ただ神にのみ栄光を

■聖書:エペソ人への手紙51920節、詩篇96篇     ■説教者:山口契 副牧師

■中心聖句:新しい歌を主に歌え。全地よ 主に歌え。主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと 御救いの良い知らせを告げよ。  詩篇9612

 

1.        はじめに キリスト教と賛美(エペソ5:1920) 

 最初にお読みいただいたエペソ人への手紙は、当時の教会の様子がよく現れている箇所でした。初代教会の時代から教会は賛美が溢れていた事がよくわかります。しかし、「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父なる神に感謝しなさい」そんな事できるのだろうか、と思うことがあります。「心から」とありますから、表面的に歌うのではない。心から喜び、感謝して歌えるだろうか、歌えているだろうか。賛美の源にあるもの、尽きることのない喜びについて、御言葉から教えられたいと願っています。

1.        新しい歌を主にうたえ(詩篇96:16) 

 そのように、心の底から喜び歌い、感謝することの難しい人間の現実の中で、詩人は歌います(12節)。主に歌え、主に歌え、主に歌え!実に三度も重ねて言われています。しかし、先ほども申しあげたように、喜べと言われて喜べるほど私たちの心は単純にはできていなくて、私たちを取り巻く環境もまた複雑でごちゃごちゃしているのです。ところがこの詩篇を書いた詩人もそんな事は百も承知の上で、それでもなお「主に歌え、御名をほめたたえよ」と繰り返し、「新しい歌を歌え」と叫ぶのでした。この詩篇がだれによって、いつごろつくられたものなのかはっきりしたことは分かっていません。でも間違いないのは、私たちと同じ悩みを持ち、地上での歩みを続ける人間の叫びだということです。聖霊によって神様が示されたことではありますが、私たちと同じ信仰者が、等身大の自分の口で賛美をしている。困難な現実の中にあって、歌えないような、賛美できないような、喜び感謝できないような状況や心境であっても、なお歌うことができる確信に裏付けられて、「主に歌え」と連呼しているのです。

 では、ここで詩人が「新しい歌を主に歌え」と言う、「新しい歌」とは何でしょうか?これは時代的、時間的な新しさを言っているわけではありません。聖書の中には何度かこの「新しい歌」という表現が出てきます(詩篇33,40,98,144,149,イザヤ42:10,黙示5:9,14:3)。例えば同じ詩篇の40篇を開きますと、3節「主はこの口に授けてくださった。新しい歌を 私たちの神への賛美を。多くの者は見て恐れ 主に信頼するだろう」。この新しい歌は「私たちの神への賛美」であり、「主がこの口に授けてくださった」ものなのです。さらに前部分を読みますと、この賛美は、彼の救いのときに与えられたということが分かります(1-2)。滅びの穴、泥沼でもがき続け、でももがけばもがくほど沈んでいた。何かにすがりついていても、結局はそのまま沈んでしまうのです。聖書は、すべての人がそうなのだと教えます。しかしそのところから引き上げられ、固い足場に移され、そこに立って新しく生き始める。そこに「新しい歌」は与えられたのです。ですからこの歌の新しさとは、この歌を歌う者の新しさにあるのでした。泥沼にいたときには歌うことのできない新しさが、救い出され、歩みを確かにされたものにはあるのです。新しくされた者だからこそ新しい歌を主に歌う。まだ沼でもがき苦しむ人は、それを見て「この人は何かが違う」と思い、救い出し新しい歌を与えてくださったお方を信頼するのです。

 そんなことを踏まえながら96篇に戻ると、この「新しい歌を主に歌え」が、2節では「御救いの良い知らせを告げよ」と言いかえられていることに気づきます。御救いの良い知らせ、まさにグッドニュース、福音をのべ伝えよと言われている。この言葉は、戦場から勝利の知らせを届ける使者の務めを表す言葉が使われています。泥沼からのすくい上げられるというのはまさに勝利の知らせなのです。いろんなことを抱え、背負ながら、その重みに耐えきれず沈んでいく。何の解決もないんだ、みんなもそうやって生きているんだと半ば諦め死んでいく。でもそこに、考えもしないような勝利の知らせが届けられるのです。それは、すべての人が避けることのできない死にまでも打ち勝たれたイエス様の勝利です。そしてそのイエス様が勝ち取られた勝利が、イエス様の十字架の死と復活を信じるすべての者に与えられるんだというグッドニュース、良き知らせにほかならないのです。マラソンの起源がこの勝利の知らせを伝える使者であり、「その足はなんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」(ローマ10:15)と歌われています。その知らせを聞く者は、皆喜び歌う。今度は救い出されたあなたがたが、その勝利の喜ばしい知らせを告げよと言われるのです。ただ聖書を隅から隅まで読んで、たくさんの知識を詰め込んで、それを教えよと言っているわけではありません。戦場から遣わされる使者は、まずその人自身がその勝利の喜びに満たされていました。一刻も早くこの喜びを伝えたい、共に喜び歌いたいと急ぎ走ったのです。悲しみや恐れは終わり、もう安心して生きることができるという平安を共に噛み締めたいのです。だから自分自身が受けた救いの喜びを、その良い知らせを、新しくされたあなた自身の口で歌え、証せよ、と言っているのです。それを歌える喜びは、もう与えられているのです。

 さらにそれは「主の栄光を国々の間で語り告げる」ことなのだと、3節以下にあります。私たちの賛美はあくまで救ってくださったお方にささげられるものでありますが、それは、この世にあってはあたりまえのことではないのです。人は様々なものを誇り崇めます。宗教だけでなく、自分の能力や才能を誇り、賛美します。けれども、すべてのものを創造された神様の前では、造られたもの、被造物に過ぎません。泥沼にいたときにどれだけすがりついたとしても、私を救うものにはなりえないものです。一時の慰めや支えとなったとしても、結局は滅び、失われていくものです。それらのものではなく、ただ、天と地を造られた神様だけが私を救う方、私の主である。このように告白すること、またそのように生きることこそ、主の栄光を語り告げることなのです。「多くの者は見て恐れ、主に信頼する」と先程の40篇にはありましたが、神様と私、神様と私たちの関係でささげられる賛美や証は、私たちの周りの方々の間で主の栄光を語り告げることになるのです。

 

2.        賛美は神の栄光を表す(詩篇96:713) 

 詩人は続けます(7-10節)。主は王である、この御方だけがまことに頼るべきお方であり、賛美を受けるべきお方であり、私たちを統べ治める方である。この10節の言葉から、詩篇96篇は王の詩篇などとも呼ばれています。「ささげ物を携えて、主の大庭に入れ。聖なる装いをして、主にひれ伏せ」これは神様を礼拝する幕屋、神殿をイメージした言葉です。つまりこの新しい歌を歌い、主の栄光を表すことに、私たちの礼拝の根本があるのでした。

 さて、12節で三度「主に歌え」と重ねて言われていたのに対応する形で、7-8節では三度「主に帰せよ」と言われています。この箇所では、これまでの聖書では「主にささげよ」と訳されていたものを、「帰す」と直されました。この変化からイメージされることは、栄光は私たちから出るものではなく、あくまでも神様からのものであり、私たちはそれを、私たちを通して輝かせることでお帰しするということであります。造られたものがいきいきと輝くことによって、造ってくださったお方が褒め称えられ、賛美を受ける。そんなイメージでしょうか。それは人間だけの賛美ではありません。すべての被造物が唯一の創造主に賛美をささげる、とんでもないスケールの賛美がここにあります。11-12節、天は喜び、地は小躍りし海とそこに満ちているものは鳴りとどろけ。野とそこにあるものはみな喜び踊れ。そのとき、森の木々もみな喜び歌う。主の御前で。こどもの賛美で「花も」という歌があります。「花も雲も風も大海も、奏でよ、奏でよ、イエスを。空に響け、歌え魂よ、恵みを、恵みを、恵みを」すべての造られたものがこぞって主を賛美する。私たちの礼拝もまたそこに加えられるのです。やはりこどもの賛美で「そのままの姿で」というものもあります。先日の花の日にも病院で歌ってきました。「小さな野の花でも、主の愛を受けてかがやく。あふれる主の恵みはいついつまでも。バラはバラのように、スミレはスミレのように、私もこのままの姿でついていきます」二番では、「鷲は鷲のように、スズメはスズメのように、私も主のほめ歌を歌いつづける」とあります。私たちはそれぞれです。できることも得意なこともバラバラです。強さも弱さも持っている。しかしすべての人は神さまによって造られた者として、命を与えてくださった方を覚え、感謝して生きるということ、ここに神様の栄光は現れるのではないでしょうか。

 

 さらにこの神様は私たちを造ってくださっただけではありません。私たちの口に与えられた「新しい歌」の源には、泥沼から引き上げられた新しさがあります。すなわち創造の主であるだけでなく、救いの主でもある方の栄光を私たちは表していくのです。自分を誇り、自分を頼ることの多い私たち、自分を上へ上へ見せようとする私たちですが、その逆を、自分のためではなく他の人のために歩まれた方がおられました。そのお方こそがイエス様です。ピリピ人への手紙26-8節は何度も開いている箇所であります。本日の聖餐式でもイエス様の十字架がどのようなものであるかを覚える時、多くのことを私たちに教えてくださいます。しかしこの箇所は更に続きます。…自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高くあげて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。イエス様のへりくだりは、私たちを引き上げ、救い出し、新しい道を歩ませるためでした。そしてこの御方の御名によって、父なる神に栄光をお返しするその歌とその生き方が与えられたのです。

 しかし、「天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰する」とはいつのことでしょうか?確かに私たちはこの御方によって新たないのちを得ました。泥沼の中から救い出され、固い巌の上を歩くことができるようになっている。しかし、世の苦しみが無くなったわけではありません。やはり、地上の悲しみに押しつぶされそうになることがあります。自分の無力さに絶望しそうになることもある。

 そんな私たちを、詩人はもう一度御言葉の約束に帰るようにと促し、この詩を閉じます。天をお造りになったお方、すべてのものの創造主である神様についてはすでに歌われておりました。また、私たちを新しい生き方に救い出し導き入れてくださった救い主がおられます。さらにこの詩篇96篇は、この世界の終末の時を見据えて歌いあげるのでした(13節)。この確信があるからこそ、私たちはいつ・どのような状況の中にあっても、救われた者として、やがてくる神の国の完成の時を待ち望みつつ「新しい歌」を歌い続けることができるのです。新約聖書の中で「新しい歌」という言葉が出てくるのは一つの書しかありません。それは聖書の最後、黙示録です。5章を開きますとヨハネは御霊に捕らえられ、天の御座に着いている方をはじめ、様々な不思議を見るのでした。そんな中6節では、「屠られた姿で立っている子羊」が登場します。ただの子羊ではなく、屠られた姿、すなわち、本来白い毛で覆われたはずのそのからだは、その血で染まり赤くなっているのです。これは十字架にかかられたイエス様を表しています。屠られた子羊であるイエスキリスト。地上では多くの人に蔑まれ、罵られ、苦しみの道を歩まれました。しかし、この終末の幻では、ピリピ書で言われていたとおり、すべてのものが膝をかがめ、賛美を受けるのです。9-14 節、彼らは新しい歌を歌った。「あなたは、巻物を受け取り、封印を解くのに相応しい方です。あなたは屠られて、すべての部族、言語、民族、国民の中から、あなたの血によって人々を神のために贖い、私たちの神のために、彼らを王国とし、祭司とされました。彼らは地を治めるのです。」…この、やがての日にも歌われる「新しい歌」を、イエス様を信じた者はすでにこの地上にあって歌うことができるのです。確かに歌えない状況もある、喜べない心もある。でもこれは、どんなときにも歌うことができるのだ、ということだと思うのです。歌わなければならない、ではなく歌うことができる、そんな力強い恵みとして受け止めたいのです。

 

3.        まとめ  

 有名な作曲家、J.S.バッハという人がいます。数多くの有名な作品を世に送り出していて、「G線上のアリア」や「主よ、人の望みの喜びよ」などは、一度は耳にしたことがある曲ではないでしょうか。そんなバッハですが、彼自身が教会音楽家として神様に仕えていた人でもありました。彼の本棚には聖書はもちろん、多くの註解書があり、それらにはいくつもの書き込みなどがされていることなども知られています。午後のコンサートに於いてはマタイ受難曲というこれもまた大変有名な曲が演奏されますが、イエス様の受難を、みことばのとおりに作り上げているのです。そんな誰もが知っている有名人、著名人ですが、彼の手書きの譜面の多くには二つのサインが入れられていることをご存知でしょうか。楽譜冒頭にはJ.JJesu Juva(イエスよ、われを救い給え)」、そして曲の終わりにはS.D.GSoli Deo Gloria(ただ神にのみ栄光を)」と書かれていたそうです。彼は、彼の手で作り上げた多くの後世に残る名曲の数々について、しかし自分の力に頼るのではなく主イエスに頼り、出来上がったもので自分を誇るのではなく、「神様に栄光をお返しする」のでありました。

 私たちの生涯の終わりに、どのようなサインを刻んで結ぶのか、改めて問い直したいと思わされています。そんなに立派なことはできないかもしれない。後世に名を残すことどころか、日々を生きるのに精一杯であるかもしれない。けれども、私たちは私たちが置かれた場所にあって、変わらずにこの御方を見上げ、新しい歌を歌い続け、ただ神にのみ栄光をお返ししていく、そのような歩みを続けていきたいと願います。