安息への招き

■聖書:出エジプト記208-11節       ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書1128

 

 はじめに 

 説教題を毎回考えるのですが、もう少しやわらかいものにしてもいいかなと思っています。「安息への招き」は説教の要点を一言で言い表したものなのですが、もう少し砕くなら「ちょっとひとやすみ」とか、「一息入れて」とかになるかと思います。本日は十戒の第四戒、安息日についての戒めから、働くことと休むこと、そして主の日の礼拝について教えられたいと願っています。

1.        六日間の働きと七日目の安息 

 本日の箇所に入る前に、いくつかのことを抑えておきたいと思います。まずは安息日が何曜日なのかということです。10節「あなたの神、主の安息である」と言われる七日目は土曜日のこと。ユダヤ教では今もこの日を安息日とし、集会を守っています。では私たちキリスト教はと言いますと、ご承知のように日曜日を主の日(主日)と呼び、礼拝を守っています。それはイエス様が十字架にかかり、三日目によみがえられた朝を記念してのものです。私たちの新しいいのちの根拠が、主の復活の日、主の日にあるんだということを覚えてこの日に集まるのです。とはいえ、神様が安息日について命じておられることは、曜日が変わっても変わらずに重要なことであります。

 また本日の説教の中でもいくつか他の聖書箇所をお読みしますが、この安息日規定は非常に多くの箇所で取り上げられている戒めです。有名な話ですが、実はこの規定は後の時代になりますとかなり違った理解のされ方をするようになるのです。例えば、安息日には家から何歩以上でてはいけないとか、この日に穴に落ちた家畜を助けてはならないとか。いわば何もしてはいけない日として、事細かに定められ、制限され、受け止められてきたのでした。新約聖書、福音書を読んでいますと、この安息日を巡ってイエス様と律法学者たちが激しく対立しているところを度々目撃します。ひょっとすると私たちも、ここで教えられている安息を勘違いし、そしてこの「安息日を覚え、聖とする」ということの意味を見失ってしまうことがあるのではないでしょうか。安息というのは「心身を安らかに、静かに休むこと」とありました。この意味については後ほどまた見ていきますが、果たして日曜日が、そのようなときとなっているでしょうか。仕事や週日の事柄に追われ、あるいは身体は会堂に来ていても心はさまざまなものに奪われてしまっていることがあります。いや、教会内の様々なことで疲れ、静かに休むということができなくなっていることさえあります。一方で、ではこの日は何もしなければいいのか。布団にくるまって、ひたすら寝ていれば良いのかと言うとそうではないのです。説教題にもしましたが、第四戒は、安息への招きであります。各自ゆっくり休むように、解散!ではなくて、土曜日までの様々な仕事、営み、生活の場から離れて、神様の招きに答えて、神様の安息へと入ることであります。土曜日から、主のよみがえりの日曜日に礼拝の日は変わりましたが、そこには変わらずに神様からの「安息」への招きがあるのです。

 

 この第四戒は安息日を規定するものですが、実はその中で、六日間をしっかり働くようにと言われています(9節)。あなたのすべての仕事をせよ。安息日の大切さを教えるこの箇所ですが、でもそれは世捨て人のようになり、社会の様々な煩わしさから距離をおきなさいとは言われていないのです。そもそも聖書では「働く」ということを大切なこととしています。時々勘違いされるのですが、人間が堕落し、エデンの園から追い出されたから働く必要が出た、ということではありません。よくエデンの園の絵では裸の男女が楽しそうに過ごしている様子が描かれていますが、堕落以前のエデンの園においても、人には仕事が与えられていたのです。神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた(創世2:15)。その他にも神様が連れてこられた様々な生き物に名前をつけていくということなど、エデンの園でも、つまり罪が入る前にも「仕事」はあったわけです。そこには虚しさや苦しさはなく、神とともに生き、神とともに働くという喜びがあったのです。言葉を変えると、エデンの園は人間が造られて「非常に良かった」と言われるわけですが、それで終わりではなく、人間はそこでその地を耕し、守り、地に満ち、地を従えることが求められていたのです。それはただ当て所なく耕すようなものではなく、完成図がすでにある「仕事」です。聖書の一番最初である創世記で造られたものは神の園ですが、聖書の最後、ヨハネの黙示録で描かれるものは神の都、神の国であります。実はここにこそ、エデンの園を耕す目的がありました。この都の完成へと至る「仕事」が人に託されていたのです。ところが、三章で罪が入り堕落します。エデンの園からは追放され、神の国を立て上げるという「仕事」本来目的を見失ってしまいました。罪のゆえに「労働」は苦痛となったのです(3:17-18)。定められた安息日を歪めたり無視したりし、お金や地位や業績に支配され振り回されているかのようになり、喜びはなくある日突然虚しさに襲われるような働き方が、世にあふれるようになったのでした。

 ここで第四戒が安息だけでなく、安息に至るまでの六日の働きについても教えているということは、私たちの日毎の労働、仕事が何のためなのかを教えるためといえるでしょう。もう少し言えば、それは単なる職業的な仕事ではなくて、私たちのすべての営み、私たちの人生の目的を教えるためにあるわけです。安息日一日だけのことを教えているのではなくて、私たちの一日一日を、安息日を基準に考えるようにと示されている。その目的とは、人間が創造されたときから今でも変わることなく、神様の栄光を表すことですし、アダムの失敗と堕落はありましたけれども、それでもなお神の国の完成を目指して生きるというところにあるのです。私たちが全生活を通して、神のものであることを証しし、ここも神の国であると神様の栄光をそれぞれの置かれた場所で証ししていくこと、私たちのクリスチャンとしての働き方、生き方、人との接し方、家庭生活などなど、すべての局面を通して神様を褒め称えて生きること。そのために、七日目の安息を覚える必要があると、本日の箇所では教えているのでした。

 

2.        安息日を守る理由 

 もう一度、8節からお読みします。8-11節。七日目の安息の根拠には、先程も触れました神様の天地創造のわざが大きく関わっています。五日間で天と地と海、それらの中のすべてのものを造り、六日目にいよいよ神の国を立てあげる役割を担う人間を造られました。創世記131節以下をお読みします。先ほど、エデンの園でも仕事があったということをお話しましたが、いわば神様も六日間働かれたのです。そして七日目にそのわざをやめ、休まれた。だからあなたがたもそのようにしなさいと言われます。この「やめる」という言葉には「離れる」という意味があります。これはなかなか難しいことかもしれません。簡単に切り替えられるほど私たちは単純ではないので、多くのものを引きずっています。置いてきたつもりなのに、引っ張られていると言ったほうが良いかもしれません。でもそれらをきっぱりと手放すということ、それが安息日を守る上で、とても重要になってきます。出エジプト記の8節では、安息日を覚えて、聖とするとありますが、この「聖とする」は「分離する、取り分ける」という意味です。「やめる」にしても、「聖とする」にしても、安息日を他の日々との連続で考えず、別のものとするということが表されているのです。私達は様々なものを一週間のうちに抱えています。けれども、六日のうちに手にしてきたものから離れ、その手に握るものを手放さなければ、この安息日の恵みを本当には受け取ることができないのです。

 六日間とは区別して安息日を設けられた神様は、あなたも同じように休むようにと、いわばいっしょに休むようにと言われているのです。安息日とはまず神が休まれた日であり、その休み、安息に人を招いておられるのです。言い換えれば、この安息日というのはご自分のかたちに似せて造られた人間、神の園を耕し共に労する同労者である人間と神様との交わりの日なのです。ご自身の安息に、私たちをも招いてくださる。一緒に休もうと言ってくださる。それは神様と私個人の関係だけでなく、私たちの家族や友人、知人、客人さえも、関係のある人々と共に、神様の招いておられる安息に応える日であるとも言われています。出エジプト31章でも、この第四戒の安息日についての戒めが念押しされています。15節からお読みします。…イスラエルの子らはこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。これは永遠に、わたしとイスラエルの子らとの間のしるしである。それは主が六日間で天と地を造り、七日目にやめて、休息したからである。」安息日を代々にわたって守り続けるということが、神様と神様の民たちの間のしるしであると言われます。つまり、この安息日を守るということに、神と人との交わりが表わされているのです。礼拝はそれをよく表しています。礼拝は招詞、招きのことばで始まります。私たちの思いではなく、神様がご自身の近くへと私たちを招いてくださっている。神のもとに集められた民は賛美をささげ、祈りを捧げます。対してみことばが語られる。私たちは応答のしるし、献身のかたちとして献金をささげます。そして最後は祝祷ですが、祝福の祈りとともに私たちは私たちそれぞれの場所へと遣わされていく、派遣されていくのです。そのようにして、また六日間の務めへと召されていく。神様と信仰者との交わりが、この礼拝プログラムを見るだけでも表れていることに気づかれるのではないでしょうか。

 しかし一方で、日曜日になると、あるいは教会に来ると、かえって疲れるという声も耳にします。これはとても残念なことですし、本末転倒になっているのかもしれません。安息日の中心は、どこまでも神様との交わり、礼拝にあります。神様と私との交わりであり、神様にある家族との交わりです。もし他のもので、この礼拝の恵み、安息日の喜びが少しでも妨げられるようなことがあるならば、それは一度立ち止まって点検する必要があるように思います。

 そのような交わりの中での安息について、先ほどの出エジプト31章の最後には、「主は六日間で天と地を造り、七日目にやめて、休息した」とあります。最後の「休息した」ということばですが、第3版まででは「いこわれた」、「憩う」という翻訳がされています。六日間の創造のわざを終えられた神様が憩われる日、私たちにも憩うようにと招いておられる日、それが安息日なのです。元々はナファーシュというヘブライ語ですが、これには「深く息をつく、一息つく」という意味があるそうです。神様と私たちとの交わりの日、この安息日というのは、「一息つく日」であると言えるでしょう。思えば六日間の生活の中では、多くの人は息がつまり、疲れを感じています。体の疲れもそうですが、心もすり減らしていくということがある。あるいは、それは六日だけで終わらずに、うまく切り離すことができずに、今日までその重荷を引きずりながらやっとの思いで出席してこられた方、実際に仕事に追われてこの場に来ることのできない方もおられます。安息日とは、一息つく、深呼吸する日でもあります。息詰まる世の中にあって、深く息をするというのは、実はとても重要なことなのではないでしょうか。知らず知らずの内に身体が凝り固まり、息をすることもままならないことがある。深呼吸をして、体中に新鮮な空気を行き巡らす事が必要なのです。それは単に休暇を取るということを意味するのではありません。ずっと寝ていればすべての疲れは取れ、心は潤いを取り戻し、力に満ち溢れるということはないのではないでしょうか。気分転換をするなど様々なことを試みますが解決にはならない。そういう憩い方を神様は勧めているのではありません。神のもとに来るとき、神様との交わりに帰るときに本当の憩いがあるということは、有名な詩篇23篇を始めとして聖書全体が教えていることでもあります。

 

3.        まことの安息へ  

 とりわけ、イエス様のことばを思い出します。本日の中心聖句、マタイの福音書1128節、すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。イエス様を信じるクリスチャンの生活の中心は、かつての土曜日・安息日から、主の日の日曜日に変わりました。でもそこで神様が願っておられる安息の意味は少しも変わっていません。何故ならイエス様ご自身が、ご自身の十字架によって獲得してくださった「まことの安息」への招きをしてくださっているからです。申命記5:15でもやはり第四戒をベースにした安息日の規定が記されますが、そこで安息日を守ることの意味が少し変わっていることに気づきます(12-15節 …あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守るよう、あなたに命じたのである)。これまでは、天地創造の場面から、神様が休まれたのだから私たちも休む、一息つくということを見てきましたが、ここでは、エジプトの地で奴隷であったイスラエルの民が、主の力強い御腕によって助け出された、救い出されたということを覚えるために、この安息日を守るというのです。であるならば、イエス様の復活を覚える主の日、日曜日に礼拝を守る私たちは、イエス様の十字架の死と復活によって、罪から解放され新しいいのちに生かされていること、救われていることを覚えて、主の日を守り、聖とすることが求められているのです。そこに喜びがありますし、私たちの力の源があります。どれほど疲れていても、何度失敗をしたとしても、ここに戻り、私たちに注がれ続ける変わらない愛と、この世界を造られたお方との力強い休息への招きが、私たちを新たにし、新しい週のそれぞれの営みへと送り出してくださるのです。私たちの自由を制限するために安息日があるのではなく、私たちが私たちらしく生きるためにこの安息日があるのです。何者にも奪い去られることのない安息をイエス様は、十字架によって与えてくださいました。私たちはそれをいつも覚え、当たり前の一日ではなくて、恵みとして取り分けられた一日として、主の日を過ごしてまいりましょう。