神を神として生きる

■聖書:出エジプト記204-6節(第二戒)      ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。

(ヨハネの福音書424節)

 

1.        はじめに 十戒の意味と区分 〜神の民、礼拝の民として整えられる〜 

 前回から出エジプト記も十戒が授与される場面に入っています。十ある戒めをひとつずつ見ていく中で覚えたいことは、神様はこの戒めを与えることで、人間を縛り付け服従させようとしていたのではないということです。そうではなく、ここにこそ民が神の民として生きる指針が与えられたのでした。何度も覚えたいことですが、出エジプト記はモーセが海を割り、エジプトで奴隷になっていたイスラエルの民を救出させて終わりではありません。そこから約束の地まで導き入れる、それもただ導くだけでなく、彼らが神の民としてふさわしく整えられるのでした。前回は第一戎をともに学びましたが、それは「あなたには、わたし以外に、他の神があってはならない」という戒めで、向き合うわたしとあなたの間に、何か別のものをおいてはならないというものでした。本日は、続く第二戒を見てまいりましょう。

1.        自分のために、偶像を造ってはならない 

 続けて第二戒は、私たちの礼拝がどのようであるべきかを教えています。4-5節前半。偶像という言葉には、刻まれたものという意味があります。2節「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である」とご自身を指して示されたお方以外のものということがまず言えるでしょう。第一戎を思い浮かべるならば、私とまことの神様との間に入るあらゆるものです。それらを形にしてはならないということです。これはある意味でわかりやすい偶像と言えます。唯一の神、ではないものを、あたかも神であるかのように敬い、頼っているからです。けれども、ここで禁じられていることはそれだけではありません。ここでは、2節で示されたようなまことの神様もまた、形にしてはならないと言われているのです。まことの神が対象であったとしても、もしそのお姿を自分のために作り出すならば、それは偶像を造ったことにほかならない。あなたは、そんな目に見える像を持ち、頼り、礼拝してはいけないと言われるのです。本日の第二戒を簡単に噛み砕くならば、このようなところになるかと思います。

 なぜ、この第二戒がおかれたのでしょうか?第一戒で十分にまかなえるような内容かもしれません。実際にカトリック教会や、私たちと同じプロテスタントでもルーテル教会の十戒の数え方では、本日の第二戒を第一戒に含めて数えています。二枚の石の板に刻まれた十の戒め、ということしか書かれていなくて、十戒の数え方が厳密に聖書で教えられているわけではないので、解釈によって区分が変わってくるということもあるのです。けれどもカルヴァンを始め、多くの教会では、これを独立した一つの戒めとして受け取ることを伝統的に守ってきました。それは、ここに人間が陥りやすい罪が現れているからなのです。これこそが人間の陥りやすい罪であるからと言えるでしょう。荒野を旅する神の民にとって、このことを語らなければならなかった。それを重く受け止め、独立した第二戎と数えているのです。聖書の神以外の神々の偶像を造る、また、まことの神を偶像化する。これらはすべて、私たち人間が持っている罪の性質であります。

 

(1)神ではないものを、まことの神の代わりに、あるいはまことの神と並び立てるようにする罪 

 まことの神以外のものに頼る、それらを礼拝するというのは、これまでにも見てきたとおりです。鷲の翼に乗せて運ばれてきた民、彼らの力が強く、知恵に溢れていたからできた大脱出ではありません。ただ神様がそれをされたのです。それを体験し、そのお方がなお今日の荒野を行く中にあっても彼らを養い、導いてくださっていることを日々実感していた。そうであるのだから、その神様と自分の間に他のものを置く、他のものを見ているということを神様は忌み嫌われるのです。

 しかしここで注意したいのは、まことの神ではなく他の神を信じることだけを言っているのではないということです。まことの神を信じつつ、でも、ほかのものにも頼っているとしたら、それもまた「自分のために」偶像を造ること、神を作っていることになるということです。多くの場合、サタンは、あれかこれかという迫り方をしません。まことの神を捨てて、こちらの神を信ぜよ、頼りとせよ、とは言わないのです。まことの神を信じながら、でもこの世で生きるためにはこっちも必要だよね、これに頼っていたほうが得だよね、と巧妙にささやく。イエス様は「だれも二人の主人に仕えることはできません。…あなたがたは神と富とに仕えることはできない」とはっきり教えられましたが(マタイ6:24)、私たちはどこかでそのようにずる賢く生きていることがあります。ながら勉強という言葉があり、私も良くしてしまうのですが、何かをしながら、何かをする。というものです。ある人にとって効率は良くなるかもしれない、合理的かもしれない。でもそれで片付けてはいけない問題が、私たちがまことの神様を礼拝する時にはあるのです。神様を礼拝しながら、なにか心では別のところに向かっている。神さまが唯一であると信じながら、でもそれ以外のことに心が占拠されている。日々の生活に心と体が奪われ、神の言葉を聞き賛美を捧げる礼拝がおろそかになっているということはないでしょうか。必要なことは一つですと言われる主の言葉を思い出しましょう(ルカ10:42)。神様が0%でなくても、30%になっていることはないだろうか。いや、99%信じていながらも1%がなにか他に向いているのだとしたら、それは私たちにとって心からの礼拝を捧げていることになるんだろうか。あらためて問いたいのです。日曜礼拝のときだけでなく、私たちの日々の生活の中でも問われなければならないことなのです。

 あるいは、国が神様に並び立つものとして偶像化していったという経緯が、かつての日本にはありました。キリスト教信仰に反するものではないからとうそぶき、天皇や天皇制に基づく国を作り上げていったのです。そこでは、神社は宗教ではないと言いくるめられます。いや、教会が御言葉に照らし、祈りの中で判断したのではなくて、神社と宗教の関係を国に問い、その回答を鵜呑みにしたのです。そして宗教ではないと言われると、それなら大丈夫!神を捨て、神以外のものを礼拝することにはならないと判断してしまったのです。まことの神のみを自身の前に置くことをやめ、より積極的に、あからさまに神に並び立って国のために命を捨てるように、神を愛すること以上に国を愛するようにと強要したのでした。

 私たちは目を覚ましていなければなりません。第二戒に違反させようとするこの誘惑が非常に多いということ、また私たちは簡単に「神様のみ」を奪われてしまうことに、気づかなければならないのです。

 

(2)永遠で無限のお方を、朽ちていく有限の物体に落とし込んではならない 

 さらに私たちが陥りやすい過ちとして、「神様以外のものを神様に並び立て、崇める」だけでなく、まことの神様をも偶像化してしまうということがあります。モーセが山に登り、十戒を与えられたまさにその時、山の麓でモーセを待っているはずの民たちはどうしていたか。モーセがしばらく帰ってこなかったことを待ちきれず、言うのです。「さあ、我々に先立っていく神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセというものがどうなったのか、わからないから。」(出32章)その声に答えて、モーセの兄アロンは、民たちが身に着けていた金の装飾品を持ってこさせ、金の子牛の像を作ります。彼らは言います「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」エジプトの地から導き上った。それは、神様ご自身が鷲の翼に乗せて運んだと言われていたそのことです。その神様を、金の子牛にして見えるようにしたです。なぜそうしたのか。それは、荒野のただ中にあって、目に見えない神様に導かれることの不安があったのではないかと考えます。目に見えない神さまの言葉を伝える、目に見える導き手として立っていたモーセも帰ってこない。いつまで待っていればいいんだろうか、私たちは何に従えばいいんだろうか。彼らの中には依然として、エジプトでの生活のほうが良かったのではないかという思いがありましたので、彼らの不安や不満は大きくなっていったのでしょう。目に見えないものを信じる、信じぬくということは、今日の私たちにとっても大きな戦いであります。そんな中で、金の子牛を造った民たちは、ただ別の神を作り出したのではなく、エジプトから導き出してくださった神様を目に見える形にしたのでした。

 聖書の中には天地を造られた神さまが、人の手で作ったものに住むだろうかと言われる箇所があります。この出エジプトの出来事から後、ソロモンが神殿を完成させた際、言います。「神は、果たして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです」(1列王8:27)。さらに新約聖書でも、パウロがアレオパゴスで宣教します。「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で作られた宮にお住みにはなりません。また、なにかが足りないかのように、人の手で仕えられる必要もありません。神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられるのですから。…私たちは神の子孫ですから、神である方を金や銀や石、人間の技術や考えで造ったものと同じであると、考えるべきではありません」(使徒17:24以下)特に最後、神である方を、人間の考えで造ったものと同じであると考えるべきではないという言葉は、鋭く私たちに突き刺さります。私たちを造ってくださった神様が、造られた被造物である私たちの小さな限界ある考えに収まるお方であるはずもないのに、何か私たちの中で神様のイメージを固め、限界をつくり、勝手に失望し、あきらめていること、頼ろうともしないことがあるのではないかと思うのです。天と地を造られたお方を、被造物に過ぎない私の小さな考えで形作っているということを私たちは平気で犯してしまうのです。偶像化を戒める理由として、まことの神様を神様としてふさわしく崇め、礼拝していないことがあるのです。形にすること自体、自分のために造るのですから、自分の下に神様を置くことにほかなりません。私たちもいつの間に神様を自分にとっての都合の良い存在として小さくしてしまっていることはないか。神様さえもそのように支配したいと願い、支配できると考える自己中心がここにあるのです。

 

2.        ねたみの神であり、恵みの神である方 

 神様は、そんな戒めを犯す人間を黙ってそのままにはされません。5-6節をお読みします。愛する人だけを愛し抜く時、その愛が大きければ大きいほど、重いものとなっていきます。前回もお話しましたように、それはまるで結婚の誓約で結ばれた二人の関係にも似ています。互いに愛し合うことを誓いあった二人はそれぞれに対して責任を負うのであって、何か問題があったときに、まぁ個人の自由だからねとはならない。それは本当の責任ある愛ではないのです。ここでの「ねたむ」という言葉も、ご自身と契約を結んだ民が他のものに奪われたことをうらやむ、ねたむと言うよりは、その契約を結んだ相手を本当に愛し、大切な宝としていることに基づく、「熱心」を表す言葉が使われています。99匹をおいてまで一匹の迷いでた羊を探し回られる、神様の熱心がここにも現れているようです。合理的ではない、スマートではない。けれども本当の愛が、温かい愛がここにあるのです。だからこそ、罰するもの三代、四代であるのに対して、「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」のです。罰せられるという恐怖で民を縛り付けるのではなく、恵みの中で生きることを何よりも望まれるのです。恵みという言葉は愛やいつくしみとも訳される、旧約聖書の中でも極めて重要な言葉です。この言葉は、契約に関係する言葉で、「忠実」や「誠実」とも訳されます。この言葉が指し示す「恵み」とは、契約に基づく固いもの、気まぐれや環境の変化で変わるものではないのです。神様の方では、民と結んだ愛の契約関係を守りつづける準備をされている。私たちはその招きにどのように答えるでしょうか。

 

3.        神を神として礼拝する人生  

 説教題を、「神を神として生きる」とし、そのことを念頭に置きながら説教の備えをしてまいりました。それは私たちがまことの神を神として、まことの礼拝を捧げる人生であると言えます。けれども、イスラエルの民がその驚くべき救いのみわざを経験していながら金の子牛の像を作ったように、私たちまた弱さを持ちます。まことの神に並び立て、あるいは万物を造られた神を有限な偶像へと引き下げ、神を神として生きることができなくなってしまったのです。私たちも同様に神様以外を並び立て、創造の主である方を小さく形作ってしまい、それゆえに、委ねきることができないことがあります。

 しかしそんな私たちのために、イエス様は来られたのです。本来はどのような形にも収めることのできないお方、できるはずのないお方が、しかしその姿を捨てられないとは考えられずに人間と同じようになられた。そこに、今日の第二戒を超えた、神様の言葉にならない驚くほどの熱心があるのです。神を神としてふさわしく礼拝することのできない私のためです。律法を廃棄するためではなく成就するために来られたと言われるイエス様が、この第二戒を何度も犯してしまう私たちのために世に来られ、十字架につけられ、贖いの死を遂げてくださった。律法の道では救われ得ない私たちのために、十字架の道が開かれたのです。中心聖句はそんなイエス様の言葉です。私たちの礼拝は、私たちが自分たちの考えに沿って編み出す礼拝、私たちの自己満足の礼拝でなく、神が示される道筋を通って神の御前に進み出るものなのです。その道は、生まれながらの私たちには到底辿れるものではないけれども、このイエス様によってなされます。真理とは、「道であり、真理であり、いのちである」と言われたイエス様ご自身です。目には見ることができませんが、イエス様と聖霊の導きの中で、まことの神を神とする生き方、まことの神にのみ礼拝を捧げる歩みをまた今日から始めてまいりましょう。