急いで降りて来なさい

■聖書:ルカの福音書19110節       ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(ルカの福音書199-10節)

 

1. はじめに

 本日は、ザアカイという人物にイエス様が出会う場面を見てまいります。教会学校などでもよく話をされるこのザアカイ。「背が低かった」とあり、金持ちでありながらイエス様を一目見ようと木に駆け上る様子は、コミカルに描かれる事が多いように思います。そんな彼に向けてイエス様がお語りになった「急いで降りて来なさい」という呼びかけについて、今日はご一緒に聞いていきたいと願っています。

2.       エリコの町、取税人のかしらザアカイ 

 本日の箇所、1-3節をもう一度お読みします。エリコという町は非常に豊かな地だったようです。高値で取引される、香りの良いバルサムの木の産地として知られており、あたりにはそのよい香りが漂っていたと記録されています。またヨルダン川に面してイスラエルの玄関口、さらに地中海へとつながる町として、交通の面でも商業の面でも栄えていたのがこのエリコでした。そんな豊かな町で取税人をしていたのがザアカイという人物です。取税人というのは、当時イスラエルを支配していたローマに課せられた税金を取り立て、ローマに渡すという仕事です。イスラエル人でありながら、いわば敵であるローマに仕え、お金を取り立てる。しかもその際、ローマ当局が定めた以上の額を徴収し、上乗せ分は自分の懐に入れていたのです。後半部分を見ますと、彼は自分の口で「脅し取ったもの」と言っていますから、やむを得ずとかではなく、確信犯として人々を騙し、儲けていたのでした。当然イスラエル人同胞からは嫌われ、裏切り者などと呼ばれていたようです。神の民でありながら、神の民の敵のために働き、しかも不正をなす。そんな彼らは罪人とみなされ、蔑まれていたのでした。聖書の中では取税人は度々登場していますし、実はイエス様の弟子の一人、福音書をしるしたマタイも取税人だったということがわかっています。しかし「取税人のかしら」というのはこの箇所、ザアカイにしか使われていません。先程も申し上げたように、このエリコという町はイスラエルにとってだけでなく、ローマにとっても重要な街でしたから、多くの税が課せられていました。その町の取税人のかしらでしたから、取税人の中でもトップクラスに財を持ち、トップクラスに嫌われていたことでしょう。

 しかし彼は満たされていたかと言うとそうではなかった。金さえあれば何でもいい。たしかにそう思っていたフシがあるからこそ、取税人を続け、人々を騙していたのでしょう。けれども、それでも満足することはなかったように思うのです。この人が大変な金持ちだったということをお話していますが、実はこの箇所の少し前にも一人の金持ちがイエスさまの元を訪ねてきた、という出来事がありました(18:18以下)。この人も大変な金持ちで、しかも指導者であったとあります。良い立派な行いをして人々を教えていたのでしょう。ザアカイにはなかった人望もあり、人々に慕われていたのでしょう。そんな彼でしたが満たされず、永遠のいのちを求めてイエスのもとに来たのです。しかしイエス様の言葉を聞くと彼は離れていきます。彼はこれを聞くと非常に悲しんだと書かれていますから、真剣に求めていながらも、できなかったのでしょう。彼もザアカイも、何かを求めていました。言い換えるならば、たくさんのお金を持ち、地位もあり人望があっても、それでもなにかが足りないと感じていたのです。しかしなにかが足りないとわかっていながら、今あるものを手放すこともできずにしがみついている。それが、この金持ちの指導者です。彼はイエス様から離れていき、救いを受けることができませんでした。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」とイエス様は言われますが、「それでは、だれが救われることができるでしょう」という人々の言葉はもっともです。だれが救われるだろうか。金持ちが特別難しい、ほかの人なら簡単だ、ということではないように思います。みんな多かれ少なかれ手放すことのできないもの、握りしめているものはあります。それを自分のために持ち、他の人に与えることはできない。富というのはとりわけ私たちの眼と心を奪うものではありますが、決してそれ以外なら手放せる、他の人に与えることができるということではないのです。少し飛躍しすぎかもしれませんが、私たちのいのちとか人生はどうでしょうか。これは私の人生、私の命と考え、自分の好きなようにするというのが、あまりにも当然のようになっています。しかしそこに救いはないのです。お金を持つことが行けないわけではありません、でもそれ以上に大切なものがあることを知らなければならない。しかしそれが極めて難しいことを改めて思い知らされる出来事でした。

 

 けれども、そんな私たちのために用意されている救いの道があることを、本日の箇所は教えています。18章の金持ちの指導者同様、ザアカイもイエスに近づいてきました。でも彼は背が低くてイエスの姿を見ることもできず、人望もありませんでしたからだれも彼を通してくれる人がいません。そこで彼はひらめきました。4節。大の大人が、しかも莫大な財を持つ「かしら」が木に登る。彼はそこまでしてイエス様を見てみたかったのでした。

 さて、ここで少し立ち止まって考えてみたいと思います。このとき、木に登ることまでしたザアカイの熱心をイエス様は見ておられた、だから救ってくださったと説明されることがありますが、果たして、彼のこの行動がイエス様を動かしたのでしょうか?彼はこの行為によって救いを獲得できたのでしょうか。そうではないと思うのです。金持ちの指導者も熱心でした。彼が小さなときからしてきたということは律法通り、だれが見ても良い行いです。熱心ということでしたら彼もまた、いや彼のほうが優れて「熱心」だったと言えるかもしれない。一方ザアカイはと言いますと、確かに人目を気にせず木に登りますが、彼はあくまで「イエスを見ようとして」とありますから、一方的に見られればよかったのです。木の上から飛び降り、イエスの前に躍り出て救いを求めたわけではありません。群衆たちが通してくれないならしばらくついて行き、夜になって人が少なくなってから声を掛ける、とかをわざわざしたのでもありません。ある意味でザアカイは、木の上から見るだけで十分彼の目的は果たると考えていたのではないでしょうか。もちろん想像ですが、このままイエス様一行が木の下を通り過ぎていかれても、彼は呼びかけることもせず、またその木を下りて、何も変わらないまま同じ日常へと帰っていくのです。

 

3.  「急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」 

 彼はその考えだったと思うのです。しかしイエス様は違いました。5節。木の上と下、ある程度の距離感を残し保ちながら、見られればいいやと思っていたザアカイに対し、イエス様は名前を呼んで、話しかけてくださるのでした。罪人とみなされ、道を通してさえもらえなかったザアカイにとって、この名前を呼ばれるということがどれほどの驚きだったでしょうか。さらに驚く言葉が続いています。「急いで降りて来なさい。」木の上と下、この距離感を保ちながら見ることを、イエス様は良しとはされないのです。私たちは何かを求めながらも、信じちゃって大丈夫だろうか、自分の生活を握りしめながらそっと見るだけ、ということが多いように思います。この距離感からさらに踏み込むことをためらうのです。金持ちの指導者のように、一生懸命に生きながらも大事なものは手放せずに、変えられずに、とぼとぼと帰っていく。そんな私たちに対して、イエス様は「急いで降りて来なさい。」と言われるのです。急いで、ためらわずに、大丈夫だからその木を手放し、わたしのところに来なさい。いや、さらにさらに驚くべきことには、それは私たちの決断でイエス様のもとに行く、と言う前に、「わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」初めて聞いた人ならば、なんて図々しい言葉だろうと思われるかもしれません。もともと書かれた言葉を見るならば「あなたの家に泊まらなければならない」という強い口調で言われています。これ自体はそんなに珍しい表現ではないのですが、イエス様がこの表現を使われることには重大な意味がありました。例えば9章、イエス様はご自分が受けることになる十字架と復活を予告されました。人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない、と語られた。ここで苦しみを受け、捨てられ、殺され、よみがえらなければならない、と言われている表現と同じなのです。他にも、イエス様は自分のなすべきこと、なさなければならないことを示す時にこの言葉を使います。神様のご計画の中で、神様の子であるイエス様の使命がこの「しなければならない」に込められているのです。そして十字架の苦しみと復活と同列の「しなければならない」こととして、「今日、あなたの家に泊まらなければならない」と言われるのでした。これは、ザアカイが熱心にイエス様に先回りして木に登ったから言われた、ということではないでしょう。人々の熱心よりも先に、イエス様の救いの計画の中で、この一人の罪人に目が留められているのです。実はここにこそ、「それでは、だれが救われることができるでしょう」と言われる言葉の答えがあるのです。「人にはできないことが、神にはできるのです。」手放すということをお話しましたが、それは欲を絶ち質素にする修行を勧めているわけではありません。私の家に来てくださるお方がいるから、それで十分、他のものは私の中心ではないということです。私の中心が変わるのです。私のところに来てくださるのです。だから、これまで頼っていたものは、もうなくても大丈夫。あなたが共にいてくださるから、私にはもう何もいりませんという信仰がここにあるのです。

 

4.       「罪人の家に行って客となった」 

 ザアカイの喜びは大きなものだったでしょう。期待もしていなかった、ただ見るだけでよかったこの方から、名前を呼ばれ、それどころか神様の計画の中で自分のもとに来てくれる。だれからも顧みられなかった、でもその理由は自分自身が一番良くわかっていた。たしかにお金はあるが満たされない。そんな中、自分を呼んでくださり、自分を尋ねてくださるお方がおられたのです。6節、ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。ところが多くの人にとっては喜びではありませんでした。7節。この「文句」はイエス様をよく表現しています。医者を必要とするのは健康な人ではなく病人であると言われますが、救いを必要としているのは罪人であり、その罪人のためにイエス様は来てくださったのです。しかもただ来ただけではなく、客になり、共に食事をしてくださる。ここで文句を言う人々のように、私たちは時に勝手に救いというもの、救われる人について考えることがあります。それに合わない人、ここでのザアカイのような人は明らかに彼らが考える救いにふさわしくはなかった。あの金持ちの指導者のような人こそ救われなければならないんだと考え、あるいはザアカイ自身も、自分は救われるはずのない人間だと思っていたかもしれない。

 ザアカイ自身、自分にどれほど驚くべきことが起こったのかをよくわかっていました。だからこそ、急いで木から降り、イエスを迎える中で彼は変えられたのです(8節)。これはイエス様が提案されたものではありません。かつて人を騙し私腹を肥やしていたザアカイは、あの木から降りた時にまるで変わったのです。「だれかから脅し取った物があれば、」とは言いますが、この罪の告白からの悔い改めがここに、目に見える形で実を結んでいるのです。度々引き合いに出している金持ちの指導者にはそれができませんでした。幼い頃から、様々な律法を守り続けていた彼でしたが、そんな彼でも躊躇してしまう。人の努力や熱心では生まれて来ないものが、ここでのザアカイの決意なのでした。自分の心から無理に出したものならば、必ずどこかで潰れてしまいます。けれどもザアカイの決意は、まずイエス様によって変えられた心があり、そこから自然に出てくるものなのです。彼はイエスに受け入れられたことを知り、その喜びが源泉となり渾渾と湧き出るように、良い行い、またその行いへの思いが形になっていったのです。

 

5.       まとめ  

 イエス様は最後に言われます。イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」イエス様は本日二回目の「今日」という言葉を使っています。「わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」そして「今日、救いがこの家に来ました。」救いとはなんでしょうか。それはザアカイの名前を呼び、ザアカイを尋ね、その客となられたイエス様ご自身です。私たちが信じ受け入れるのは、イエス様の不思議な力やイエス様に関する知識、ではなく、イエス様ご自身です。この救いを、共に受ける恵みに預かりたいと思うのです。「この人もアブラハムの子なのですから」先程も申し上げましたように、救いは人の熱心によって与えられるのではなく、「あなたの家に泊まらなければならない」と言われる神様の一方的な恵みによるのです。アブラハムの子、これを民族的なイスラエル人と限定して取ることは、聖書全体のメッセージではありません。イエス様は石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことができると言われていますし(ルカ3:8)、ローマ書では、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であると言われています(ローマ2:28-29)。それは信仰によるアブラハムの子孫、地上の民族を超えて、すべての人にもたらされる福音のメッセージなのです。

 そしてすべての人は失われた者、本来いるべき場所にいないで、間違ったところにしがみついているのです。どこまでいっても満たされることのない、間違った場所で間違ったまま滅びようとしている私たち。イエス様はそんな失われた者を捜して救うために来られ、そのさまよう羊のような私の名前を呼び続け、「急いで降りて来なさい」と声をかけ、私たちの内に来てくださるお方です。イエス様はそのために来られた。この大きな恵みを感謝し、ただ主と共に歩ませていただきましょう。