この川の流れるところ

❖聖書箇所  エゼキエル47章1節~12節     ❖説教者 川口 昌英 牧師

◆(序)この箇所の背景

①はじめに、エゼキエル書の内容や特徴について把握しておいた方が分かりやすいと思います。さて、エゼキエルですが、ユダの国が崩壊を迎えつつあった時、祭司の家庭に生まれ、「神は強めてくださる」と名付けられ、そして1章にあるように、ユダのおもだった人々と共に遠くバビロンに捕え移された人です。そして、その捕囚の地において、BC593年、30才の時に預言者として召された人物です。名前の通り、神のことばを伝える預言によって捕囚の民たちを励まし、強めるために召された人物です。   

②聖書の預言者は、神の言葉、神からのメッセージを人々に伝えるために特別に召された者たちです。

 聖書に出ている殆どの預言者は、神の民でありながら、背いている民たちの現状や将来に対して厳しい警告を発し、悔い改め、神のもとにかえるように迫りました。それゆえ、多くは、頑なな同胞から拒否され、攻撃され、憎まれ、無視されています。エゼキエルの少し前のエレミヤなどその典型です。主からのことば、預言のゆえに、反対する者たちによって何度も殺されそうになっています。

 そんな厳しい立場に立たされた預言者が多い中で、エゼキエルは、敵国バビロンによって国が実質的に崩壊し、おもだった人々と共に捕らえ移された捕囚の地、バビロンにおいて預言者として召されましたから、裁きや悔い改めをせまるよりはむしろ、絶望している民を励まし、将来の回復の希望を伝えるという役割を担っていました。

 しかし、その神が与える回復は、真の悔い改めの後に与えられることから、前半部分においてユダの人々の不信、罪を厳しく指摘し、裁きを告げ、徹底的に悔い改めるよう迫っています。それを告げたうえで、後半の33章から、神にある回復を約束する預言を伝えているのです。

 そのように、エゼキエル書は大きく、前半の神の民の罪を指摘し、裁きを告げているところと後半の悔い改めた民に対して回復を告げているところからなっています。

 

③もう一つ、エゼキエル書を理解するうえにおいて覚えておくべきことがあります。それはよく話すように、このエゼキエル書には、幻、映像的な場面が多く出て来ることです。他の預言者の場合、主から、言葉を持って、民に語るべき内容が告げられているのですが、エゼキエルの場合、言葉とともに、しばしば幻を持って、その場面が示され、そして、主からのメッセージを伝えられているという特徴があります。本日の箇所もそんなエゼキエル書に特有な幻によって、神のメッセージが伝えられている箇所です。

◆(本論)みことばは人を生かす

①今日の箇所は、そんなエゼキエル書のクライマックスと言って良いところです。預言者としての働きを始めた時、エゼキエルは、主が自分たち、反抗的な民を見捨てるしるしとして、主の栄光が神殿から取り去られる痛み、苦しみを味わいました(10章1節~22節)。しかし今、彼は、ユダの民たちが悔い改めることにより、幻の中で、神の臨在が取り戻され、神がともにおられる恵みを味わっているのです。主の栄光が新しい神殿に満ちているのを見るようになっているのです。

 その希望に立って、47章1節から、神殿の聖所から流れ出る水の幻によって、主の栄光が民たちの中に戻り、浸透している様子を伝えています。流れ出る水が豊かになり、だんだんと深くなるにしたがって大きな川となり、川の両岸に木々がしげるようになり、そしてはるか遠くアラバ、これはあらゆる生物が生存できない死海のことですが、そのところにまで入り、やがて海にたどりつくまで堂々とした流れになるというのです。また、その流れはただ大きくて豊かになるだけではありません。8節、9節(朗読) この流れが入りこむところでは水がよくなり、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになるというのです。

 このように象徴として神殿から流れ出る水がとうとうと流れ、あたり一面を豊かに満たすことによって、神がともにおられる恵み、神の憐れみとまことが伝えられていくところでは、死からいのち、どんなに絶望していても、この恵みによって希望に移される人々が多く起こされるというのです。この箇所でははっきりしていませんが、アラバ、死海のような生物が生存できないような全く絶望している人も生きる力、希望が与えられる、それほど、神殿から流れ出る水、神の臨在の恵みはすばらしいというのです。

②この神殿から流れでる水は、神の臨在、みことばのことですが、具体的にどんな状態のことでしょうか。どんな主の御心、みことばのことでしょうか。そんな神の御心がはっきりしめされているみことばがあります。

 主ご自身が羊飼いとなって民たちとともにいて、彼らを守り、新しい希望を与えると言われているエゼキエル34章11節~16節、中でも「わたしは失われたものを捜し、追いやられたものを連れ戻し、傷ついたものを介抱し、病気のものを力づける。肥えたものと強いものは根絶やしにする。わたしは、正しいさばきをもって彼らを養う。」というみことばです。これは、罪に砕かれ、悔い改め、神の民として生きることを決意した者たちに対して、神ご自身が羊飼いとして彼らをどんな場合にも守ることを宣言しているところです。この主がともにいてくださること、神の愛といつくしみが民たちに浸透していく時、人は力を受け、困難に耐え、希望を持って生きるようになるのです。

 新約聖書の中で、パウロが「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にいる人たちを慰めることができます。」(第二コリント1章3節)と言っているようなことです。人は自分の中心に神の愛、平安、希望が注がれていることを知る時、その人だけでなく、周りの人も変えられるのです。神から流れる水が入るところではそこの水が良くなり、生き物も群がるようになるのです。

 この段階ではまだバビロンからの帰還の時期は来ませんでしたが、彼らは、神がともにおられるとの約束を受けて、捕囚の地において安息日を守り、会堂で礼拝し、律法を学び、神の民としての生き方を守ったのです。高ぶり、罪の生き方をし、神のさばきを受け、絶望していた状態から大きく変わっています。

◆(終わりに) 神の愛に生きる人生

 私は、今日の箇所は、聖書全体の神を分かりやすく伝えているところだと思っています。農作物を作っている人はよくお分かりですが、作物を作るうえにおいて、畑や田んぼに水を確保することはとても重要です。作物成長のために水は欠かせないのです。水を十分に確保できるならば、天候や土、肥料など、そのほかの条件もありますが、実がみのるのです。人も同じです。今日見て来ましたように、神の愛と慈しみが一人ひとりの中心に届く時に、人生が変えられるのです。新約聖書で主イエスも「この水(世に溢れている幸い)を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇きません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧きでます。」(ヨハネ4章14節) また「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れでるようになる。」(ヨハネ7章37節~38節) と言っています。ただし、水だからといって全てが良いわけではありません。反対に毒になるものもあります。大切なのは、本当に人の渇き、生きる意味、目的を悟らせ、おかした罪に対してもきちんと向き合う、死の恐怖にたいしても解決があり、何よりも新しく生きる喜びと平安、希望をもたらすものです。その水こそ、神から流れでる、人の愛と比較にならないぐらいの深い神の愛です。

 

 神の愛を拒まないで受け止めてください。頑なに押しとどめないでほしいのです。