嘆く者と進む者

❖聖書箇所 出エジプト16章1節~12節       ❖説教者 川口 昌英 牧師  

◆(序)この箇所について

 本日の箇所は、約四百年に渡って奴隷として従属させられていたエジプトから脱出し、約束の地カナンに向かう途中に起きた出来事です。恵みを受けながら、すぐに忘れてしまってつぶやき、不信に走っている民たちの姿が記されています。

 よく言うことですが、聖書が人間的に、選ばれた民にとって不利と思われるようなことを敢えて残しているのは決して偶然ではありません。事実であったからですが、しかし、実際にあったことが全て記載されているわけではありません。明らかな目的があります。神のメッセージを伝えるために、選民とされた者たちにとって不利と思われるようなことも残しているのです。

 

 そのような思いをもって本日の箇所を見る時、奴隷の状態から解放され、約束の地に向かっているという祝福された状態にありながらつぶやいた姿から二つのことを教えられます。 一つは神の豊かな恵みを受けながら、人は、なぜつぶやくのかということです。もう一つは、同じ状況にいながら、つぶやかず、信仰を持って進もうとしている者がいるということです。

◆(本論)私たちはどちらだろうか

①はじめに、恵みを受けながら人はなぜつぶやくのでしょうか。

 次のような理由が考えられます。第一に、以前の罪の支配の中にいた時の生活の悲惨さを見ようとしない、過去の生活を美化している姿勢があると思います。

   ここでのイスラエルの民たちについて言うならば、彼らは、以前のエジプトに住んでいた時のことについて「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていた」と語っています。(3節) まるでエジプトに住んでいた頃のほうがすばらしかったと言っています。少し前の14章でも、エジプトを脱出して海辺の地に休み、ほっとしていたところに後悔したパロの軍勢が押し寄せて、絶対絶命の危機に襲われた場面ですが、この時、民たちは絶望して、モーセに対して、私たちをエジプトから連れ出し、危険に会わせたと強く非難しています。(14章11節~12節)

 このように民たちは、解放され、約束の地に向かって厳しい荒野を旅するよりも、奴隷であったエジプトにいたときのほうが良かったと言っているのです。エジプトにいた頃は、飢えることも渇くこともなかったと言うのです。確かに見えるところでは彼らの言う通りです。エジプトにいた時、逆らうことをしなければ生きて行くことはできました。また、成人の男子だけでも60万人、女性やこども、老人を含めると優に200万人を超える大民族で、食料も水も足りない、昼は暑く、夜は冷え込む危険な荒野を延々と歩むという苦痛を経験することもなかったのです。

 そのように、彼らの言うことにも一理あるのですが、イスラエルの民たちは、最も大切なことを忘れていました。

 彼らは、今のことばかり言っていますが、以前の奴隷として服従させられていた時がどれだけ悲惨であったのか、そして主の恵みを受けて、その状態から解放され、神が与えた約束の地に向かうことがいかにすばらしいことであるのか、それらを忘れているのです。生まれたこどもさえ、育てられない、また成長しても人としての自由を持てず、奴隷としてエジプト人に激しくこき使われて苦痛と恐怖の生涯を送るということがどれだけ悲惨であったのか忘れて、その過去の生活を美化しているのです。

 第二に、彼らがつぶやいたのは、これから向かおうとしている約束の地カナンの地に入って、神の民として生きることのすばらしさを知ろうとしていなかったことをあげることができます。父祖アブラハムに約束の地として与えられていたカナンは「乳と蜜の流れる地」と言われていたように産物が豊富にとれる豊かな土地という意味のみですばらしいのではなかったのです。その地は、年の始めから年の終わりまで主の御目が注がれている地であったのです(申命記11章12節)。その地に入って、自由な神の民として生き、そして、神の祝福を全世界に伝えることが期待されていたのです。しかし、イスラエルの民たちは、その約束の地に入って生きることのすばらしさと、彼らに与えられている特別の使命を心に留めようとしなかったのです。

 さらに彼らがつぶやいた第三の理由は、今の厳しい状況の中でも主がともにおられるということを受けとめていなかったということです。主は、昼は雲の柱、夜は火の柱によって臨在、神ご自身がともにおられることを示していましたが、民たちは困難な事態になるたび、主がともにおられ、守っておられることを思い起こそうとしなかったのです。

②しかし、多くの者たちが困難な状況になるたび、つぶやき、不信に満ちた行動をする中、変わらず、神を待ち望み、約束の地に進んで行こうとした者たちがいました。

 同じように厳しい、苦しい状況にいながら、その人たちはなぜつぶやかず、不平や不満を

ぶつけることがなかったのでしょうか。

 この人々は、以前の神の恵みを知らない頃の生活を美化していません。たとい、必要な食物に不足していなかったとしても、奴隷として服従させられ、考えることも、感じることも、ましてや全てのことについて選ぶことが許されていない、人格が一切認められない、ただ労働力として見られていた生き方、背くならば痛めつけられ、殺されてもあたりまえとされた、また神の民でありながら礼拝することが認められない生き方がどんなに悲惨であるか、過去の生活を少しも美化せずそのまま見ています。それゆえ、今は厳しい荒野にいても決して過去の生活に戻りたいと思わなかったのです。

 続いて、この人々は、今は食物、飲み水の不足、昼の暑さ、夜の寒さ、行くてを妨害する他民族の恐怖があっても、すべてを導いてくださる主がともにおられることを心から感じていたのです。また、これから向かう約束の地のすばらしさ、そこでの生活に希望を持っていたのです。ですから、同じ状況にいたのですが、この人々はつぶやくこと、不平、不満をもらすことはなかったのです。彼らは、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべてのことばで生きる」(申命記8章3節)存在であることを知っていたのです。

 

◆(終わりに)神のもとに真の幸いがある

   民たちの肉がない、パンがないというつぶやき、叫びに対して、主は大量のうずらを送り、マナを降らせ、彼らの思いを満たしてくれたのですが、それですべてが終わったわけではありません。問題は違いますが、民たちはそれからも幾度となく、モーセとアロンにつぶやき、不平を言っています。17章では飲み水のことで文句を言っています。中でも最も大きい出来事は、後僅かで約束の地に入るというカデシュバルネアまで来た時に決定的な不信をおかし、約40年間荒野をさまようになったことです。

 この人々の姿は、私たちに多くのことを教えています。神を知っていると告白していても、二通りに分かれるということです。

 いのちを与え、かけがえのない者として見ておられる創造主のことなど関係ないと自分を基準、中心にして、現実の満足を求めて生きるか、それとも現実は厳しくともいのちを与え、愛しておられる創造主である神を恐れて、神の愛と希望に生きるかです。 

 

 確かに、厳しい現実に置かれるとこの苦しさを早く取り除いて欲しいという思いになることは自然です。しかし、大事なことを忘れてはならないのです。現実を無視するという意味ではなく、人に本当に生きる力と勇気を与えるのは、まことの神とその方の愛であるということです。人はすべて神によっていのちが与えられ、生きる目的が与えられている存在であるからです。今は苦しくても、やはりこの方を仰いで日々を歩みましょう。