唯一の主、我らの神

■聖書:出エジプト記201-3節       ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申命記645節)

 

1.        はじめに 

 本日からいよいよ出エジプトも十戒の内容に入っていきます。十の戒め、この言葉を聞いただけで、拒否反応を起こす方もいらっしゃるのではないでしょうか。何々をしてはならない、何々をしなければならないというかのように、私たちの自由を奪い去り、縛り付けるようなイメージが付きまとうものです。いやそもそも宗教というのはなにか堅苦しいものであると思われているかもしれません。

 しかし、神様を信じるということは、本当にそのように不自由なものなのでしょうか。神の民として生きるというのは、そんなに息が詰まるような、いつも神様の顔色をうかがいながらビクビクしながらいきなければならないようなものなのでしょうか。そうではないのです。それが、この十戒の第一戒、一読するだけで狭さを感じるようなこの言葉からすでに教えられていることなのです。そして実はここにこそ、神様の計り知れない愛と、神の子どもとしての本当の自由と喜びがあるのだということを、ご一緒に教えられていきたいと願っています。

1.        1-2節 第一戒の背景と戒めについて 

 もう一度、1-2節をお読みします。それから神は次のすべてのことばを告げられた。「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。それから、と言われていますが、この出来事の前に何があったのでしょうか。簡単にこれまでを振り返りますと、イスラエル民族が奴隷としてエジプトの地で苦しめられていた、ということがありました。しかしその悲痛なイスラエルの叫びを聞かれた神様が、指導者としてのモーセを立て、様々な不思議をもって、本日の箇所でも言われているように「エジプトの地、奴隷の家から導き出」されたのです。奴隷というのは、今日ではあまり馴染みのないものですが、当時は主人の所有「物」とされていた人々でありました。財産目録に数えられるようなものであり、そこには人格や人権、人としての尊厳のようなものはなかったわけです。当然、自由もありません。様々な苦役を強いられ、生かすも殺すもエジプトの王次第だったのです。彼らの生命はこの王の手にかかり、ふりまわされていたのです。

 しかし、後でも触れますが、この奴隷というのは、今を生きる私たちもそうなのです。もちろん目に見える奴隷制度はありませんが、私たちは実に多くのものに心を囚われ、振り回されている、ということはないでしょうか。いつも不安定に、不自由に、周りに左右されながら生きている。それに気づいている、いないにかかわらず、すべての人は、奴隷であると聖書は鋭く指摘しているのです。それは絶対的な存在をもっていないからであります。私たちはどんな人であっても、やがては老い、死んでいきますし、私たちの周りにしても、変わらずに永遠に残り続けるものなんてないのです。でもそんな限りあるものを頼りにして、すがりついて生きているのが私たち人間なのではないでしょうか。すがりついている、けれども、見方を変えればそれに振り回されてもいるのです。もっている時は安心するけれども、それがなくなると簡単に心が揺さぶられてしまう。健康や財産もそうです。この箇所でも、文字通りいのちを握られていた、奴隷であったイスラエルの民を、しかし神様は助け出してくださったのでした。 

 

 ここで大切なことは、神様は、民たちをエジプトの地・奴隷の家から解放させて終わりにはしなかったということです。民たちの願いとしては、苦しい状況から救出させてもらえればよかったはずですが、しかし神様の計画は、彼らを「導き出す」こと、すなわち、どこかへと「導いていく」「連れていく」ことにあったのでした。エジプトからの救出はその第一歩に過ぎず、神様の計画はさらにその先まで続いていたのです。そのことは、本日の箇所の少し前、194節でも言われています。「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れてきたことを見た」エジプトから「わたしのもとへ」と連れてきた。これがイスラエルの民たちの経験したことでした。神さまが力強い御腕を持って、当時圧倒的な力を誇っていたエジプトを打ち倒し、奴隷を解放してくださったのです。その奴隷の鎖を断ち切り、自由が与えられた。しかし神様は、エジプトという牢獄の扉を開き、どこへでも行きなさいとは言われません。それで十分とはされないのです。救い出されたあなたたちは、もはや奴隷の家ではなく神の子どもとして、わたしのもとで生きなさいという、新しい居場所が変えられたのです。

 

 その上さらに、この神と人との関係をさらに堅く確かなものに変えようとされるのが、神様の救いの計画にはありました。195-6節「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」つまりここで、契約を結ぼうというのです。神様は私たちを罪の苦しみの中から導き出し、私たちは神さまによって導き出された。この関係を、契約によってさらに堅く、強く結びつけようとされるのでした。わたしと共に生きよと神様は言っておられる。そしてこの提案に対して、イスラエルの民たちは、8節、民はみな口をそろえて答えた。「私たちは主の言われたことをすべて行います」。私たちは多く誤解しやすいのですが、十戒というのは神様が人間を縛り上げるために押し付けた戒め、なのではなくて、より強く、より堅く結びあわされるために与えられたものです。助け出された民たちがもう間違った場所へとふらふら出ていかないために、神様のもとにとどまり続けるために与えられているのです。神さまが結ぼうとされている、契約に基づく関係を守るために、この戒めを与えられたのでした。それは子供に対して、なんでも好きなようにさせることが必ずしも良いことではない、ということと似ています。子どもたちからしたら、なんで大人は子どもを怒らせるのか、と思うかもしれませんが、子どもたちのことを思うならば、何でもかんでもやらせることが本当の自由ではないのです。とりわけ、そこに命に関わる重大な危険があることが分かっていながら、何でもかんでも好きにしたらいいというのは、愛からでたものではありません。たとえその時、その場では嫌な顔をされようと、子どもたちの思い通りには行かなかったとしても、やはり止めなければならないとき、厳しく言わなければならない時はあります。でもそれこそが親の愛なのです。民たちもそれをよくわかった上で、この契約に生きたいと願い、応えたのでした。

 また、ある説教者はこの箇所、契約を提案する神様の言葉は、結婚のプロポーズのようであるとも言っています。ですから、十戒を始め律法というのは、私たちを縛り付ける首輪のようなものではなくて、この結婚と言う契約関係を守り、より豊かなより強いものとするためのものなのです。指輪を見て、この契約関係を何度も思い出すように、与えられている十戒を覚えて、神様とともに生きるということがどういうことなのか、そこに至るまでにどれほどの恵みと愛に満ちた導きがあったのかを覚えるのです。少し分かりづらくなったかもしれませんが、ともに生きようと言ってくださる神様がおられ、それに答える民たちがいたのでした。

 

2.        「わたしのほかに」 

 そしてその関係と契約に生きるために、与えられた律法、十戒の最初が今日開いている3節です。私たちがどれほど愛され、手を引かれてきたのかということが2節にまずありました。その上で続けられます。あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。わたし以外に、他の神を信じてはいけない、とは言われていません。あってはならない、存在してはならないということです。わたし以外にという言葉は、聖書下部分の脚注にもあるように「わたしの前に」、「わたしの顔の前に」という意味があります。向き合う神様と私たち人間。その間に、他の神が置かれてはならない、ということなのです。先程の結婚の誓約を再び思い出すならば、眼の前に立つ向き合いともに生きていくと誓った相手以外に心を奪われることがあってはならない、というイメージでしょうか。これを非寛容の、狭い価値観であるという人はいないでしょう。ここにキリスト教の一神教の教え、唯一の神「のみ」を信じるという事が教えられています。イエス様はこの十戒を始めとする律法を要約して言われます(マタイ2234節以下)。唯一の神「のみ」を信じるということを言い換えるならば、唯一の神「のみ」を愛するということなのだと明確に言われているのです。

 では、ここで言われる「ほかの神」とはなんでしょうか。エジプトの国は多神教で知られていました。当然その地で奴隷になっていたイスラエル人にもその誘惑はあったことでしょう。私たちの国においても、亡くなった先祖を神として崇めるということがあります。けれども、それは単に他宗教の神々を指しているだけではないのです。ある意味でそれはわかりやすい「ほかの神々」でしょう。しかしそれだけではなく、私たちの心を神様に向けさせない、まことの神様よりも大切にしているものがあるならば、そんな様々なものが私たちを奴隷とする神となっているのだということも覚えたいのです。私たちは実に多くのものに心を囚われています。財産や地位、学歴、家族、健康、快楽などです。私たちの心の中で、この神様よりも大切なものになるならば、それは「ほかの神」がある、ということなのです。ある人は言います。「私は仕事をバリバリこなし、自分の力で今の地位に上り詰めた。そう思っていた。けれども、歳を重ねるに連れて、仕事に支配されていたんだということに気づいた」というのです。仕事に限らず、そのようなことは多くあるのではないでしょうか。自由であるつもりであっても、実は多くのものに囚われ、縛られ、不自由になっているということはないでしょうか。そこに喜びはありません。あるいは私たちはすべての人が経験するものとして、「死」というものに振り回されることも多くあります。それらはすべて、奴隷の家にいるままの私なのです。罪ある私たちは、どんどんと変わりゆく時代の中でもみくちゃにされることがあります。そして虚しさを感じる。私たちが頼りにしているものは、いつまでも残り続けるものではないのです。荒波の中で自分一人が為す術なく浮かんでいるような不安を抱えているのです。

 でも神様はそんな私たちのことを見捨てずに、奴隷であったイスラエルを導き出したように、私たちをも導き出してくださる御方です。驚くべき方法でエジプトの地からイスラエルの民を解放させてくださいましたが、私たちのためには、ご自身の独り子であるイエス様をお与えになり、私たちの身代わりとして十字架を負わせ、私たちをご自身の元へと取り戻してくださったのです。ここに愛がある、驚くほどの愛があると聖書は教えます。神様の愛、それは、私たちが信仰に篤いから、より立派な行いをしているから与えられるのではないのです。罪の奴隷であり、神様以外のものを頼りにし、ただただ振り回されていたものである。にもかかわらず、ご自身の御子を与えてくださった。あなたを決して諦めない。あなたを縛り付けるものと共に、あなたを不自由なまま死なせる訳にはいかないと、手を伸ばしてくださっている。だれかとの比較で救われるのではなく私自身を見て、救おうとしてくださっている。それが神様の愛です。そして、そんな神様との愛の関係に生き続けるようにと、この十戒が与えられているのでした。幼い子供がフラフラと道路に飛び出さないようがっちりと抱きとめるように、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」と言われているのです。

 

3.        まとめ  

 多くの神を信じるということ、それは多様性であり、器が大きいように思うことがあるかもしれません。それが寛容であり、一方で一神教であるキリスト教は非寛容だとされることもある。確かに、ある意味ではそのように映るかもしれません。私たちはだれでもいい、神様以外のものを信じても構わないとは言わないのです。それは神様のまことの愛を知っているからです。真剣に私を見て、たくさんの犠牲を払ってまでこの一人を救い出そうとしてくださる神様の愛を知っているからこそ、私たちはこの愛に答えて、この御方だけを愛していきたいと願うのです。そこにほんとうの自由があります。何者にも揺るがされない安心があり、何者にも奪われることのない喜びがあるのです。もはや奴隷の家ではなく、自由な子ども、愛されている神の子どもとしてとして、のびのびと生きることができるように変えられている。だからこそ、その自由をもって、ただひとりの主、私たちの神を愛していくのです。ここに本当に幸いな神様との関係が始まるのです。