キリスト教迫害の歴史

❖聖書箇所 ダニエル3章8節~15節                  ❖説教者 川口昌英牧師

◆(序)キリスト教迫害の歴史

 

 先ごろ、潜伏キリシタンの地域、長崎、熊本がユネスコの世界遺産として登録され、にわかに脚光を浴びている。しかし、この認定は誇るべきものとは言えない。なぜなら、この潜伏キリシタンの歴史こそ、他方において、キリスト教迫害の歴史を示しているからである。

◆(本論)キリスト教伝来の時(柳田友信著「日本基督教史」参考)

(1)信長の時代  

 イエズス会の創設者の一人フランシスコ・ザビエルは、8年間インド・ゴアでの滞在の後、東アジア宣教の最初の地として日本を選び、1549年、鹿児島に到着した。鹿児島に一年以上滞在し、京都に進出したが、荒廃した都を見て断念、九州、山口で活動した。ザビエルは、日本社会にあった三大罪悪、全能の神を無視していること、男色、堕胎を容赦なく指摘し、また、スコラ神学により、仏教僧と宗論し、論破した。滞在した二年間の間に千五百人の信者を得た。この背景には既成宗教教団を排撃した信長の容認があり、戦乱や貧困にあえぐ人々の状況があった。ザビエルは、日本人の知性を高く評価したが、その土台に中国文化があることを知り、中国伝道を決意し、日本から離れた。(しかし、中国に入ることを拒まれ、一年後に熱病により、没した。

 ザビエルが日本を離れた後、有力な宣教師たちが送られ、活躍し、九州の大友宗麟、大村純忠、有馬晴信、京都の高山右近などの大名が続々と信者になり、伝道の興隆期を迎えた。これには、イエズス会がポルトガル商人と密接な関わりがあり、彼らの富と鉄砲が大名たちを戦国において優位に立たせたことと深いつながりがあったが、高山右近のように純粋な信仰上の理由から信じた諸侯もいた。

 ザビエルの後、来日した宣教師の中では、日本滞在21年に及び、三万人に洗礼を授け、五十の教会を創立したスペイン人宣教師、トルレスや滞在二十九年、九州各地に教会を設立したほか、嬰児殺しの悪弊があるのを見て、平戸に育児院を建てたり、ハンセン病の人のためや一般の人のために病院を建てたボルトガル人宣教師アルメイダや滞在三十五年、信長、秀吉と交流を持ち、日本についての記録である「日本記」をまとめたポルトガル人宣教師、フロイスなどがいた。

 特筆すべきは、イタリヤ人宣教師、ゴア管区巡察師兼管区長、ヴァリニヤノである。彼はアフリカ、インド、中国など世界の各地で伝道した宣教師であった。1579年、日本に来てから従来の外国人宣教師偏重の布教方針を一変し、日本人伝道者養成に努め、伝道の方法を一変させた。

 この時期、日本人伝道者の存在も忘れてはならない。琵琶法師ロレンソを筆頭に医師パウロ親子などが三十数年奉教し、「教理問答」などを著したり、セミナリヨ(神学校)教授となった。

 またイエズス会は、学校教育にも力をいれた。教理学校、児童のための小学校、日本人伝道者

養成のためのセミナリヨ、その他、宣教師のための語学校、医師養成の医療院などである。

またキリシタン三大名が少年使節をローマ教皇庁に派遣した。彼らは教皇と会い、ヨーロッパ各地において敬愛され、歓迎された。彼らが持ち帰ったグーテンベルクの印刷機により、教理書「どちりいなきりしたん」「日葡辞書」などが発行された。

 こうして、始めのキリスト教伝来の三十数年において、全国人口二千万人のうち、二十万人の信者が出現した。教会数は二百、教職者は宣教師、日本人合わせて百余名、病院は二十にのぼった。人々はキリスト教に対して壁を感じていなかった。

(2)秀吉の時代 

 信長亡き後、秀吉は信長の姿勢を受け継ぎ、キリシタンを保護した。しかし、やがて迫害を開始した。1587年、邪教だとしてキリスト教禁教令「伴天連追放令」を出した。けれども、その姿勢は厳格ではなかった。先述のヴァリニヤノは再渡来し、秀吉と会っている。イエズス会側も修道会服を脱ぐなど公然たる活動を控えるようにしたが、高山右近により北陸、伊達藩により東北など伝道はさらに拡大した。この時期、宣教師たちも有力な面々が続いて送られていた。しかし、不慮の出来事が起こった。ポルトガルを中心とするイエズス会に対抗したスペインを中心とするフランシスコ会が来日し、秀吉と会い、盛んに京阪で伝道活動を行った。これに対し、秀吉はフランシスコ会に対して怒り、中でも、1596年、政治的野心を示したと言われている浦戸サン・フェリペ号事件が起こり、この事件の後、秀吉は京阪のフランシスコ会だけでなく、イエズス会も含めた宣教師6名とキリシタン20名をとらえ、陸路、長崎に送り、十字架刑により処刑した。(二十六聖人の殉教) 宣教師を手先とする外国による国内侵略の危機感を感じたと言われる。その殉教は、国外において大感動を起こし、マニラ、マカオ、ゴアで盛大な葬儀が執り行われた。

(3)家康の時代 

 関ヶ原の戦いにおいて勝利し、実権を握った家康は、最初はキリスト教を黙認した。1600年、教皇によって、イエズス会日本伝道独占令の一部が撤回され、フランシスコ会、イエズス会、ドミニク会の宣教師が次々来日した。家康は、スペインに注目し、スベインとの通商路開拓のために、フランシスコ会を用いようとしたが、道が開かれなかった。そのような時、ヨーロッバでスペインと戦っていたオランダ使節が来日し、平戸に商館を設けた。オランダ使節は、家康と面会し、オランダは海外進出を競って行っているカトリック教国ではなく、プロテスタントの国であることを弁じ、宗教上の国家支配の懸念がないことを伝えた。家康は、度重なる迫害にもかかわらず信者が増え、全国各地に七十万人のキリシタンが存在し、頂点にローマ法皇をいだたいていることに深刻な脅威を感じ、キリシタンの存在は、国内統一の最後の障碍と考え、1612年禁教令を出し、大々的に迫害した。それにより、有力大名も死に追いやられ、京都や江戸の会堂が破壊され、1614年、大追放令がだされた。高山右近など、内外の宣教師や信徒四百名が外国船数隻に分かれ、マカオとマニラに追放された。こうして、キリシタンたちは急激に地下へ追い込まれた。

(4)家康亡き後、キリスト教に対する厳しい姿勢が続き、その結果、最も多い時は人口二千万のうち七十万人いたと言われる信者だったが、急激に減少した。しかし、宣教師側も簡単に撤退したわけではなかった。二十年に渡り、潜入を繰り返し、一人平均,四、五年働き、最後はほとんど殉教死したと言われる。彼らは、秘密連絡を保って全国を潜行し、信者を激励した。特に下層民の信仰は、迫害によっても動揺しなかったと言われる。信者であることが発覚した場合、各地で多くの者が斬首されたり、火刑に処せられたりした。そんな厳しい迫害が続き、ついに三代将軍家光の時代、1637年、多数のキリシタンが加わった島原の乱が起こった。幕府はキリシタン殲滅の方針を徹底し、最後四万人の信者を殺害した。そして1639年、オランダを除くすべての西洋船舶の入港を禁止し、すべての宣教師を追放するキリシタン根絶政策を断行した。

 また、全ての人民の宗教を監視する政策、宗門改め、寺請け制を実施した。すべての民は、どこかの寺の門徒とならなければならない、旅行にも嫁入りにも檀那寺の住職の証文を要するとした。また葬式も檀那寺以外禁止とした。さらに戸籍を掌握し、キリシタンの断絶をはかった。加えて五人組の制度を設け、連帯責任を負わせ、互いに監視しあい、自分たちの組からキリシタンが生まれる芽を徹底的に摘むようにした。しかし、この政策によってすべての芽が摘まれたわけではなかった。キリシタンは地下に潜り、いわゆる隠れキリシタンとなって、実質的には混合宗教であったが、1864年、その子孫たちが浦上天主堂完成の時にフランス司祭を訪れ、自分たちも同じ信仰であると告白した。徹底して根絶したはずであったが、その面影は二百余年残った。

 

◆(終わりに)本日、話して来たことは、約五百年前ののカトリックによる伝道とそれに対する反応についてである。彼らが伝えたものは、今日の聖書信仰に立つ私たちとはかなり違っている。しかし、私はこの時代の伝道の姿は、決して日本は受け付けない地ではないこと、強く恐れる者によって今日の土壌が形成されたことを伝えていると思う。キリスト教にとってこの国は沼地と言われる。そうではない。恐れる人々によって、沼地とされ、そして、そう教えられて来たのである。