという考えは、どこでも、まただれでも影響されやすいものだと思います。

 それほど、神様が与えてくださった「信仰による義」は、聖書の中心ですが、人間の理解を超えた、簡単には分からない、そして、どんなすばらしい人でも油断しているとその恵みからはずれやすいものなのです。この信仰による義がよく分かるためには、ルカ10章のマリヤのように、主の足元にすわり、みことばに深く聞き入り、自分の罪の姿を深く知り、そんな者をも一人子を惜しまないほどに愛してくださる神様の愛を受け入れることが必要です。

 

 それこそ、聖書が始めから終わりまで伝えていることです。信仰による義は、私たちの信仰、教会の本質です。人や自分の内からの声に惑わされないで本質を大切にして日々を歩みましょう。