聖霊に満たされて

■聖書:使徒の働き2章1-12節       ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。(テトスへの手紙36節)

 

1.       はじめに ペンテコステ 

 先程お読みいただいた本日の箇所は、イエス様の十字架があった過越祭から50日目の出来事でした。この日はユダヤ人にとって大切な日であり、かつてモーセがシナイ山において十戒を与えられた記念日ともされています。先ほど読んでいただいたところからも分かる通り聖霊が降った日ですから、聖霊降臨日などとも呼ばれています。本日はこの「聖霊」について今日は教えられたいと願っていますが、なかなか説明が難しいのがこの聖霊という存在ではないでしょうか。風のように働くと言われていたり、火のように下るとあったり、なかなかとらえどころがないように感じている方は少なくないように思います。また父なる神、子なる神イエス・キリストと同じ三位一体の神と言いながら、少し違ったように見ているということもあります。中には、目には見えないパワーとか空気のように説明されることもあります。けれども聖書では、この御方が人格的な存在で悲しみや怒りを覚える(ローマ8:26、エペソ4:30)と言われています。また的外れに生き、自分の手で目と耳を塞いで福音を拒絶する私たちの心を砕き、イエス様と結びつけてくださる御方なのです。私たちのために、この御方がどれほどのものを与えてくださっているのかということを知るならば、この聖霊なる神様を愛し、この御方とともに生きることの喜びが溢れてきます。早速見てまいりましょう。

2.       聖霊が降るとき、力を受ける ペテロの実例 

 本日の箇所の背景を少し抑えておきたいと思います。ペンテコステは聖霊が降った日、聖霊降臨日だということをお話しましたが、それはある日突然、何の前触れもなく降ったのではありませんでした。聖霊を考える時に覚えておきたいことは、それがイエス様の約束のとおりに降られたということです。後でも開きますが、交読文で読み交わしましたヨハネの福音書14章、最後の晩餐の席でそのことが予告されています。またイエス様の十字架と復活の後にも、やはりそのことが改めて言われています。同じ使徒の働き、14-5節をお読みします。使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるのです」イエス様が命じられたのは、「待ちなさい」ということでした。間もなく、約束していた聖霊が与えられ、そのお方によるバプテスマを受けるのだから、その約束を信じて待ちなさいと言われるのです。そして、約束された聖霊が降る時に何が起こるのかについても言われます。8節「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」ここから、地の果てまでも広がる世界宣教が始まるのです。ユダヤ人だけではない、世界中の人々へ福音を届ける、キリストの証人あかしびととしての宣教が始まるというのです。 

 本日の箇所でも、この日聖霊が降った様子を印象的な描き方で伝えています(2-4節)。強い風のような響き、炎のような舌、そして皆が他国のことばで話し始める。その言葉は、当時エルサレムにいた天下のあらゆる国々から来ていた人々が、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いた、とありますから、非常に多様な言語だったのでしょう。周りの人々が驚き当惑したのも当然です。あまりの出来事に、酒に酔っているのだとあざけった人がいたことも不思議ではありません。そんな多様の言語が飛び交う、ある意味で雑然とした中でしたが、しかしそんなそれぞれの言語で話されていたこと、その内容は一つだったのです。11節、その多様な言葉で語られたのは、神の大きなみわざだったのです。神様のみわざとはなにか、いろんな言い方できますが、それは何よりも地上に来られた神の御子、イエス・キリストご自身のことと言えるでしょう。その十字架の死と復活を含めたイエス様ご自身が、神のみわざであります。それを多様な言語ことばで語るというのは、まさしくイエス様の約束されたこと、聖霊が下り力を受けた者が、天下のあらゆる国々を含めた地の果てまでも「イエスさまの証人」となる、と言われたことが実現したのでした。実際に海を渡っていくのはもう少し後ですが、この光景はそのような広がりの始まりを感じさせる力強いものだったのです。教会が各地に生み出されていき、世界中にイエスさまの福音が伝えられていく。その始まりがこの約束の実現にあるのです。

 さて、そうして世界史としても大きな変化の日となったわけですが、このように目に見える大きな変化、不思議ばかりを強調していると、聖霊の理解が大きく損なわれてしまいます。何かその不思議な力ばかりを強調しすぎてしまうということが、これまでの教会の歴史の中でも多くあったのです。本日はそのように教会に何をもたらしたのか、世界宣教がどのように始まったのかをふまえつつ、ひとりの人に何が起こったのかということを覚えたいと思います。

 

3.       聖霊に満たされた私にもたらされる変化 

 聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。この約束のとおりに聖霊が下り、力が与えられたわけですが、ここで「力」と訳されているギリシャ語は、ダイナマイトの語源になった言葉です。つまり、岩を打ち砕き、様々な城壁を破壊する力がイメージされているのです。その力強さは人々の目を引く派手な不思議ばかりではありません。私はペテロという人の変化を見る時にそれを強く思います。彼は打ち砕かれ、これまででは想像もできないような強さが満ち溢れているのです。

 かつて、聖霊の約束を聞いた最後の晩餐でのペテロは自信満々でした。「主よ、あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」しかし、その言葉通りにならなかったことはよくご存知のことでしょう。彼はイエス様が捕らえられ、連れて行かれた時にかろうじてついていきました。夜の闇に乗じて、こっそりと、おそらくはびくびくしながら、遠く離れてついていった。そして火にあたっていたその時、一人の召使いの女に見つかります。ある召使いの女が、明かりの近くに座っているペテロを目にし、じっと見つめていった。「この人も、イエスと一緒にいました」しかしペテロはそれを否定して、「いや、私はその人を知らない」と言った(ルカ22:55)。たとえ牢であろうと死であろうと覚悟はできている、どころか、イエス様の証人になる、どころか、イエスを否定し、関係無いと言い切り、呪いまでかけるのです。たった一人の、召使いという決して高くはない身分の相手にでした。強さ、勇ましさとは程遠い姿が浮かび上がります。相手が怖く、強大だったから、ということではなく、彼自身が弱かった、彼自身の恐れが大きかったのでしょう。

 ところが彼は、本日の箇所で聖霊に満たされて神の御業を語り、まさにキリストの証人となりました。さらに後の箇所ですが、酒に酔っているのだろうとあざけられたときには立ち上がり、まっすぐに福音を語っています。およそ50日前には、一人の召使いの前に震え、自分を守ろうとするあまりイエス様に灯された光を隠していたペテロでしたが、いまや聖霊によってその硬い殻、臆病な自分は壊され、恐れは消え去り、堂々と喜びをもってイエス様を語るのでした。まさに別人になったかのような変わりようです。この「強さ」は一体どこから生まれたのでしょうか?見た目には変わっていなかったことでしょう。もっと言ってしまえば、彼が完全無欠のヒーローのようになったわけでもなく、実はまだ多くの弱さを抱えていました。ではこのような変化入ったどうして起こったのでしょうか。

 

 イエス様が最後の晩餐の席で言われた言葉は、交読文でも読み交わしたとおりです。「わたしが父にお願いすると、父はもうひとりの助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。」(ヨハネ14:16-17)この助け主は「慰め主」とも呼ばれ、傍らに呼ばれた者という意味があります。目に見えるイエス様がおられなくなる。それは弟子たちにとっては不安そのものです。しかし弟子たちの力では、ともについていくこと、牢や死にまでも従うということはできませんでした。そんな彼らに対して、自力ではついていくことのできないような弱い私たちのために、まさに「いつまでもともに」いてくださる御方であり、「私たちのうちに」おられる御方なのです。神が味方になってくださるのであれば、だれが敵対できるだろうかとパウロは力強く語りますが、まさに一番近くで味方になってくださる御方がおられる。そして、そこにこそ「新しい人生」が始まるのです。

 

4.       再生と刷新 新しくされる  

 本日の中心聖句にテトスへの手紙の一節を挙げました。あまり開かれない箇所かもしれませんが、テトスというのは若い伝道師で、辺境の、やはりまだ若い教会に遣わされていました。パウロはそんな彼に励ましを与えるために手紙を書いています。3節からお読みします。私たちも以前は、おろかで、不従順で、迷っていた者であり、いろいろな欲望と快楽の奴隷になり、悪意とねたみのうちに生活し、人から憎まれ、互いに憎み合う者でした。最近のニュースを見ていますと、怒りをどこに向けたらよいかわからない、関わる全ての人が傷つき、悲しみ、声にならない声を上げているような、そんな気持ちになります。もちろん最近に限ったことではないのでしょうが、どうにもやるせない、傷つけられる人はもちろん、傷つける人もまた大きな痛みを抱えているように思うのです。周囲は他人について様々なことを言いますが、しかしその痛みを抱えながら生きている人がどれほど多いことでしょう。そんな今日と変わらない憎しみと悲しみの多い世界にあって、パウロは若き伝道師に続けます。しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。「聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました」という一文が心に留まります。聖霊による洗いと言われていますから、これがバプテスマ、イエス様が待つようにと命じられた聖霊による洗礼に関わることだと分かります。再生という言葉は英語でRegenerationと言われ、聖書では他に、やがてくる新しい世界、神の国を表す時に用いられています。まさにこの世界全体が新しくなる、その新しさが聖霊の注ぎによってもたらされるということなのです。なにか一部分が新しくなる、のではなくて、すべてが新しくなるその新しさを、私たちはすでに受けているのだ、完成はまだ先にあるのだけれども、まさに我らの国籍は天にあると言われるように、その天の新しさをすでに頂いているのだ。そういうことを教えているのです。夜の闇に紛れてイエス様のもとに来た、ユダヤ人議員ニコデモとのやり取りを思い出します。「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません…水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません」と言われました。神の国に入る新しさ、もう一度生まれるというみずみずしいいのちの新しさをもたらしてくださるのです。それは神の子としての新しいいのちであり、この御霊によって私たちは「アバ、父よ」と、小さな赤ちゃんが何の心配もなくその腕に抱かれるように、神さまのみ腕に抱き寄せられるのです(ローマ8:14-16)。

 さらに刷新はRenewalという英語が当てられます。先程の再生とどう違うのか、なかなか説明が難しいのですが、ほかにも一箇所この言葉が使われている箇所を見ますと、少しイメージしやすいかなと思います。ローマ12:2この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。ここでは新しく生まれた者が、もうそれで終わりなのではなく、新しくされ続けよということが言われています。日々新たにされていく必要があるのです。御霊によって新たな生命を与えられたものは、同じく御霊によって日々新しくされていく。御言葉と祈りを持って、新たにしていただく。そうすれば、神の御心はなにか、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。神さまに喜ばれる生き方、それは同時に、私たちが本当に自分らしく、喜びに満たされて生きることのできる生き方です。さまざまな渇きがあり、憎しみがあり、痛みがある世界において、この霊が破れ口を満たし、愛と喜びと平安、そして天国を見上げて、この地上で生き続ける希望を与えてくださる。世界の完成を前に、私自身が変わるのです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです(ローマ5:5)。

 

5.       まとめ 

 今日はペンテコステ、聖霊が降られた日であります。私たちは一人ひとりが静かに、この御霊が与えられているということの意味を、この御方がもたらしてくださった新しさを覚えたいと思います。わたしが変えられるというところから、同じ御霊に満たされて教会は始まり、福音宣教は前進します。もうひとりの助け主として約束され、共に生きてくださる御方がおられる。私たちを新しく生まれさせ、日々新たにしてくださる御方がおられる。なお悲しみと痛みの多い地上にあって、しかし失望に終わることのない希望が与えられている。この素晴らしい事実に感謝をし、お祈りをもって終わりにいたします。