選ばれし者の勘違い

❖聖書箇所  使徒の働き13章44節ー52節    ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖説教の構成

◆(序)この箇所について

 このところは、パウロたちの第一回目伝道旅行、ピシディアのアンテオケでの出来事です。

使徒の働きの著者ルカは、ここでも、神の民として選ばれながら頑になり、最も大切な神を恐れる信仰を見失っていたユダヤ人について記しています。 

 使徒たちが、十字架により処刑されたが、しかし三日目に甦られ、ご自身が神であることを明らかにした方こそ、真の救い主である、それゆえ、その方によってもたらされた救いはイスラエルだけでなく、異邦人、全世界の人々にも開かれていることを語った時、多くの人々が救われ、関心を持つようになりました。そして、ピシディアのアンテオケの会堂に普段のユダヤ人だけでなく、異邦人である町の者たちが溢れるようになったのです。そのこと自体、目を見張るべきすばらしいことでしたが、その様子を見た、従来からの律法中心主義を固く信ずるユダヤ人たちは「ねたみに燃え、パウロたちが語ることに反対し、口汚くののしったというのです。

 母国から遠く離れ、デイァスポラ(離散の民)となっていた人々でしたが、主イエスや信じる者や福音をのべ伝える者を迫害した本国のエルサレムに住む者たちと変わりなかったのです。

 ユダヤ人たちは、旧約時代、不信を繰り返していましたが、主による救いが成就した新約時代においても同じだったのです。彼らは、神の義を得ることについて根本的に勘違いしていたのです。そんなユダヤ人たちに対して、パウロとバルナバは大胆に語っています。彼らの頑なさを嘆き、そんなユダヤ人たちの様子から、これから自分たちは、神の御心として異邦人伝道に進むと言っています。これは、実は、大変意味があることばです。ユダヤ人の頑なさのゆえに異邦人、全世界への伝道の道がいよいよ開かれたというのです。パウロがローマ11章7節~8節で語っている通りです(朗読)。本来の選びの民である彼らの頑なさによって、使徒の働き1章8節(朗読)のみことばが実現するというのです。

 

   このように、この箇所は、初代教会において、これからは、教会の働きは本格的に異邦人宣教が中心になると言われている大切な箇所です。不思議です。選民であるユダヤ人が頑なであったからこそ、異邦人宣教が進んだというのです。神は、人間の想像を超えてご自分の計画を実現されるのです。

◆(本論)神のご計画実現のためであった

①ユダヤ人は、福音によって、現実に異邦人も救われ、教会に加えられていることを知っていながら、なぜこれほどまでに頑なになったのでしょうか。ローマ9章31節~32節、10章2節~3節にこうあります(朗読)。義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでしたとは、律法を学び、行うことによって義とされることを信じ、行おうとしていたが、律法を自分中心に理解して、自分の義を立てることばかり求め、本当の神の義を得ることができなかったという意味です。ユダヤ人は、選民とされていましたが、律法の本来の目的、律法によって自分の罪に気づき、砕かれ、心から悔い改め、ただ、神が与えてくださる救いを信仰を持って受け止めることですが、それができなかったと言うのです。

②どうしてできなかったのでしょうか。彼らは、「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。…この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。ユダヤ人とギリシヤ人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。主の御名を呼び求める者はみな救われる」(ローマ10章11節~13節)と言われていることを理解しなかったからです。

 ユダヤ人たちは、神の救いを得ることは、立場や経験が何よりも大切と考えました。救われるためには、ユダヤ人のように選びの民となり、律法を学び、行うことが必要と考えました。そのために、ユダヤ人でない者は、律法を学び、行い、割礼を受けてユダヤ人と同じようになる改宗者にならなければならないとしたのです。それらをしないで、ただ、一人の人、しかも呪われたことを意味する木につけられて殺された者を自分の救い主と信じるだけで、救われる、神の義を受けることができるなんて、神を汚している許しがたい教えと思ったのです。

 なぜ、そうなったのか。彼らは、父祖であるアブラハムの時から神が一番、彼らに求めてきたことに心が砕かれていなかったのです。自分の罪、神によっていのちが与えられ、生かされ、愛されているのに、神にそむいて自分を中心にして生きて、さまざまな罪の実を結んで生きていることに気づき、その罪に霊が砕かれ、悔い改めて、まことの神を恐れて、第一にして生きること、また律法は、人がそのように自分の罪に気づき、砕かれ、悔い改め、神を仰いで生きる時に、意味を持つようになることを知らず、ただ選びの民とされ、律法を与えられていることを誇っていたのです。神にふさわしい中身を持たず、立場ばかり大切にしていたのです。

 もちろん、イスラエル、ユダヤ人の中には、その歴史を見ると、アブラハム、モーセ、ダビデ、イザヤ、エレミヤ、ダニエル、エズラやネヘミヤなど、今話してきたような神を恐れる、神を心から愛し、従う者たちも多くいましたが、そうでない、神の民とされたことがかたちばかりになっていた人々が多くいたのです。そして、その姿は、神の救いのご計画の成就として御子イエス様がこの地上に来られ、十字架の死と復活によって救いを実現してくださった後にも変わらなかったのです。彼らは安息日ごとに会堂に集まり、聖書、旧約聖書を朗読し、聖書が意味することを解説されていましたが、最も大切な自分の罪に気づき、神を恐れることを知らなかったのです。それが

主イエスによってすべての人に対する罪の贖いが成就した後も、彼らの頑なさが変わりませんでしたから、46節~47節にあるように、異邦人宣教の道が開かれ、各地において救われる人々が起こされ、教会が設立されたのです。

 しかし、大事なことは、頑なさのために、異邦人のほうが先に救われるようになったユダヤ人ですが、神様の計画では彼らもローマ11章に言うごとく、やがて救われる時が来るのです。そんな神様のご計画について、神の知恵と知識の富はなんと深いことでしょう。すべてのものが神から発し、神によって成り、神にいたると言っています。ともかく、ユダヤだけでなく、離散していた地域でもユダヤ人は信仰に関して頑なでしたから、教会は、神の御心として異邦人宣教を中心として行うようにしたのです。

◆(終わりに)信仰生活において最も大切なこと

 アブラハム以来、ユダヤ人が選ばれ、神と契約を結び、神の民とされ、律法が与えられ、歴史の中で生きてきたことは、普通ではない、特別なことです。異邦人もその歴史を敬い、尊重すべきです。しかし、彼らは、聖書が伝えるように、神の民として最も大切なことを無視していたのです。ですから、ひとまず彼らに対する福音宣教の道が閉ざされたのです。

 この箇所は、信仰において最も大切なことを示しています。律法の知識やまた行いではなく、自分の罪に気づいて、砕かれて、ただ、神が与えてくださった御子の十字架の死と復活が自分のためであった、これからは悔い改めて、生きる方向を変えて、神を仰いで生きることです。

 

 私たちは、世界各地において、ユダヤ人迫害の歴史があることを知っています。特にナチスによって600万人にものぼるユダヤ人が虐殺され、あらゆるものを奪われたことを知っています。世界の歴史の中でユダヤ人は苦しい扱いを受けたのです。その背後には彼らの福音に対する姿勢があったことも否定できません。しかし、だからと言って、そうすることは決して許されることではありません。主を知った者に望まれているのは、彼らのために祈ること、彼らが福音を知り、救われるように祈ることです。そのことが実現するならば主は大いなる恵みを用意しておられるのです。