日本とキリスト教

❖聖書箇所  ヨハネ1章9節~18節     ❖説教者 川口 昌英 牧師

◆(序)明治維新とは

 日本の近代は明治維新によって始まったとされている。明治維新は、各地において植民地を求

めていた列強に対等に対応できなかった幕府に代わり、中央集権国家を出現させ、列強に対抗しうる国家を実現した画期的出来事として捉えられ、それにより成立した明治国家は、近代国家としての体裁を持つようになったと教えられている。

 

 薩長土肥出身者を中心にした明治新政府は、倒幕理由の一つとして掲げた尊皇の精神、天皇による祭政一致を前面に出し、五箇条の御誓文を基本とする新政府方針を発表し、新しい国家の創出を目指すことを内外に明らかにした。(「広く会議を興し万機公論に決すべし」「上下心を一にして盛に経綸を行ふべし」「官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦まざらしめん事を要す」「旧来の陋習(ろうしゆう)を破り天地の公道に基くべし」「智識を世界に求め大いに皇基を振起すべし」の五か条)

 

◆(本論)新しい国家と教会

①明治新政府は、新しい国家の創出にあたり、西欧の社会制度、産業、科学、技術を積極的に取り入れようとしたが(御雇外国人、岩倉使節団派遣等) 、しかし、国家の中枢の精神については強固な姿勢を持っていた。国学(古事記等)の教えに基づいて皇室の復権をはかり、神道による国づくりをはかった。(神祇官、神祇省、教部省等) 皇室祭祀を新しく整備し、民間の神社を格付けし、その頂点に天照大神を祀る伊勢神宮をおいた。社会制度、産業、科学、技術は西欧社会から取り入れたが、皇室神道と民俗神道を結合した国家神道に基づいて国民を統制支配しようとした。文明を輸入したが、国家の精神は日本古来のものを復古させ、それによって国家の形成をはかった。明治新政府にとって、国民は国家の最優先事項、中心ではなく、統制支配の対象であった。 

 そのため、キリスト教についても、江戸時代からの禁教政策を継続した。江戸末期よりプロテスタント宣教師が多数入国していたが、居留地のみに滞在することを許可した。(バラ、ブラウン、フルベッキ、ヘボン等) また、カトリックにおいて二百数十年ぶり1868年(明治2年) 長崎において、「潜伏キリシタンの人々」がフランスの司祭を訪れ、自分たちも同じ信仰を持っていると告白し、世界に大きな衝撃を与えたが、政府は彼らの信仰を容認せず、全国各地に送り、過酷に取り扱った。(浦上四番崩れ、金沢には最多のキリシタンが送られ、四年間に多く亡くなった。)

 しかし、政府のキリスト教に対する政策は、列強の強い反感を買った。江戸幕府が締結した不平等条約の改正交渉を行った際、キリスト教禁教政策、「隠れキリシタン」に対する厳しい処罰が非難された。

 その列強の強い姿勢を受けとめ、明治政府は、これまでキリスト教を邪宗門として禁じていた高札をすでに周知のこととして、1873年(明治6年)撤去し、事実上キリスト教を容認した。その結果、有力なブロテスタント宣教師たちのもとに、キリスト教に日本の近代化の薫りを感じていた有為な若者たちが集まるようになった。彼らの多くは、旧佐幕派出身であった。彼らは宣教師のもとで信仰、語学、西欧文化、学問を学ぶことによって生きる道を見出し、国の近代化に貢献しようとした。

 高札撤去後、不平等条約改正交渉のために欧化政策が盛んに主張された影響や諸宣教団体によって各地にキリスト教主義の学校、病院や施設などが設立されたことなどにより、キリスト教は大いに発展するものと思われた。

 更に政府によって憲法を制定し、議会を開設する旨の声明を受けて、民権運動がさらに盛んになり、いっきょに国全体が西欧化に向かい、関連してキリスト教の前途も明るいように見えた。

 しかし、当初より明治政府が国家精神として中心にしようするものは変わらなかった。神道国教化政策は、神道側の準備不足、在来の宗教、特に仏教勢力の根強い抵抗などによって中止せざるを得なかったものの、記紀(古事記、日本書記)の歴史を復古させ、皇室を中心として国民を統制しようとする姿勢は少しも変わらなかった。

 政府は、憲法制定において中心的役割を果たした伊藤博文の声明に明らかなように、皇室を国家の中枢とする姿勢を明確に打ち出し、1889年「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」とする大日本帝国憲法を制定した。信教の自由については「安寧秩序ヲ妨ゲズ 臣民タルノ義務ニ反セザル限リニ於テ自由ヲ有ス」とした。さらに、翌1890年、天皇が国家の中心であることを児童、生徒に教える教育勅語をかん発し、教育を通して児童、生徒に忠君愛国、滅私奉公の精神を植え込んだ。また、国民生活に対して、皇室行事を多く取り入れた暦を作成し、日常から天皇を中心とする国家形成を目指した。その他、天皇の兵士のあり方についての軍人直喩などもそうである。

②さらに政府はそのような国民統制を徹底するための宗教政策を行った。神道国教化政策は失敗したが、皇室神道と民俗神道を融合した国家神道による統制を徹底するため、皇室祭祀や神社は宗教ではない、国民として敬い守る儀礼とした。それらは明らかに宗教としての性質を有するものであるが、信仰の対象である宗教ではないとする「神社非宗教論」を唱えた。現代から見ると乱暴な議論であるが、国家の意思としてそうしたのである。もとより天皇制国家を実現したことにより、思想、信条、信教の自由は著しく制限されていたが、神社非宗教論により、さらに阻害された。天皇制のエッセンスに抵触する思想、信条、宗教は国体に反するとされ、また他宗教を信じていても、国家が儀礼として求める国家神道に従う必要があるとされ、従わない場合には治安維持法等によって厳しく処断した。また各宗教の教理について国体に反すると判断した場合、厳しい弾圧を実行した。

◆(終わりに)日本の教会の歩み

 問題は、こうした明治新政府から始まった国家の方針に対して、キリスト教会はどう対応したかである。一口にキリスト教といっても江戸末期、1850年代以来伝来したキリスト教にはカトリック、ロシア正教、プロテスタントがある。またプロテスタントの中でもさまざまな教派がある。さらにこの時からの160年の歴史には信仰そのものに大きな影響を与えた神学の変遷もある。

 したがって、明治以来の日本の教会の歴史をまとめることは容易ではない。そのことを前提にしたうえで日本のプロテスタント教会歴史の底流に流れるものがあると思う。

 

 それは、上記のように天皇中心、国家神道を明確に打ち出した国家に対して、聖書に立つ信仰によって、その本質、「創造主を否定し、神以外のものを神とし、福音、救い、教会を否定する危険」があることを見抜けなかったことであり、また、15年戦争の頃から国体明徴を主張し、それに反する思想、信条、宗教を取り締まり、弾圧を強化し、そして教会を国家主導により編成させ、監督下に置く姿勢を明瞭にした時、ごく一部を除き、「日本のプロテスタント教会のほとんどがその方針に従い、国家に協力することが日本のキリスト教のあり方と考え、行動したこと」である。さらにそんな国家に抵抗する当時の日本統治下の一部の朝鮮教会の人々に対して、神社参拝は神に反することではない、国民としての儀礼であると教会の指導部が説得したことである。日本の教会はこんな歴史を持っている。確かにどの時代にも最後まで主に忠実な人々がいた。しかし、多くなかった。多くは、国家の中枢の教えに従い、協力した。戦後、その歴史は一変したと思いたいが、そう言えない。信仰そのものについて、自分の内面のことばかり関心を持ち、キリスト者としての生き方に関心を持っている人が少なく、世間、社会と向き合っていない。戦前、日本の教会は、みことばの教会ではなかった。神よりも国家をうえにおいた。そして、戦後は主よりも自身の幸福を中心に置く。日本の教会は、歴史を見ると、社会の中で広く信頼されてきたとは言えない。社会が混乱した時に教会の説教に聞こうとする者もいなかった。私たちはどんな時にも福音に立ち「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒3章8節)と言い続ける教会でありたい。