朝が来た!

■聖書:ヨハネの福音書20131118節   ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:…夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。私は平安のうちに言った。「私は決して揺るがされない」と。(詩篇305-6節) 

 

1. はじめに

 4月も最後の礼拝となりました。世間ではゴールデンウィークの十連休に、新しい元号が始まるということで、浮足立ち、お祝いムードが流れているように感じます。とりわけ、新しい時代の幕開けを謳う言葉を多く聞きますが、けれども、少し立ち止まり、本当に変わるのかと考えたいと思います。気分が変わる、心機一転などはあるかもしれないが、本質、根本が変わるということとはまったく違うのだと注意したいのです。その最大のものが「死」である。どれだけ新しさを謳い、人々を喜ばせようとしても、それは結局死の手前までの「新しさ」に過ぎない。多くの人はそんな事はわかっているでしょう。けれども、なにかこの暗い世の中に光明を見出そうともがいているのではないでしょうか。取り敢えずお祭り騒ぎをして、本質を見ないように、考えないようにしているように思うのです。しかし聖書は、本当の新しさを、それまでとは180°人生が変わる朝があることを教えています。本日のみ言葉から教えられてまいりましょう。

2. 空の墓を前にしたマリア

 1-3節をお読みします。さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」本日お読みしています出来事があったのは、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちでありました。ヨハネはこの復活された日が「週の初めの日」であると、19節でも言っていますから、イエス様のよみがえりがこの日であることはヨハネにとって大切なことなのでした。「週の初めの日」とは一体いつなのでしょうか?すぐ前の1942節には、十字架にかかったイエス様が墓に納められたことが書かれていますが、そちらには、ユダヤ人の備え日であった、と言われています。これは安息日の備えの日という意味で、安息日が土曜日でありますから金曜日のこと。翌日の安息日には働くこと、家から出ることさえ厳しく制限されていましたから、なんとかしてこの備えの日中に埋葬しなければならなかったのです。ユダヤ人たちは、一日の始まりを日没からとしていましたので、実質金曜日の夕方までにはそれをしなければならなかった。それから三日目。安息日が明けた日曜日が週の初めの日、イエス様が復活された日だったのです。

 その朝のことを、四人の福音書記者がそれぞれの視点で書き記していまが、本日与えられていますヨハネ福音書では、マグダラのマリアという女性に光を当てます。マグダラというのはガリラヤ湖の西岸に位置していた村です。この人が復活の主に初めて出会った人物でありました。先週の礼拝でも語られましたように、イエス様が復活されたというのは、十字架のおまけのようなものではなく、私たちの信仰の肝、扇の要のようなものであり、これがなくてはばらばらになってしまう。そんな大切な出来事であります。そんな大切な出来事で最初に出会われたのが、この女性、マグダラのマリアでした。この女性がイエス様に従うことになった経緯についてはルカの福音書に記されています(ルカ8:1-3[2])。聖い行いをし、だれからも一目置かれた人物、ではなかったようです。七つの悪霊に憑かれていたということは解釈が分かれるところですが、確かなことは、この女性は心底苦しんでいたということです。それは実際の心と体の苦しみとともに、周りからも悪霊に憑かれた女と指さされる痛みがあったことと思います。だれからも一目置かれていた、どころか、噂され、避けられていたような人だったのかもしれません。しかしさらに大事なことは、そんな彼女を苦しめていた悪霊は、イエス様によって追い出され、イエス様によって彼女は癒やされたということです。彼女の苦しみ、悲しみはイエス様に出会うことによって解決された。だからこそ彼女は、その後の生涯をこの御方と共に生きることに決めたのでした。

 彼女だけでなく、多くの人がイエス様の後に従いました。この御方とともに生きていこう、ついていこうと決めたのです。しかしイエス様の十字架にまで従ってきた人々はごくわずかです。弟子たちでさえ逃げ出しました。ましてやイエス様が十字架で死んでからもなお残っている人は、更に少なかったはずです。死んでしまったらおしまい、という考えは、もちろん当時でもありました。それでもイエスの十字架のもとに残り、安息日が明けるやいなやすぐさまお墓にやって来たマリアの思いは、相当に強いものだったのだと分かるのです。まだ明るくなる前とはいえ、重罪人として死刑に処せられた人のお墓に行くというのは、並大抵のことではありません。しかし彼女たちは安息日が明け、週の初めの日の朝日が昇るのを待っていたのです。いつもと同じ安息日、いつもと同じ夜ですけれども、そのあまりの長さに様々なことを考えてはやめを繰り返し、悶々としていたということを想像します。だからこそ、まだ夜が明けてもいないのに飛び出してきたのでしょう。

 けれどもそれは、復活を信じていたというのとは違ったようです。週の初めの日、すなわち十字架の死から三日目というのは、イエス様が十字架にかかる前に言われていた、よみがえりの約束の日でした。まだあたりは薄暗がりです。そこで目撃したものは、イエスの墓を封じていた岩が転がされていた、墓が暴かれていたということです。時間が時間ですから、自分たちと同じ目的で来たとは考えられない。だからといって、イエス様がこれまで話されていた復活のことを思い出すことはしなかったのです。それほどまでに、この復活というのは常識外のことでした。彼女がとっさに思いついたのは一つ、3節「だれかが墓から主を取って行きました。」主の遺体は何者かによって持ち去られてしまった。イエスを憎んでいたユダヤ人たちかもしれないし、イエスを十字架につけたローマ当局かもしれない。いずれにしても、生きているイエスにはもう会えない以上、彼女の唯一と言ってよいほどのよりどころである遺体さえ、なくなってしまったということに、彼女は打ちのめされたのでしょう。頼りにし、その生涯をかけてきた相手がいなくなってしまった。空っぽの墓は、まるで彼女の心を表していたようでもあります。あまりのことに、悲しみ涙する前に、彼女は弟子たちを呼びに行きました。4節からは弟子の中でもペテロと主に愛された弟子ヨハネが登場しています。マリアの知らせを聞いた二人は我先にと駆け出し、空っぽの墓を見たのでした。彼らはそこにあるべきものがないのを見て、また家に帰ります。信じた、とありますが、すぐ直後には悟らなかったとありますから、なにかが起こったことに違いはないが、どうすることもできずにただ首をひねりながら帰っていったのでしょう。

 しかしマリアは違います。マリアは再び、彼らが帰った後だったのでしょう、ひとりで墓へ戻ってきました。そして空っぽなその墓を改めて見て、様々なことを思い巡らしていたのでしょう。11-13節からお読みします。一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。すると、白いころを着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」その背中、その言葉には、様々な感情を読み取ることができるのではないでしょうか。冒頭では涙を見せなかった彼女ですが、それを愛していればいるほど、悲しみは大きく、複雑になります。ただ悲しみだけではなく、虚しさや怒りなどもあるだろう。喪失感、虚無感、失望、後悔などもあるかもしれない。加えてこの描写は、3節での「私たちには」から、「私には」と一人であることがわかります。読み込みすぎかもしれませんが、私はここで彼女が一人であるときに泣いた、ということが心に残りました。もしかしたら最初に空っぽの墓を発見したときには、驚きがまさり、早くなんとかしなきゃいけないという思いが強く、泣くということがなかったのかもしれない。周りに一緒に行った女性たちがいたから、泣けなかったのかもしれない。でもそんな様々な感情が、少しの時間が経ち改めて一人で墓の前に佇み、静まって、過去のことなどを思い起こしているうちに溢れ出て、とめどなく流れる涙になったのではないか、そのように思うのです。泣くという言葉がこの一節にわざわざ二回も出ていますから、さめざめと泣いていたのではなかったのでしょう。恥も外聞もなく泣きわめいた。一人になったとき、様々な思いが彼女の中に浮かんで膨れ上がり、爆発し、溢れでしたのではなかっただろうかと想像できます。

 皆さんにも、そのようなときはないでしょうか。一人になって静まるときに、次から次へと溢れてくるごちゃまぜの感情がある。自分でもコントロールできない感情の波にめちゃめちゃにされることがある。私にとって、学生時代の「夜」というのがその時間でした。大学時代ですが、はじめての一人暮らしの夜はそのような感情がごちゃまぜになって膨れ上がるということが多かったように感じます。それが嫌だったとか、寂しかったとかとはまた違い、それなりに大切な時間であったと思うのですが、とにかく一人になると、様々な思いが頭と心をいっぱいにするのです。特にネガティブな感情、不安な色の強い感情で、胸が締め付けられるような、何かいても立ってもられずに、地に足がついていない状態です。一日のことを振り返ってあのときああ言っていればよかった、あんなことしなければよかったと思うこともありますし、将来のことを考えて、どうすりゃいいんだと悶々とする。何かその堂々巡りのようなことをしていたように思います。何かをしていないと、そのあふれる感情にどうにかなってしまいそうになる。それは言葉にして説明することもできないくらい様々な感情であります。思うに、このようなことを割り切れという方が難しい。人はそんなに単純にはできていません。時にそれに押しつぶされそうになりながらも、抱えているのです。他のことをして気を紛らわせるということも多くあるでしょう。何かを失ったときに、ひとまずその埋め合わせをする。ましてや、愛する人を失った悲しみというのはその人にしかわからないものであり、周りが簡単に言葉化してはいけないような気もします。とにかく彼女は周りの女性達、また弟子たちがいなくなり、ひとりになった墓、しかもからになった墓を前に、立つくし涙するのでした。

 

3. 名前を呼ぶ羊飼い

 しかし、そんな空っぽの穴を前にたたずみ、一人泣いているマリアに、復活されたイエス様は最初に出会われたのでした。墓を見て、空だったことを確認して帰っていったペテロやヨハネといった弟子たちではありません。彼女の涙を読むとき、復活を信じていない不信仰な人だ、感情的な人だと言われることがありますが、そればかりではないように思います。なぜなら、他でもないイエス様が彼女に出会い、名前を呼んでくださるのです。彼女にはこの御方がどなたなのかが分かりませんでした。彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」

 あれほど愛し慕っていたイエス様の姿がわからないのです。興味深いことですが、復活の主に出会い、最初からイエス様だと分かる人はおらず、福音書ではだれもが、この方がどなたか分からなかったということが言われています。それほど復活ということがありえない、言い換えれば、死というものが絶対的な終わりであるということも言えるでしょうか。「なぜ泣いているのか、だれを捜しているのか」そうお尋ねになるイエス様ですが、なぜ泣いているかの理由は明らかです。それでもあえて、空虚な墓の前にたたずみ涙する一人の女性に、復活の主は語られるのです。「なぜ泣いているのですか」。

 それは厳しい詰問ではなかったでしょう。「なんで泣いているんだ、不信仰なものよ」なんて言葉ではなかったはずです。続けてイエス様は呼ばれます。イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。マリアという呼びかけは当時イエス様たちが話されていたアラム語が使われています。その響きは、十字架前の響きとまるで同じでした。そしてマリアもまた同じように「ラボニ、先生」と答えます。ヘブル語と書かれていますが、正確にはやはりアラム語のようです。多くの神学者たちは、ここにこそ、神と人との真意密な交わりがあると言い、そして、すでにイエス様がお話になっていた一つの御言葉を思い出すのです。同じヨハネの福音書103-4節、門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立っていき、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。真の羊飼いであり、羊のためにいのちを捨てると言われたイエス様は、この一人の悲しみに暮れる羊、マリアの名前を呼び、このマリアもこの方がどなたかわかったのです。そのとき初めて、イエス様がよみがえられたということを知ったのでした。本当の復活の主に出会った。主が出会ってくださったのです。

 

4.「すがりついているのはやめなさい」

 そして新しい生き方の指針が示されるのでした。嬉しさのあまり、マリアはイエス様に飛びついたのでしょう。イエス様は「すがりついているのはやめなさい」と言われました。少し冷たいとも思える言葉です。彼女はイエス様にすがりついたのです。しかし、そのよみがえられたイエス様にしがみつくことは、イエス様復活の目的とはずれたところであった。墓を前にしたときに私たちは嘆き悲しみます。その穴を埋めようと、様々なものにすがりつく。ときにイエスさまがそのような対象になってしまうことがあるかもしません。でもイエス様は、そうしたわたしたちに対して、言われるのです。イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」これはイエス様の復活の意味を表している言葉です。かつてのマリアからしたら、結局イエス様はいなくなってしまうということになります。十字架でイエスを失い、その遺体さえ奪われてしまったと涙していたマリア。けれども、それとはまったく別の意味を、このイエス様の言葉は伝えているのです。どこかへ行ってしまうのではなく、父のもとに上る。それも、イエス様の父でありイエス様の神であるお方、私たちの父であり私たちの神であるお方のもとへのぼられるのです。それはご自身が道となって、イエス様を信じる者が私たちがこの御方のもとへ行くためです。私たちのだれもが「もうおしまいだ」とひれ伏す死に勝利された御方が、死で終わりではない道を示し、私たちを天のお父さんのもとへと連れ上ってくださる。つまり私たちも、このイエス様のあとに従って、父なる神の御もとへと帰ることができるんだと言うことを教えておられる。そのためにこそ、イエス様は十字架にかかり、復活され、天に昇られるのです。だからマリアは、すがりついていてはいけないのです。これまでのような、地上ですがりつける、一時の慰めに過ぎない存在を求めるのではなく、さらに素晴らしい、死を打ち破り「世の終わりまでともにいてくださる」イエス様を知らなければならない。ここに、何者にも奪い去られることのない新しい生き方が始まるのです。死に勝利された方がおられ、そのお方に地上ですがりつく以上の、本当の喜びが与えられるのです。確かにマリアは夜の苦しみを経験しました。たくさんの涙を流した。けれども、復活の朝、全く新しい喜びが生まれたのです。

 

5. まとめ  

 私たちもまた空虚な穴を前に、ただただ佇むばかりのことがあります。様々な感情が入り乱れて溢れ、泣きに泣くということがある。それでも、復活のイエス様は出会ってくださるのです。真の羊飼いのように羊である者の名を呼んでくださる。本日の中心聖句を、旧約聖書、詩篇の一節にさせていただきました。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。私は平安のうちに言った。「私は決して揺るがされない」と。これはただたんに、明けない夜はない、とか、止まない雨はないなどというようなものではありません。確かに時間の流れが解決してくれる涙もあるでしょう。けれども、本質は変わらないのです。再び夜は来て、別のことで涙を流すことの繰り返しです。人間がいくら時代を区切り名前をつけたとしても、そこに本当の新しさがあるわけではない。しかしイエス様の復活を信じる私たちは、本当の新しさがどこにあるのか、希望の朝がどこに始まるのかを、いつも覚えていたいと思うのです。そして、その新しさの中で生きていく。そのように生きることができるのです。

 さらに、それを伝える者となる。このマグダラのマリアは、すがりついていてはいけないと、ある意味でイエス様から離れるようにと言われました。それには、イエス様の目的があったのですが、同時に彼女には、地上のイエス様にすがりつくより大切な使命が与えられていたのです。最後に18節をお読みします。マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。「私は主を見ました」それはまぎれもなく、復活された主を、死に勝利された主を、真のいのちである主を見た、出会ったということであります。もう泣いてはいません。もう空っぽの墓を前に佇んではいません。もう地上のものにすがりついてはいません。主を見上げ、死に勝利されたお方のいのちを覚え、喜び伝えるのです。これを聞いた弟子たちは、更に復活のイエス様に出会い、それぞれの傷は癒やされ、全世界に福音を伝えるように召されていきます。この復活の朝から、キリスト教は始まりました。私たちもまた、このあたらしい朝を覚え、喜びを持って歩んでまいりましょう。主はよみがえられた。私たちはそのことの証人です。