騒動と冷静さ

❖聖書箇所 使徒の働き14章1節~18節            ❖説教者 川口 昌英 牧師

◆(序)この箇所について

 ①第一回伝道旅行の続きです。13章のピシディアのアンティオキアから反対するユダヤ人によって追い出されて訪れたイコニオンでの出来事です。聖書ではすぐ隣の印象がありますが、距離にして122キロ離れた町です。金沢から能登半島の端の珠洲ぐらいの離れた町です。

 このイコニオンでもユダヤ人が住み、ユダヤ人社会を形成していました。パウロたちは、この町でも、ユダヤ人の会堂において福音、神の国の到来をのべ伝えました。そして、ここでも、1節にユダヤ人もそこに集まっていたギリシャ人も大勢の人々が信じたとあるように大いなる反応がありました。おそらく、福音、神の国の到来が実現したことを聞いて、当時のローマ社会にあった閉塞感を打ち破る希望を感じたものと思われます。 

 しかし、このイコニオンでも深刻な妨害が起こりました。聖書では「信じようとしないユダヤ人たち」とありますが、この地でもユダヤ人たちが、町の人々に偽りの情報を流し、使徒たちに悪意を抱かせ、これ以上、宣教ができないように目論んだのです。けれども、そんな念のいった妨害活動にもかかわらず、宣教の思い、例えば、ローマ1章16節~17節(朗読)にあるような思いを持っていたパウロたちは、その地に長く滞在し、主によって、主から押し出されて大胆に福音を語り続けたのです。そして、そんな二人に対して、主もまた彼らの手によってしるし、イエスによる救いは真実であることを証明するような出来事、主がともにおられるのでなければなし得ない出来事を行わせることによって、彼らが語るイエス・キリストは真の救い主であること、そしてその主による神の救いが真実であることを明らかにしたのです。

 その結果、驚くべきことに町の人々がユダヤ人の側につく者と使徒たちの側につく者と二派に分かれたというのです。宗教や信仰を巡って町が大きく二派に分かれて対立するとは、現代の感覚で理解しにくいのですが、上記のように、人々が生きることに対して苦しさを感じ、永遠に残るものを求めていたからではないかと思います。ともかく、主の福音が語られた結果、町が二つに分かれ、一方は主イエスの福音を信じ、他方はそんな教えは偽りである、人はそんな主の福音によって義とされないと暴動を起こし、使徒たちを石をもって殺そうとしたというのです。

②続いて、もう一つ、見逃すことができない出来事が記されています。今度はイコニオンよりかなり離れたリステラでのことです。パウロが行った足の悪い人を癒したことに驚き、そこの人々が恐れ、使徒たちを神として崇めようとしたことです。民衆だけでなく、その地方において大きな力を持っていた、ゼウスを祀る神殿の祭司までがたくさんの牛と花輪をもって生贄を捧げ、使徒たちを崇めようとしたというのです。それに対して、その騒動の正体が分かった使徒たちが彼らを諌め、聖書の創造主と救い主イエスを伝え、かろうじてその行動をやめさせていることです。 

 

 この民衆やゼウス神殿の祭司の行動は、私たちは明らかにおかしな行為だと分かりますが、個人崇拝することは、案外、多くの宗教で見られる現象です。気をつけていないと時に教会においてすら見られる状況です。ここに出ているように偶像として拝むことはありませんが、その教会に影響を与えた牧師や宣教師を特別視、神のように崇めることです。

◆(本論)人の姿

①本日は、この箇所に出てくる二つの現象について考え、教えられたいと願っています。

 まず、イコニオンでの出来事です。なぜ、町の人々が福音を巡って大きく二つに分かれたのでしょうか。これは、強力に反対するユダヤたちが執拗な妨害活動をする中で、パウロたちが伝える

福音を信じ、自分は神の民として生きるという人々が多く起こされ、町が二派に分かれるまでになったという意味です。

 その理由を考えて行きますが、前提として、この当時の人々は、宗教や信仰を現実生活において重要と考えていたということがあります。現代日本の感覚では、宗教は、冠婚葬祭など通過儀礼の方式にすぎないものであり、普段は隠れていて、日常の生活の中に出てくることは滅多にないのです。そういう社会ですから、自分の宗教、信仰を明らかにするのは、ごく限られた人たちのみというイメージがあります。ですから、ほとんどの人は宗教について語ることを無意識のうちに避けています。そういう感覚から言うと、イコニオンの町で使徒たちが主イエスの福音を語ったことに対し、しかも強力な妨害活動が行われた中で、多くの町の人々が主を信じ、そして、町を二分するほどに人々が対立したというのは驚きです。

 しかし、この当時の人々にとって、宗教、信仰は彼らの現実生活において、非常に大切なものでした。生きる力であり、生きる目的であったのです。私は、この姿勢は、聖書の言葉を用いて言うならば、人はパンのみにて生きるにあらず、見えないけれども大切なものがあるということに立っていたことは、ただ時代が違う、文化が違うということで簡単に切り捨てられないと考えます。先に述べたように、現代では自分の信じていることを表明することは避けられていますが、真剣に真理を求め、それに立って生きることは、いつの時代においてもどこの国、地域においても人にとって大切な姿勢だと思います。

 ともかく、本日の箇所においてまず気がつくのは、それまで聞いたことがないものでしたが、聖書、福音を告げられた時、町が二つに分かれるほど多くの人々が福音を真剣に聞いたということです。これは注目すべきことです。使徒たちが伝えた福音にはそれほどのインパクトがあったということです。伝える側も聴く側も真剣であったということです。

②二つ目は、福音が真剣に伝えられ、またみわざによって神の力が明らかにされる時、元々偶像を拝んでいた人々も、神のわざに驚き、神を恐れる者となり、個人崇拝をしようとしたことです。異様な光景でした。

 それに対して、バルナバとパウロは、着ている衣をさくほど、激情を押さえきれず、彼らの中に飛び込んで、叫び、そして15節以下のことを語り、彼らの行動をやめさせています。ここでパウロとバルナバが言っていることは、どの時代のキリスト者にとっても非常に大切なことです。人は影響を受けた存在がいますと、個人崇拝しがちであるからです。そうではなく、ただあがめられる方は、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた生ける神、そして全世界の人々を導き、恵みをあたえておられる方のみである、自分たちは、世界中の人々が悔い改めて、神に立ち返るように福音を伝えている器である、あなたがたと同じ人間であると言っています。このことばには、義人はいない、一人もいない、ただ、神の愛と恵みによって人は救われる、神の働き人はただ福音に仕えるしもべにすぎない、教会の働き人をあがめてはならないという、いつでもどこでもクリスチャンが守るべき原則がこめられています。プロテスタント教会でも特定の牧師や宣教師などの働き人を特別に崇めているような印象を受けることがありますが、それは本来の教会の姿ではありません。あのパウロでさえ、それは間違っていると強く主張し、働き人はしもべにすぎないことを強調しています。(第一コリント3章6節~8節)

◆(終わりに)本当に大切なこと

 

 ここには、福音宣教をとりまく人間のさまざまな姿が記されています。執拗に攻撃するユダヤ人たち、妨害にも影響されることなく信じた人々、更にパウロたちを神として崇めようとした者たちです。こういったことは今も同じです。どれもが目立つ大きな騒ぎです。そんな現象を経験しますとどんな人も感情的になりやすく、冷静さを見失いやすいものです。そして人を非常に意識しがちになります。そんな時、大切なのは、パウロたちがしているように創造主と救い主を指し示すことです。これは、クリスチャンや教会が世に流されず、一歩づつ、地に足をつけて歩むために必要なことです。この世は、いつも人に注目します。そのため、人を痛めつけ、過剰にほめたりするのです。中にはそれによって自分自身を見失う人もいます。私たちがその罠から逃れ、クリスチャンとして堅実に生きるために必要なのは、自分ではなく、創造主と救い主を示すことです。