神に会う備え

■聖書:出エジプト記199-25節      ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。

(ピリピ人への手紙26-7節) 

1. はじめに

 出エジプト記を読み進めています。前回5-6節、「わたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、わたしの宝、祭司の王国、聖なる国民にする」という約束に対して、「主の言われたことをすべて行います」と答える民の様子を見ました。そうできなかったことは、この後を読んでいくなかですぐに明らかになるのですが、それでも民はそのようにしたいと願ったのであります。それに対して本日の箇所では、そう願う民たちが、神の前にふさわしく出るということについて教えられています。

2. 神に会う備え

 9節、主はモーセに言われた。「見よ。わたしは濃い雲の中にあって、あなたに望む。わたしがあなたに語るとき、民が聞いて、あなたをいつまでも信じるためである。」それからモーセは民のことばを主に告げた。濃い雲の中にあって、あなたに望む。度々お話しているように、雲というのは神様がそこにおられる、臨在のしるしとして多く登場しています。濃い雲の中にあって、直接見ることはできないけれども、しかしそこでモーセに語りかける言葉がたしかにあり、民はそれを直接聞くことができる。それで、神はもちろん、神のしもべであるモーセが語る言葉をも、神の言葉として信じるようになると言われるのでした。私たちの礼拝もこの延長線上にあることを改めて重く受け止めたいと思います。先程も申し上げましたように、この後20章からは十戒を始めとする律法が与えられていきます。それは、神の民としてふさわしく生きるためのガイドラインであります。それはモーセが勝手に作り出したものではなく、神によって語られたものであるということを、民の全員が知り、従わなければならない。そのために、まず神様はそのようにしてご自身を表されようとしているのです。

 その中で、そもそも神に会うための備え、神の言葉を聞くための備えをするように命じておられるのが本日の箇所です。10-15節、主はモーセに言われた。「あなたは民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、自分たちの衣服を洗わせよ。…

 ここで言われていることは、神に会う備えをせよということです。もう少し言うならば、聖であられる神様の前に出る者、聖なる国民としてふさわしい準備をせよということです。3つのことで、自分たちを整えるように言われています。第一は衣服を洗うということ、第二に境を設けるということ、第三に、これは15節になりますが、異性との関係を控えるということです。これらはすべて、「聖なる国民」になると言われていたことと大きく関係しているもので、「聖である」ということが肝心なのです。聖である御方に会うためには、民もまた聖であらねばならない。聖という言葉の意味が、取り分けるとか区別するという意味であることはよくお話するところです。それが一体どういうことなのかが、本日の箇所、神様に出会うという時の備えの中で明らかにされています。

 衣服を洗うということは、そんなことできよくなれるのかと思ってしまうものですが、ただ内面的に聖めるだけではなく、極めて具体的・実際的な行いから始まっているということを覚えたいのです。それは、もちろんそれだけやっていればよいというものではないのですが、まずは身支度を整える。これは大切なように思います。礼拝に望む姿勢というものを、その準備の段階から改めて見直す、ということは私たちにも求められているのではないでしょうか。よいもの、高価なものを身に着ける、ドレスコードがあるということではもちろんありません。新約聖書でイエスさまの話を思い出します。神殿にあった献金箱に、金持ちたちがたくさんの献金を投げ入れていました。そこへ貧しいやもめがやってきて、レプタ銅貨二枚を投げ入れる。お金の価値で言ったら、金持ちたちのほうが断然おおくのものをささげているのです。世の人々は、多くをささげたほうを良しとします。当然彼らはきれいで上等な着物を着て、やって来ていたのでしょうし、その姿は多くの人の目を引いたことでしょう。いや多くの人の目を引くことを求めて、そのように振る舞っているのかもしれません。しかしイエス様は言われます。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、だれよりも多くを投げ入れました。あの人たちはみな、ありあまる中から献金として投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから」(ルカ21:1-4)金額が重要なのではない、どのようなものを着ているのかが問題ではない。イエス様は、神様は、その心を見ておられるのです。

 その上で、境を作るということが言われています。山自体に境を作る。もちろん、この山がなにか特別で、霊験あらたかな、いわくつきの山であったわけではありません。そこに神が降られるので、その山はきよいとされ、それにふさわしく備えよと言われるのです。ただそこに主がおられる、これが何にも増して重要なのです。なぜ境を作るのか、『山に登り、その境界に触れないように注意せよ。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。』しかも、その境界に触れた人にも触ってはならない、その人を生かしておいてはならないと言われていますから、徹底されています。なぜそんなにも厳しいのでしょうか。私たちは、優しい存在、私たちのありのままを受け入れ、愛してくださる姿を求めるものです。そんな愛の姿ばかりを見ている。それはもちろんも違った神様ではありません。けれども、神様の愛は、何でもかんでもいいよいいよと言われるような、愛ではありません。その人が本当に生きるためには、厳しく罪を指摘し、さばくお方でもある。この境を作るということはまさにそれを表しているようであります。その境は、ある意味で私たちを近づけさせない冷たい境のように感じますが、それは拒絶ではなく、罪ある私たちを守るための境であることを知らなければならないのです。もう少し言葉を変えますならば、きよいお方の前に罪人が立つということは、常にこのような死の危険があるのだということを、重みを持って聞きたいと思うのです。

 3つ目は「女に近づいてはならない」という15節の言葉です。これは女性蔑視とか男女の性が何か汚れたものであるということではありません。他でもない神様が定められたものなのに、それが汚れているということではないのです。そうではなく、やはりこれが特別な神に会う備えであるということに注目しなければならない。いわば神と人との縦の関係のための備えをしているのですから、横の関係は控えるべきであるということ、私たちが何を第一にするのかということが問われているのでしょう。

 いずれにしても、これら3つのことは私たちの体と心を整え、主に会う備え、主の声を聴く備えをするようにと言われているのです。それは、会おうとしている方がどのようなお方であるのかを考えるときに明らかなのです。こうして三日目の朝を迎えるのでした。

 

3. 境を押し破ろうとする人間への警告

 16-20節をお読みします。まさに、人の想像を遥かに超える出来事が、目に見える形、耳で聞こえる形で起こっているのであります。民はみな震え上がったとありますから、恐れがそこにはあったのだと思います。これは、罪に汚れたものがきよい神様に会うときにふさわしい反応であると言えるでしょう。造られた被造物が、造ってくださった創造の主にお会いするとき、人は恐れるのです。私たちはどうでしょうか?モーセは、神に会わせようと、民を宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。山にはすでに境が置かれていました。その前で、息を呑んで山頂を見上げていたのでしょう。角笛というのは、王などの重要な人物の来るとき、また重大な宣言がなされる前に、その合図として演奏されるものだったようです。黙示録でも、神のラッパが響き渡り、キリストが再臨されると言われています。その音がいよいよ高くなった。緊張感も高まります。山の頂に降られた主は、モーセに上ってくるようにと呼ばれました。

 21-25節。山を登ったモーセに対して、神様が言われたことは「下って行け」ということでした。舞台は全て整い、民たちは心身を整え、恐れ震え上がっている。何が語られるのかと息を呑んで待っている。その中で語られたのは「境を押し破ってきてはいけない」という、念押しだったのです。これにはモーセも驚いたことでしょう。それは、もうすでに民たちに伝えていることですからという理由で、降りることを渋ります。なんでだろうかと考えていました。一つには、滅びないように、主の怒りが発せられないように、という神様の思いがあったのでしょう。きよい神を見ることは、死を感じさせることであるということは聖書の様々な箇所で言われていることです。その光の中に罪人は立ちえないのです。神と人とをとりなす祭司でさえ、まずは自分自身を聖別してからでなければ神のもとに行くことはできないのです。ましてや自分勝手に設けられた境を押し破り、自分勝手な思い出滅びてはいけないと神様は案じておられるのでしょう。それは裏返せば、人々はいくら備えをしたからと言って、簡単にその境を破ってしまうものであるということをも言っているように思うのです。疑っている、信頼していないとか言うレベルではなく、人の罪はそれほど重く、神を恐れるということを簡単に忘れ、神と人とを隔てる境を簡単に押し破ろうとする、踏みにじろうとするのだということを、言われているのではないでしょうか。先の場面で民たちは言いました。「私たちは主の言われたことをすべて行います」。しかしこれができなかったことは、私たちも知ることですし、何よりも神様はよくご存知であった。だからこそ、念には念を押すのです。あなたがたがこの境を押し破ってはならない、と。定められた神と人とのふさわしい関係の中に生きよと言われている。真の神を恐れよ、その言葉に聞き従えと言われる。そうして、民の心を整えた後、神様は次回以降見てまいります十戒を与えられたのでした。

 民たちの反応はどうだったのでしょうか。少し飛ばして、20章の18節から21節をお読みします。民たちは、この御方のきよさを目の当たりにし、自分たちの罪をあらためて深く思い知り、そこには立っていることさえできない隔たりがあることを痛感しました。

 

4. それでもなお、近づかれる主

 さて、本日は十戒や律法が与えられる前、神に会うための備えについての言葉を読んでまいりました。とても厳しく、罪ある私たちはこの聖であるお方の前には立ちえないのです。私たちは簡単にこの事を忘れてしまうように思うのです。神を恐れるということです。言い換えればだれを恐れ、だれに従うのかということを見失ってしまう。心をご覧になる主を前に、私たちの心はどうでしょうか?ふさわしい恐れをもって今日の礼拝に備え、日々の生活を続けているでしょうか。あらためて、設けられた境の意味を重く受け止めたいと思うのです。

 と同時に、忘れてはいけないのは「私たちが勝手に境を押し破ること」を禁じられる一方で、神様の側はいつも私たちを招いていてくださるということです。矛盾のように聞こえるかもしれませんが、とりわけ、その最たる現れがイエス様の地上でのご生涯であり、十字架であったということを覚えたいのです。本日の中心聖句にもしました、ピリピ26-8節をお読みします。私たちの側は境を破ることができない、そこには滅びがあります。けれども、私たちを父の元へと連れ戻すために、イエス様のほうが来てくださったのです。下りに降られ、まさに私たちの直ぐ側に来てくださった。私たちは神への真の恐れを抱きつつ、この御方が本当に近くにまで来られたこと、私たちが堕ちるべき最も低く暗き所まで、私たちの罪のためにへりくだられたことを、感謝するものでありたいと思います。イエス様の十字架が隔ての壁を打ちこわし、神様の深い御心に従って、神との和解をもたらされたのです。本日はこの後、聖餐式が持たれます。これもまた、毎月の、いつもの聖餐式ではなく、主が神の御姿を捨てて出会ってくださった故に与えられた恵みのしるしであることを覚えるときとしたいと思います。