羊飼いと従者

❖説教箇所 エペソ人への手紙4章11節~16節     ❖説教題 「羊飼いと従者」  

◆(序)牧会とは何か

 始めに、牧師の働き、牧会の務めについて間違いやすい聖書の箇所を見ることにします。なぜ、間違いやすい箇所を重視するのかですが、そこで言われていることが牧師の働きであると誤解することによって、多くの教会において混乱が起きているからです。

   エゼキエル34章11節~19節です(朗読)。深い慰めを受ける箇所ですが、ここで言われている「わたし」とは、神ご自身であり、働き人のことではありません。人にすぎない働き人が慰めたり、傷ついたものを包んだり、力づけることができるのではありません。

 

   働き人は、羊が羊飼いのもとに行き、この方を知り、力を受け、成長するように働く存在です。それゆえ、パウロも語っているように、本当に大切なのは、働き人ではなく、成長させてくださる神なのです。(Ⅰコリント3章7節)

 

◆(本論)牧会者の働き

①では、主の働き人、牧師の働きとは何でしょうか。それは、人々を真の羊飼いである主のもとに導き、そして、主にあって、主の群れの一員、主の民として生きるように、みことばによって、主にある喜び、平安、慰め、使命を示し、信じる人を整えることです。現代の教会の職制について言うならば、牧師は、羊飼いである主に召されて、主のもとで働く従者です。表立って働くことが多いのですが、あくまで従者としての働きです。

 ただ、羊飼いそのものではないからと言って牧師の務めが軽いという意味ではありません。みずから求めて霊的に成長する人もいますが、教会の霊的状態は、その教会の牧師のみことばの説教やみことばに対する姿勢と深い関係があると思っています。牧会者が神のみことばとどれだけ真剣に取り組んでいるかに深くかかわっています。私は、自分に与えられている働き、特にみことばを語る務めがそれぞれの人の生涯、永遠に関わっていると思うと恐ろしく感じることがあります。足りなさ、弱さ、或いは赦されたとは言え、なお罪の性質があることを承知のうえで、主がこの働きに召して下さっているということを忘れず、みことばをまっすぐに語らせてくださいと祈りながら取り組んでいます。

 又、教会の具体的な課題、事柄を考えることにおいて牧会者が、神の前に静まり、今、行うべきことは何か、深く祈りの時を持つこともせず、この世の経験や知識ばかりに目を向けているなら、教会はこの世の考えに沈んでしまいます。この点においても牧会者の務めは重いのです。

 パウロは、、このように牧師に求められている重い働きから、誰がこの任に耐えることができようかと言っています。

②エペソ4章11節から牧師の務め、牧会の働きについて確認します。ここにおいてパウロは、はっきりした目的のために働き人が立てられていると言います。現代の私たちも、この事実を知るべきです。みことばから教えられていないと人間的に考えてしまう危険があります。 始めに、このみことばには、牧師やまた信徒が教会の中心であるという考えは全くありません。キリストご自身がある人たちを立てたというように、働き人はあくまで主の器であり、教会はあくまで主のからだであると明言します。みことばからはずれて、牧師が自分を中心にするように行動したり、信徒が、教会は自分たちのもの、牧師は自分たちが雇った存在と考えているなら、もはや主の「主の血をもって買い取られた主の教会」とは言えないのです。ただの人間的集まりにすぎません。しかし、残念ながら今だにそういう考え方をしている教会があります。

 11節から16節は、よく話すように、新約聖書が書かれた元々の言語であるギリシャ語では、一つの文章です。そして、ギリシャ語は、重要なことが一番最初にくるという性質があります。その性質から、この文章を通して、主が働き人を立てている目的を私たちは、はっきり知ることができるのです。すなわち、主は、聖徒たちを整えて「強める、完成させる、訓練する」、奉仕の働きをさせ「主の栄光のため、主の民として生きるようにさせ」、キリストのからだである教会を建て上げる「一人ひとりが主を崇め、礼拝し、互いに主を中心として受け入れ、福音に生きる者となる」ために働き人を立てたと言います。

 そして、そのキリストのからだである教会が建て上げられる具体的な姿とは、

❶「みな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり」(信仰の一致)

❷「一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちたみたけにまで達する、…、もはや、子どもではなく、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも吹き回されたり、もてあそばれたりすることがない姿」(信仰の成長)

❸「愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長する」ことだと言うのです。(信仰の証し)

 そして、16節で要約しています。キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々によって、組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより、成長して愛のうちにたてられると言います。主にあって、一体性を持ち、各部分である一人ひとりがいきいきとしたクリスチャン生活を送ることによって、教会全体が成長し、福音の証しのために用いられるようになっていく、そのために働き人が召されているというのです。以上のように、働き人、牧師に託されている働きは、本当に重要であることが分かります。一人ひとりが、主にあって悔い改め、はっきり方向転換をし、主にあって生きるように励まし、支え、導き、そして教会をたてあげる働きです。(それは、詩篇23篇のように、羊が羊飼いのもとにあって憩い、力、平安を得て、そして主の示す道を歩み、神にある祝福の生涯を送るために仕える働きです。)

◆(終わりに)みことばに立つこと

 私は、1980年、30歳の時に神学校を卒業し、10年間、今の小松中央教会において奉仕をしました。そして、1990年にこの教会に赴任してきました。当時、この教会にはいくつかの課題がありました。第二会堂のこと、長年進まなかった新会堂問題など具体的課題がありましたが、何よりも教会の中に霊的に深い一致が見られないように思いました。そんなところに経験が浅い私たちが、幼い三人のこどもを抱えてやって来たのです。そんな私たちに対して、いつまで持つだろうかという思いで見ていた人がいたことを後で聞きました。

 私は、もちろん自分の足りなさを自覚していましたが、あまりそれらの声にとらわれないようにしました。足りない者が来たのは主がそうされたからであると思っていたからです。しかし、過去のことばかり持ち出され、私たちを過去によって束縛しようとしているように感じたこともありました。

 そんな時に、私はいつも教会の原点、牧師の原点に立とうと思いました。人の声ではなく、みことばを基準にしようとしました。具体的に、二つのことを決めていました。第一に、人間的な味方を作らない。第二に、理由を述べて自分の意見をはっきり言う。そして他の人に対してもその意見の根拠を言っていただくということです。人間関係ではなく、聖書、みことばに照らし合わせて教会を形成することが大切と考えたからでした。教会の中心は、信仰歴の長さや社会的立場による影響力ではなく、聖書が示す教会の姿であり、ビジョンであることを全体で共有するためでした。

 

 その時から30年、率直に言って、理不尽を感じたり、或いはどうしたら良いか分からず眠れない日々も幾たびかありました。また私の側ではそのつもりはなくても傷ついた人もいました。今、思うのは、難しい状況に面しても教会の中心に主の福音、御子の十字架があり、みことばがあるなら、どんなに困難なことがあっても、やがて主にあって道が開かれるということです。これからも、この教会が人ではなく、主を中心とする教会を建てあげることを心より願っています。そのために、みんなで主を見上げ、牧師がみことばによって働くように祈っていただきたいのです。