人生が変わる告白

❖聖書箇所 ヨハネの福音書20章24節~29節       ❖説教者 川口 昌英 牧師

◆(序)主の復活とトマス

①教会カレンダーによると、今年は本日が、十字架につけられ死に、墓に葬られた主が、死より甦られた復活記念日(イースター)です。人の罪の贖いが成就し、死に対する勝利が実現した、クリスチャンにとってはクリスマスと並んで、大切な記念日です。

 一人ひとりの罪を贖うために、残酷な十字架刑という刑罰を受けてくださったことだけでも豊かな愛を感じるのですが、しかし、死んで墓におさめられたままであったなら、主は、世にいるすばらしい人の一人であった、また人に希望を与えることを語っておられたが、やはり人のことばであったということになるのです。

 ですから、十字架につけられ、死んだ主が死より甦られたということは、主が本当に神であった、また主の語られたこと、なされたことは真実であった、罪の贖いを実際に完成されたことを意味するのです。復活によって、主がまことの神であった、あのむごたらしい十字架は、人の罪を贖うための父なる神の御心であったことが証明されたのです。

 

 それゆえ、主の十字架の死は自分の罪のためであったと信じる者は完全に救われ、罪が贖われているのです。そして、神のもとに迎えられ、神の子とされて、御国の約束、また終末において栄光の姿を持つものとして復活する約束が与えられているのです。

②このようにクリスチャンの信仰において大切な主の復活ですが、主によって直接選ばれた12弟子の一人でありながら、トマスは、自分がいない時に、他の弟子たちが、私たちは復活の主を見たと言っても決して認めようとせず、頑に否定しました。「私は、その手に釘の跡を見、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を差し入れてみなければ、決して信じません。」とは、単なる否定ではありません。そんなことがあるはずがない、決して信じることができないという強い否定です。

 何故、直接選ばれ、約三年半、親しく主の近くにいて語る言葉を聞き、なされたことを見ていながら、例えばマタイ16章21節(朗読)にあるようなことを聞いていながら、又、仲間たちから復活の主を見たと言われても強く否定しているのでしょうか。

 トマスについて言われている箇所を見ると、思ったことをすぐに口に出す直情型人間だったようです。このところでも、トマスは疑っているのではなく、他の弟子たちが言うような復活などないと断定しているのです。

 私は、そんな彼の強い否定には、私たちにとっても大切な意味があると思います。なぜなら、彼が言っていることは、今日の多くの人々と共通しているからです。

◆(本論)トマスの思いと神の御心

①トマスが主から事前に復活のことを聞きながら強く否定した第一の理由は、確かにトマスも主がラザロなど死んだ人を生き返らせていることを見ていましたが、それはあの方が特別な不思議な力でなしたことであって、その人自身が死んだのだから、原則は、死者はやはり生き返らないと固く思うようになっていたのです。

 トマスは、主からご自分は神であり、神の子であると聞いていました。しかし、その方が十字架につけられ、死んだのだから、この地上におられた間、いくらすばらしいことを語り、行いをしたとしても、自然法則の通り、死んだものが生き返ることはありえないと考えたのです。そういう人は、後に生まれた初代教会時代にもいました。(第Ⅰコリント15章12節~13節) その思いは、今日も多くの人が主の復活のことを聞くときもそうです。一度、死んだ者が生き返ることを信仰の中心として信じているなんて、宗教に支配されている愚かな者たちだという思いです。

 トマスが自分がいなかった時に復活の主が現れてくださったと親しい仲間たちから声を大にして言われても強く否定したのは、第一に、この世界にはやはり死んだ者が生き返ることなど絶対にありえないという思いだったのです

②続いての第二の理由は、百歩譲って、そのようにありえない死者の復活が万が一あったとしても、自分が見たのは、敵によって捕えられ、重大な犯罪人を裁く十字架刑を受けた、惨めな敗北者としての姿であったのです。あんな惨めな死をとげた人が、ご自身が言っていた通り、栄光に満ち、力に溢れた神の御子であり、神であることを意味する、復活するとは到底受け入れがたいという思いです。主の最後、犯罪人として処刑された、残忍で残酷な十字架刑がトマスの心を重く支配していたのです。確かに、主の最後のことについて聞いて知っていました。しかし、実際に、敵によって捕えられ、最も苦痛と辱めと恐怖を与える十字架につけられるとは考えていなかったのです。

 トマスにとって、三年半、主として仰ぎ、愛し、従って来た方が神の御子と信ずるに最もふさわしくない死、最も惨めな死を迎えたのです。寒い、暗い、汚れた家畜小屋の中でお生まれくださったように、最後も人々が顔をそむけ、蔑む死を受けられたのです。主が十字架刑につけられた時、トマスも、他の弟子たちと一緒に逃げたのは、恐ろしさだけでなく、これまで従った来たが、やはり神ではなかった、神の御子ではなかったと失望落胆したこともあったのです。そのため、どれだけ、仲間たちから復活の主とお会いしたと強く言われても頑に拒んだのです。

③三番目の理由は、トマスの思いの中にある、主のご生涯そのもの、人に仕えるしもべとしての姿も、主が真の神であることを示す復活を信じることが出来ない理由でした。人の一生について、棺の蓋を覆った時、どんな人であったのか分かると言われますが、トマスは主の死を知った時、惨めな死の姿と合わせて主と共にいた時の主の姿を深く思ったのです。仕えられる姿ではなく、仕える姿を持っていたことです。栄光、尊厳、力に満ちたお姿ではなく、反対にしもべ、奴隷のように、へりくだり、悩む者、悲しむ者、求める者と共にあり、愛された姿です。すばらしい方であるが、自分が考える神ではなかったという結論です。

◆(終わりに)幸いな人生に導く告白

 しかし、これら彼が主の復活を強く否定した理由そのものが反対に主が真の神であったことの証拠でした。トマスは、人間的常識から、あのような生涯を送り、最後を迎えた方が復活する、神であるとは考えられない、決して信じることができないと思ったのです。しかし、それは全部人間的考えによるものでした。トマスには、この世の常識や人生の中で積み重ねて来た神の姿があったのです。だからいくら説得されても受け入れることが出来なかったのです。

 けれども、神が始めから旧約の時から備えられたのは、使徒パウロが言うように、人間の経験、また想像をはるかに超えるものでした(第一コリント2章9節)。トマスが主の甦りを否定し、ありえないと思った理由そのものが神が人の罪の贖いのために特別に用意しておられたことでした。

 どういうことかと言うと、確かに、一旦死んだ者が生き返ることはありえないのですが、主の復活は、単なる生き返りではないのです。死に完全に勝利をした、栄光のからだ、朽ちない、天上のからだ、御霊のからだとしての復活だったのです。又、あの残忍な十字架は、人を深く支配していた罪より救うために、どうしても必要な神の御心であったのです。惨めな敗北ではなく、罪に支配されている人を救うためにどうしても必要な神の側の犠牲であったのです。さらにあのしもべの姿こそ、インマヌエルの神、神は遠くにいる方ではない、どのような人とも共に歩み、弱さのうちに働かれる神を示したのです。

 

 決して信じないと拒んだトマスですが、復活のお姿にお会いしてすべて分かったのです。人間の考えで神を理解しようとしていたこと、神が与えてくださったものは人の想像をはるかに越えたものだと分かったのです。人に対する真実で深い愛を実感したのです。「私の主、私の神よ」という告白は、彼の心からのことばです。復活の主がトマスに現れてくださったこの場面は、本当に大切をことを伝えています。主の復活は、父なる神が罪に支配されていた私たちを救うために用意されておられた慈しみと恵みに満ちたものでした。このイースターの日、私たちも心から「私の神、私の主」と告白し、そして神にあって生きる思いを新たにしようではありませんか。