主の御名を呼ぶ

■聖書:出エジプト記207節   ■説教者:山口契 副牧師

■中心聖句:あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

ローマ人への手紙 815

1.        はじめに 

 出エジプト記も十戒に入り、今日は第三戒、主の御名をみだりに口にしてはならない、と言う箇所から見てまいります。これまでの訳でしたら、みだりに唱えてはならない、だったでしょうか。口にするというのはそれよりもさらに広い範囲にまで、この神様の名前に対する恐れを持つ、ということが言われている印象を受けます。私たちは祈りや賛美の中で神様の名を呼びますが、その名を呼ぶということについて、教えられてまいりましょう。

 度々お話することですが、十戒とは二枚の石の板に刻まれた十の戒めのことです。エジプトから導き出されたイスラエルの民たちは、神の民としてふさわしく整えられるためにこの戒めが与えられたのです。私たちは「戒め」と聞きますと、何か拒絶反応のようなもの感じます。そこには不自由のイメージがあるからです。また、もう新約聖書の時代だから、古い旧約聖書の戒めなんて聴かなくてもいいと思うのかもしれません。古い時代の十戒は、今の時代に適していないと思われるかもしれない。けれども、やはりここにも神様の愛があらわされており、神の民を通してこの世界を祝福しようとされるために必要な、重要な戒めなのです。もう少し言えば、今の時代の私たちにとっても少しも色褪せないメッセージをもって私たちに迫ってくるのです。二つの板と言いましたが、それはまさしく後の時代、人となられた神様であるイエス様が言われた、律法の要約を反映します。律法の中でどの戒めが一番重要かと尋ねる人にイエスは言われました。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」これが、重要な第一の戒めです。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と言う第二の戒めも、それと同じように重要です。」神を愛することと、人を愛すること。十戒の二枚の板もまさにこれを表しているのでした。十戒の前半部分は「神を愛すること」について、後半部分は「人を愛すること」について、それぞれ教えている戒めであるのです。もう今となっては時代遅れであり廃れてしまった古臭い教え、ではなくて、まさに今日に至るまでイエス様を信じるもの、神の家族とされた私たちの生きる指針ともなる、戒めなのです。

 本日はそんな前半部分、「神を愛する」ための第三戒を見ていきます。第一戒は「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」、第二戒は「偶像を造ってはならない」というものでした。それに続けての本日は、まことの神さまの名前を呼ぶということについて教えられています。「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。」最初からまとめのようなことをお話しますが、これは禁止命令のようで、そうではありません。そのネガティブな響きだけではないのです。「みだりに」ではなく、「正しく、ふさわしく」主の名を口にする、積極的に神様の名前を呼ぶことができる、それを神様が求めておられるのだということです。当たり前ではない素晴らしい権利が与えられているということをともに覚えましょう。

1.        主の名 

 そもそも、呼ぶべき主の名前があらわされているということが、大きな恵みであるのは見落としがちな点ではないでしょうか。よく言われることですが、名前というのは単なる便宜的なラベルやマークではなく、その人自身があらわされているものです。出エジプト記の中でもとりわけ重要なのは、314節「わたしは『わたしはある』という者である。」と言う神様の自己紹介です。私たちが神様を勝手にラベリングし名前をつけたのではなくて、神様が私たちに名前を示してくださった。つまり、名前を呼ばれることを良しとしておられる、名前を呼ばれることを待っておられるということなのです。もう少し言うならば、神様の方から名前を明らかにされ、神様の方から名前を呼ばれることを求めておられるということは、神様の方から人との交わり・関係を求めておられるということでもあります。まず人を愛し、そして人が神を愛するという関係がこの名前を表すということに示されており、私たちはその示され名前を呼ぶことで応答するのです。安らぎと慰めを与えてくださる羊飼いのもとで憩う羊の関係を思い浮かべます。羊飼いは羊一匹一匹を見分け、それぞれに呼びかける。羊も本当の羊飼いの声を知っており、それに応える。その名前を呼び合う愛の関係に生きることに、大きな喜びがあるのです。

 名前が教えられているということ自体が大きな恵みでありますから、一方で、その名前を軽んじることはあってはならない、ということにも繋がります。それが第三戒の土台にありました。十戒の土台にも、神様がご自身を民に現されたことばがあります。20章2節「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である」「わたしはある」と呼ばれ、時間や場所に制限されずに存在しつづける永遠・普遍(・不変)のお方が、今度はイスラエルのただひとりの救い主としてのご自身の名前を呼ぶようにとご自身を現してくださった、と読むことができるでしょう。それは、私のただ一人の「救い主」として、その名前を呼ぶためです。やはり神様はその名前を呼ばれることを求めておられる。待っておられるのです。では私たちはそのように愛をもって示された名前を、それにふさわしく口にすることができているのでしょうか。

 

2.        主の名前を呼ぶ、主の名をみだりに口にしてはならない 

 みだりに、という言葉はあまり耳慣れないものかもしれません。妄想の妄という字を書くそうです。「無駄に」とか「空しく」とか訳されます。主の名を空しく口にする。ある翻訳ではもう少し突っ込んで、「偽って唱えるな」とありました。当時の中東地域では、まじないで呪文を唱える際に、神の名を唱えるということがあったそうです。言うなればその名を唱え、その名を持つ神々の力を自分の力とし、自分の目的のために用いる、というのです。ここには、神をさえ自分の目的のために利用するという高慢がありました。人間の自己中心という罪が、「主の名をみだりに口にする」ということの中にはあるのです。自分に従わせようとして神様の名前を唱えるということ、神様の愛を忘れてなにかの定型文のように神様の名前を口にすること、それはすべて名前を与えてくださった神様を見ずに、自分のことばかり見ている自己中心な祈りであり賛美であり、その名をみだりに口にしていることになるのです。名前はその人自身だというお話をしましたが、名前を空しく口にするというのは神様自身を空しくするということになります。名を示し、愛の関係に招いてくださっているお方を、虚しくするのです。ふさわしく神の名を呼ばない者を「罰せずにはおかない」と厳しく言われていることには理由がありました。

 あるいは神の名を振りかざして、自分たちの思い願いや偏った計画を「みこころ」と偽り呼んで、あたかも神の正義のように振る舞うということが、歴史の多くの教会の中に現れました。度々話される通り、8月はかつての戦争を思い出し、その痛みを覚え、戦争の罪を胸に刻むときであります。その際、教会が、あたかも神様が許されたこと、神さまの御心であるとして、自らと自らの国のことばを肯定して語ったということを忘れてはならないのです。神の名のゆえに、あの戦争を肯定し、神の名のゆえに、日本の植民地支配を支えていったのでした。知らなかったでは済まされない、大きな傷を与えたのです。

今日は神様の名前、ということを見ていますが、その名前は単なる符牒ふちょう(意味をもたせた記号や符号)ではなく、その人自身を表すとてもとても大切なものです。その名をみだりに唱えることが、その人自身を軽んじることであり、空しくすることであると言いました。しかし日本は朝鮮の人々に対して、その名を奪うということをしてきたのです。創氏改名とよばれるものです。朝鮮の名前を奪い、支配していた日本風の名前にしたのでした。多くのものを奪いました。王を奪い、大切ないのちを奪い、ことばを奪い、そして名前を奪う。その尊厳を蹂躙した。他の国も普通にやっていたことである、当時の時代背景では当たり前、では済まされない罪を隣国と神様の前に犯したのでした。ナチスはユダヤ人の名前を奪い、番号で呼びました。彼らを人格を否定し、支配する。その罪が多く現れたのです。

 神を愛することと人を愛すること、十戒が教えていることの中心はこの2つですが、その愛すべき人の尊厳を踏みにじったということがあったのです。私はこのイエス様の2つの要約はどちらかだけしていればいいというものではなく、神を愛しているものは人を愛することができるし、人を愛するためには神様を愛することがなくてはならない、切手も切り離せないものだと考えています。教会はそこにあって、傷つくとなりびとに寄り添い、その痛みにともに涙し、ともに声を上げ戦うということをしませんでした。彼らは沈黙しました。いやそれどころか、朝鮮の教会の人々がしている抵抗は間違っているとさえ言いのけたのです。そして、愛をもって示された神の名を真実に呼び、その愛の関係に生きることをせずに、御言葉に立ち、十戒に愚直に従い戦っていた朝鮮の諸教会を、恥ずかしげもなく説得する役割を自ら買って出たのでした。神の名をみだりにとなえ、それをすすめたのです。

 

 このことに限らず、神の名前を虚しくすること、それは私達のうちにある大きな誘惑の一つです。あたかも神様の思いであるかのように、自分の思いや願いを肯定しようとするのです。だからこそこの第三戒ではそれを厳しく戒めている。私たちは神様を呼び求め、祈ります。けれども、その名を呼んで祈りながら、実はその名を弱々しい、形だけのものとしてはいないでしょうか。目の前にいる人に親しく呼びかけるように、確信を持って親しみを持って、ぬくもりを持って、この名を口にしているでしょうか。様々な祈りがあります。親子の会話のように「神様」と親しく語りかけることもあれば、「主よどうしてですか」と怒りをぶつけながら呼びかけることもある。どんな呼びかけがあってもいいと思います。けれどもまことの神を見ず、見ようともせず、むなしい祈りをしてはならない。いるかいないかわからないけどとにかく祈っとけ、みたいないい加減な呼びかけではいけないのです。助けを求めて叫びながらも、自分の力に頼り、全てを手放して飛び込むことができなくなっていることはないでしょうか。神の名前をみだりに口にする。神様はそれを罰せずに置かないほどに、厳しく禁じておられるのでした。

 ユダヤ人たちは厳格にこの教えを守りました。よく知られた話ですが、彼らは本当にきっちりとこの第三戎を守り、主の名を口にすること自体を堅く禁じてきました。神様の名前をあらわす言葉がヘブル語の子音4文字であるのですが、しかしその読み方がわからなくなってしまったということがあったのです。笑い話のようですが、いたって真剣に第三戒を犯すことを恐れ、神の名を汚すくらいならばと、口にするということを控えていたのです。しかし神様はそのような姿勢を求めていたのでしょうか。たしかに恐れを持ち、軽はずみにこの名を用いないということは大切ですが、しかし大事に箪笥の奥の方にしまい込むこと、慎重におそるおそる扱わなければいけない壊れ物のようには言われていないのです。名が示されたということはすでに見てきたことですが、ここではみだりに口にするということが問題なのであって、もっと積極的に、神の民にふさわしく神の名を口にせよと勧められているのです。祈りの時、賛美の時、私たちの生活のあらゆるところにおいて、神を覚え、神の御名をあがめて生きなさい、そのためにこの名を与えたんだと言われるのです。与えられたその名を、罪を恐れるあまり地中深くに隠しこみ、忘れてしまうリスのようであってはならない。与えられたこの名を持って、その名に示された神様の素晴らしい愛を覚えて、主のみ名を掲げ、ほめたたえるのです。真剣に祈るのです。そのように捉えますと、この第三戎が、はれものでもあるかのように触るかのように気をつけなさいと言われているのでは決してなくて、恐れを持って、厳粛に、しかし喜びを持って、大胆に神の名を口にするということが求められているということに気づくのではないでしょうか。

 

3.        まとめ 主の名をふさわしく口にする生き方とは 

 そのように気付かされたあとで、改めて、イエス様が教えてくださった主の祈りの意味が強く迫ってきます。「天にまします我らの父よ、願わくは、御名をあがめさせたまえ」。イエス様が、このように祈りなさいと弟子たちに教えられました。呼びかけは「天にまします我らの父よ」。私たちは、神のひとりごであるイエス様を信じた信仰によって神の子とされ、「父よ」と呼びかけます。ある人はこのように祈ります。「私たちの唯一の主、イエス・キリストの父なる神様。また私たちのために十字架にかかられたイエス様の父であられるゆえに、私たちの父なる神様」。少し長く説明的な感じもしますが、でも、実際にこのイエス様の十字架があり、神様を知らずに一人きりで死んでいた私たちがイエス様に繋げられ、いのちが与えられ、神の子としての新しい人生が始まったのです。それは神様が、私たちの父ともなられたということであります。中心聖句は、その事をよく教えている御言葉です。これまでにも、神様はその名を呼ばれることを求めておられましたが、ここであらたに「父よ」と呼びかけその関係に生きるようにと招いてくださっているのです。その呼びかけのあとで「御名をあがめさせたまえ」。本来私たちは、その名をふさわしく口にすることさえできない愚かなものであります。「主よ」と呼びながら、自分にとって都合の良い神を求めていることがある。「主よ」と呼びながら、主の御心を求めることなく自分の思いをあたかも神の御心であるかのようにしていることがある。「主よ」と呼びながら、その目と心は全く別のことを向いて、形だけの呼びかけになっていることがある。でもそんな私を見捨てずに、わたしとの関係の中で生きるようにと神様は名を示され、父と呼ばせるために独り子を十字架につけてくださった。神様の御名を呼ぶことは、罪の中にいた私たちに与えられた驚くべき特権であり、私たちがこの愛の中に生かされていることを何度も知るための大切なときなのです。そしてどんな状況でもこの名を呼ぶ、この関係の中で生きているということが、この地にあって大きな証になるのです。