聖書が伝える神の愛

❖聖書箇所 第Ⅰヨハネ4章9節~11節        ❖説教者 川口 昌英 牧師

 

◆(序)多くの人が考える神の愛のイメージ

   クリスチャンでない人が考える神の愛のイメージは、清い神が清い人を愛するというものではないかと思います。それゆえ、自分は清くないから神から愛されないと考える人が多くいます。

 しかし、聖書が伝える神の愛は、そんな清い神が清い人を愛するというものではありません。聖書が伝えているのは、弱さ、醜さ、汚れに満ちた人のために、神の御子が、生まれも、生涯も、徹底的にへりくだり、最後には、人が顔をそむけるほどの残忍で残酷な十字架を受けてくださったという痛ましい犠牲を払った愛です。

 

 本日は、春季聖書講演会として、聖書の基本、神の愛を端的に示している箇所からあらためて実際に聖書が伝えている神の愛についてともに教えられたいと願っています。

◆(本論)本物の愛を示す基準

①人間の愛もそうですが、愛が本物で信頼できるのかを見分けるしるしがあります。第一に、その愛は、自分にとって都合の良い条件や理由によるものでない、本当に相手のためのものであることです。第二に、その愛のために何を犠牲にしているかです。

 この手紙の著者、使徒ヨハネがこの手紙を書いたのは、主が十字架につけられ、死に、三日目に復活され、天に昇られた後、50年以上経っていた時でした。各地に信じる人々が起こされ、成長してきた教会の中に主が与えた福音とは違う教えが入り込み、人々を惑わすということが起きていました。そのような状況は、福音によって生き、福音を伝えるためにいのちのかけてきたヨハネにとっては耐え難いことでした。そのため、優に80才を超える高齢になっていましたが、本物の福音、主イエスによって示された事実としての神の愛について間違えないでほしいという思いをこめて書簡で伝えることにしたのです。 

 

②愛が真実であるかを見分ける第一のしるしは、その愛が本当に相手のためであるということですが、何故、そんな分かりきったことを言う必要があるのかですが、人は、愛ということばを用い、懸命に行動しているように見えても相手のためではなく、実は自分のためであることが多いからです。むしろ、世に溢れている、私たちがよく見聞きしている愛のほとんどがそれではないかと思います。それに対して、神が示された愛は相手であるその人自身のためでした。真にその人が新しく造り変えられ、新しいいのちを持つためでした。

 こんな神の愛は、聖書全体からも明らかです。罪をおかし、神と断絶され、罪と死に支配されるようになった人をあわれみ、罪の支配から贖いだすために、神はアブラハムを選び、その子孫であるイスラエルを選びの民とし、彼らがどんなになっても愛を示し続けています。神の愛を表している印象的なみことばがあります。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともなく…」(イザヤ42章3節) 水辺に生えているような葦のように元々弱いもの、ましてここではいたんでいる葦とありますから本当に弱いものですが、そんな葦のようなものでも不要であるとして折ることがない、また本来ならば、明かりをともして暗やみを照らすことが期待されていながら、くすぶってばかりいて役に立たない灯心でも消すことがないと明らかにしています。「いたんだ葦、くすぶる灯心」両方とも元々は、神のかたちとして創造されていながら、神に背き、罪と死の支配の中にいる人、すべての人のことです。神はそんな者を大切にし、愛してくださるというのです。そんな神の御心がはっきりと表明されているみことばがあります。「『たとい、山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。』とあなたをあわれむ主は仰せられる。」(イザヤ54章10節) 普通、あり得ないことがあったとしても神の愛は決して変わることがないと明言しています。

 そんな神の愛は、時が満ちて救い主としてこの世に来られた主が人々に示された例からも明らかです。主が救いを与えた人々、ルカ7章の罪深い生活をしていた婦人や19章の取税人ザアカイやヨハネ4章、サマリヤの婦人の例から分かりますように、主は人間的に愛されるようなものが何もない、反対に人々から拒まれていた罪人に対して真摯で誠実な愛を示したのです。なぜなら、神の愛は、自分にとって都合の良い条件や理由があるものではないからです、人間的に言うならば、愛される理由がない者を愛する愛であるからです。何故なら、人は、本来は、神から生きる意味と目的が与えられて生まれている存在、神のかたちであるからです。自分が中心になりたい、基準になりたいと神に背き、罪と死に支配される罪人となりましたが、神にとってすべての人は、本来かけがえのない存在であるからです。それを主は、100匹のうちの失われた1匹をいつまでもどこまでも探し、見つけたならば大喜びをする羊飼いの譬えをもって現しています。(ルカ15章)。

 

③二つ目の基準は、そのために何を犠牲にしているかです。主がおられた当時、イスラエル宗教の重要な立場を占めていたのは、律法の専門家である律法学者でした。この人々は、非常に該博な知識を持ち、又多くの場合、律法を厳格に遵守することを主張したパリサイ派に属しており、見るからに威厳に満ち、自分たちこそ真理を知り、特別の神の民イスラエルを代表する存在であると自負していましたが、主は彼らを厳しく責めています。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものでいっぱいだ。」(マタイ23章27節)

 彼らは、自分たちの知識と行いを誇り、そうでない者たちを汚れた者、罪人であると裁いていましたが、自分自身は他の人の悲しみ、苦しみを受けとめることはなく、ましてや人のために自分を犠牲にすることなどいっさいなかったのです。外見的には非常に立派ですが、人々に語っていた神の義のために、自分たちは何も犠牲にしなかったのです。

 そんな者たちに対し、人のかたちを持つものとしてこの世にお生まれになった主が示された愛は人間の常識、想像をはるかに越えたものです。本日の箇所においてヨハネも強調している通りです。人の罪を贖うために、ひとり子であり、神ご自身である方が、最後には全ての人の罪の身代わりとして、最も残忍、残酷な十字架刑まで受けてくださったのです。

 人が深く支配されていた罪と死の状態から救い出され、本来いるべき場にあって生きるために、神のみもとにあって、神とともに、又神に導かれて生きるために、どんなに考え深い、又愛情深い人でも想像できないことを神は人が罪に陥った時から用意しておられ、時が満ちた時に実行してくださったのです。そして御子イエスも父なる神との一体性の中で、十字架刑を受けながら「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか分からないのです。」と祈って下さっているのです。驚くべきことを実現してくださったのです。至上の犠牲が払われたのです。(ヨハネ3章16節)

 

◆(終わりに)見える神の愛

   ヨハネは神が与えてくださった救いについて混乱が入り込んで来た教会に対して、神が確かに、一方的な愛を事実として与えられたと強く言うのです。そしてその事実として表明された神の愛を素直に受けとめるように強く促しているのです。神の愛を人間的な思いで見ることをやめよと言っているのです。

 

   よく神の愛は確かめることが出来ないと言われます。しかし、御子の誕生、そして主の十字架こそ、確かな神の愛なのです。頑で疑い深くて迷いがちな私たち人に対して、これ以上ないほどにご自身の愛を示されたのが、御子の誕生と十字架と復活なのです。誰に対しても主は心の戸をノックし続けているのです。すでに信じている人々は改めて神の愛の豊かさを覚え、生きる力としましょう。まだの方は是非、このすばらしい愛が自分にも向けられていることを知って欲しいのです。