慰めの子、バルナバ

■聖書:使徒の働き436-37節     ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。

(コリント人への手紙第二 14節)

 はじめに 

 本日は聖書に登場する一人の人物の光を当てて、その人を通して表される神様の大きな愛を覚えたいと思います。聖書の中には様々な人が登場します。イスラエルの始まりの人であるアブラハムや、出エジプトのリーダーであり、十戒を授けられたモーセ、イスラエルの王様であるダビデやソロモンは教会に来たことがない方でも名前を聞いたことがあるのではないでしょうか。新約聖書でも、イエス様の弟子たちの筆頭であるペテロや、宣教を担ったパウロといった名だたる人がいます。けれども本日、先ほどお読みいただいた箇所に出てくるバルナバという人はあまり知られていないのではないでしょうか。聖書の中でも数回しか出てこない人ですし、聖書以外のところでは名前さえ残っていないような人、その他大勢のうちの一人のような人かもしれません。けれども、このような人を通して神様の恵みは現れているのです。もちろん彼自身が特別なわけではなく、神様がこの人に目を留め、この人を用いて「慰め」を教えておられるのです。

 本日の箇所をもう一度お読みします。キプロス生まれのレビ人で、使徒たちにバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、所有していた畑を売り、その代金を持って来て、使徒たちの足元に置いた。元々の名前はヨセフでしたが、いわばあだ名のようにバルナバ、慰めの子と呼ばれていました。彼は仲間たちの中で「慰めの存在」と認められていたのでした。「慰め」と聞いてどんなことを思い浮かべるでしょうか。家族や友人に慰めてもらったことや、また自分の楽しみの中で慰めを見出すということがあるかもしれません。自分の抱えている悲しみや苦しみを埋めようとするのです。いわば失われてしまったものを埋めるように、マイナスのものをゼロに戻すように、そのような慰めを思い浮かべるのではないでしょうか。しかし聖書が教える慰めというのはどうやらその程度のものではなく、ゼロにしてなお余りあるものを与えてくれる力強いものであることがわかるのです。本日のバルナバが、なぜ慰めの子と呼ばれるようになったのかはわかりませんが、このあとにも、慰めの子にふさわしい生き方を彼はしていきます。パウロとマルコという二人の人物に巡る、慰めのエピソードを見てみましょう。

1.        パウロとバルナバ 

 バルナバが次に出てくるのは使徒の働き9章です。9章はあの有名なパウロの回心が描かれている箇所でした。まだ元々の名前サウロですが、熱心なユダヤ教であった彼は、イエス様の弟子たちを片っ端から捕らえ、迫害していました。この箇所でも、クリスチャンを縛り上げるためにダマスコという地に向かっていたようです。しかし突然、天からの光が彼の回りを照らし、彼は地に倒れ、ある声を聞くのです。「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」。彼はこのあと、目が見えなくなり、手を引かれてダマスコに連れて行かれると、9節、「三日間、目が見えず、食べることも飲むこともしなかった」。その間、何を考えてどのように過ごしていたのかは書かれています。しかし目が見えなくても飲み食いはできたはず。そうしなかった、そうはできなかったということは、様々な思いが彼の中を巡っていたのではないかと思います。イエス様の声を聞き、これまでしてきたことを、してしまってきたことの大きな過ちに気付かされ、押しつぶされそうになっていたのではないか。「何ということをしてしまったのか」「これまでの人生は何だったのか」。後悔という言葉では言い表せないほどの感情で胸が一杯になったのではないか。そのように思います。

 ちょうどその時、ダマスコに住んでいたクリスチャンであるアナニアは、この迫害者サウロを受け入れるようにと神様に言われます。しかし彼は拒むのです。「主よ。私は多くの人たちから、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。彼はここでも、あなたの名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから与えられています。」これも当然かと思うような反応です。キリスト教は愛の宗教であると言われますが、愛する家族や仲間が痛めつけられていたのですから、かんたんに許すことができない。なにかこの辺は、私自身を見ても思うことであります。神様の愛を知って、神様を信じてクリスチャンになったはずなのに、なかなか許せない、受け入れられない、そんな人間の現実があるのです。実はこのことがこの後もパウロを苦しめることになります。

 さて、人間の肉の感情では受け入れがたいかつての迫害者ですが、それでも神様に目を向けるときに、はじめて彼を受け入れることができるようになるのでした。アナニアも神様に励まされ、渋々ですが立ち上がり、彼を訪ね祈ります。すると、サウロの目からウロコのようなものが落ちて目が見えるようになった。悶々として思い悩み、過去に苦しんでいた彼に光が差し込み、サウロは一連のことを経て心がぐるりと回り、生きる方向が変えられたのです。そのしるしとしての洗礼を受け、諸会堂で、「この方こそ神の子です」と声高らかに宣べ伝え始めたのでした。これまではキリストを信じる者たちを捕らえ迫害していたところからの大転換です。このサウロが、やがてパウロと名前が変わり、海を渡り、異邦人伝道の最先端を走っていくようになるのでした。しかし、ここでめでたしめでたしとはなりません。回心してイエス様の愛を伝え始めたサウロでしたが、アナニアがそうであったように、なかなか受け入れられないのです。裏切り者としてユダヤ人からも命を狙われ、サウロはエルサレムへと逃げます。26節、エルサレムに着いて、サウロは弟子たちの仲間に入ろうと試みたが、みな、彼が弟子であるとは信じず、彼を恐れていた。彼は恐れられていました。仲間に入ろうと試みたが、弟子であること、イエス様を信じて悔い改め、生きる方向を変えたことを信じずに受け入れなかったのです。先程もお話したとおり、それは無理もないことだと私たちも分かります。当時の人々からしたらサウロの名前は恐れそのものだったのです。何かを企んでいるのではないか、どこかで本性を表すのではないかと疑っても不思議ではない。一方でサウロからしたら、かつてのユダヤ人からは命を狙われ、ともに生きることを願っている神の家族からは受け入れられず、孤独を感じていたのではなかったでしょうか。しかしそれも、彼自身が招いたことなのは彼自身がよくわかっていましたからどうすることもできない。そんなときに現れたのが、慰めの子と呼ばれるバルナバでした。エルサレムに着いて、サウロは弟子たちの仲間に入ろうと試みたが、みな、彼が弟子であるとは信じず、彼を恐れていた。しかし、バルナバはサウロを引き受けて、使徒たちのところに連れて行き、彼がダマスコへ行く途中で主を見た様子や、主が彼に語られたこと、また彼がダマスコでイエスの名によって大胆に語った様子を彼らに説明した。サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の御名によって大胆に語った。彼はここで、神の家族に受け入れられるという経験をしました。害をなしうるもの、かつては敵であった者が受け入れられるということを知ったのです。これまでの彼は学があり、高い地位もあり、尊敬もされていました。彼の周りにはいつも人がいたことでしょう。しかしサウロはそういった物を捨て、そんな人々には愚かに映るイエス様の十字架を背負って行き始めたのです。かつての人々の命が狙われるようにさえなった。それでもこの十字架の道を彼は歩み始めたのです。それを支えたのがバルナバだった。バルナバがサウロを使徒たちのともに連れて行ったとき、彼はサウロの良いところ、強いところ、長所を並べあげてプレゼンしたりしませんでした。彼がダマスコへ行く途中で主を見た様子や、主が彼に語られたこと、また彼がダマスコでイエスの名によって大胆に語った様子。主に出会い、主に語られ、そして主の御名によってかたったということ、彼に目を留められたイエス様がおられたということを伝えるのでした。目の前にいる人は、憎むべき敵かもしれない、けれども、イエス様はそんな彼を目に止め、ことばを与え、ご自身の名前によって語ることを良しとされた。他でもない、バルナバ自身がそのように彼を見ていたのだと思うのです。だからこそサウロに寄り添い、サウロを受け入れた。イエス様がそうされたのだから、私もそのようにするというところに、彼が慰めとなった大きなポイントがあるように思うのです。

 

2.        マルコとバルナバ 

 パウロだけでなく、マルコもまたバルナバの存在によって慰めを与えられた人物でした。あのマルコの福音書を記した人です。パウロとバルナバはタッグを組み、様々な地にイエス様の福音を伝えていきました。良きパートナーだったことは誰もが認めるところです。ところが、このマルコがこの二人を引き裂くことになるのでした。第一回宣教旅行の際、二人と同行していたマルコとヨハネは突然その宣教旅行から離れて、勝手に帰ってしまったのです(使徒13:13 パウロの一行は、パポスから船出してパンフィリアのペルゲに渡ったが、ヨハネは一行から離れて、エルサレムに帰ってしまった)。そこにどんな理由があったのかはわかりませんが、とにかく彼は離脱したのです。この宣教旅行の困難を目の当たりにして怖気づいたのかもしれません。もしかしたら残してきた家族に何かがあったのかもしれない。その理由はわかっていませんが、問題はこれでは終わらず、改めて第二回宣教旅行に向かう際、誰を連れて行くかというところで再び勃発するのでした。1536節以下をお読みします。どうやらパウロはマルコが離れて、働きをしなかったことを怒っているようです。この働きの大切さを真剣に考えていればこそ、許せなかったのかもしれません。ところが最良のパートナーと誰もが認めていたバルナバはと言うと、マルコをかばうのでした。結局これがきっかけで、パウロとバルナバという最強タッグは引き裂かれてしまいました。宣教のことを考えれば、バルナバはパウロと一緒に宣教したほうが良かったのではないかと多くの人は考えるでしょう。第一回宣教旅行の成功は多くの人が認めていましたから、15章でのエルサレム会議のあと、彼らは再び送り出され、第二回の準備をしていたのです。それをマルコが邪魔をしたと言われてもおかしくない。けれども、慰めの子バルナバは、マルコをそのままにはしておけなかったのです。別の箇所にはマルコとバルナバはいとこだったと書かれています(コロサイ4:10)が、果たしてその血縁関係という理由だけで、そんなことをしたのでしょうか。

 先ほどのパウロと同様、マルコはたしかに大きな失敗をしたかもしれません。それは人の信頼を大きく損なうものだったかもしれない。けれども、バルナバをそのままにしてはおけない、もう一度彼が立ち直り、主のために働くチャンスを、私とともに持たせてあげたいと願ったのではないでしょうか。途中でリタイアしたマルコでしたが、送り出されたところに一人で帰るというのはなかなか勇気がいることではないでしょうか。彼自身も自分に嫌気が差し、もう良いやと腐ってしまっても不思議ではありません。でもそんなときに、自分でも自分を受け入れることのできないマルコを支え、共に寄り添い、聖書にも記されていない旅をともにしたのでありました。そこにこそ、彼の慰めの子の真骨頂があるように思うのです。

 

 バルナバというのは確かに目立たない人物かもしれません。決して派手な働きをしてはいません。けれども、この慰めの子がいなければ、パウロは神の家族に受け入れられず、その宣教の前進はなかったかもしれない。マルコは確かにバルナバとパウロを引き裂くきっかけとなったけれども、バルナバが彼のそばに立たなければ、イエス様のご生涯を生き生きと描いた福音書を後の時代に記すことができなかったかもしれない。いやそのような働きの結果を見る以前に、彼らは弟子たちから、教会から、神様の元から離れてしまっていたかもしれない。そう考えると、バルナバの小さな、しかし本当に温かい慰めとしての存在が、クリスチャンにとっての大きな力になっているのだということがわかるのです。

 

3.        バルナバの慰めの源、すべての慰めの神  

 私たちはそれぞれに、バルナバのような存在を思い浮かべることができるのではないでしょうか。孤独を感じるとき、大きな失敗のときに、それでも見捨てずに、ともに寄り添い、受け入れてくれる存在です。しかしそれは何よりも、私たちの神様がそうであることを覚えたいのです。「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身があなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(申31:6)。旧約聖書において神様は、わたしが共におられるから恐れるなと何度も励ましておられます。そして新約聖書では、インマヌエル「神が共におられる」と言う名前のイエス様をお与えになり、神様の愛を明らかにされました。イエス様は私たちの身代わりとなって十字架につけられ、私たちの身代わりとなってその苦しみを負い、死なれ、そして私たちがともによみがえり、新しいいのちに生きるため復活を遂げられたのです。どんなに愚かで、どんなに罪深く、どんなに離れていこうとする者のためにもイエス様は来られたのでした。それは迷子の一匹の羊を探し回られる羊飼いの姿であります。たった一匹をも諦めない神様の熱心がここにあるのでした。パウロをあきらめず、マルコをあきらめない神様の愛が、バルナバを通して現されている。いや私達もそのような慰めを受けているのです。

 バルナバを通して慰めを受けたパウロでしたが、彼がコリントの教会に宛てて書いた手紙の一節を、本日の中心聖句にさせていただきました。少し前からこの箇所をお読みします。第2コリント13-7節。この箇所には「慰め」と言う言葉が何度も登場します。パウロ自身、慰めを受けた者として、このように言っているのではないでしょうか。バルナバが慰めの子として多くの人々を慰めることができたのは、彼自身に神様の慰めが注がれていたからです。その慰めを受けた者が、今度は出ていって慰めることができるのです。多くの慰めを必要としている、痛みの多い世界です。多くのつながりがあるようで、しかし孤独を感じている人は少なくない。受け入れられている、無条件で愛されている、見捨てられないと自信を持って言えない私たちです。そんな中にあってこの慰めがどうしても必要なのです。