わが神、わが神

■聖書:マタイの福音書2745-46節     ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:彼は、私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。 イザヤ書535節 

 

はじめに 

 受難週に入り、金曜日はイエス様が十字架にかかられた受難日です。イエス様が十字架に向けて歩まれた道をヴィア・ドロローサ「苦難の道」と呼びますが、その道を進まれたイエスさまの苦難が何のためであったのか、その苦しみがいかほどであったのか、静かに思う時を過ごしたいと思います。世間ではイースターが少しずつ浸透してきていますが、その輝きの前には確かな深い闇があったことを、先程お読みいただいた箇所を始め、聖書は教えています。その闇がなければ、光は訪れないのでありますが、しかし私たちはどれほどこの闇の深さ、濃さ、恐ろしさを知っているでしょうか?本日はイエス様のうめきの言葉から、イエス様が十字架にかかり、死なれたことの意味を覚えたいと思います。

 十字架にかかられたイエス様の言葉が七つ、福音書に残されています。マタイとマルコは本日の言葉だけですが、ルカとヨハネはそれぞれ三つずつ収められています。時系列で並べますと、最初はルカ23:34、イエスがゴルゴダの丘まで連れてこられ、十字架にかけられたときに言われた言葉「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」。さらにその後、イエスの両脇にかけられた犯罪人の一人に話された「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」という言葉が二番目です(ルカ23:43)。三番目はヨハネ19:26-27、十字架のもとにいた母マリヤと弟子のヨハネに対して、「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた言葉があります。そしてここからがイエス様の十字架の中でも、いよいよ最後、イエスが息を引き取る間際の言葉が続きます。その最初が4番目の言葉である本日の言葉、マルコの福音書の言葉では「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」というものです。マタイとは微妙に言葉が違っていますが、マルコは、イエス様が日常の言葉で話していたアラム語で「エロイ、エロイ」と書き残していて、どうやら実際にはこのようにつぶやかれたようです。

1.       「見捨てられた」イエス 

 いずれにしましても、意味は同じで「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というものです。これは先程交読文でともによみ交わした詩篇22篇冒頭の言葉、ダビデのうめきの叫びです。イエス様はこれをご自身の言葉で話したと言いましたが、この御言葉をただ暗唱しただけではなく、ご自身の思いをその御言葉に重ねてつぶやかれたのでありました。

 時刻は午後3時ころです。金曜日の明け方に行われた異例の裁判があり、イエス様が十字架につけられたのが午前9時頃であったとされていますから、すでに6時間ほどが経っていたと考えられます。その間苦しみ続けてこられたイエス様でしたが、周囲の状況は異常なものになっていました。45節、さて、12時から午後3時まで闇が全地をおおった。砂嵐や日食、虫が太陽の明かりを遮ったなど、様々な説明がなされて来ましたが、大切なのは、この闇が、神が罪に対して怒りをもって審判を行うことを示すものだということです。出エジプトの際にも、イスラエル人の住むところには光があったにもかかわらず、三日三晩の闇がエジプトをおおいました。単に暗くなっただけでなく、このイエスの十字架が、神の怒りと裁きを受けるという意味であったことがわかるのです。それをさらに裏付けるのが、続くイエス様の発言です。46節、「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」外は暗闇、しかしその闇よりも更に深い絶望が、このイエス様の発言に見ることができます。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」肉体の痛み以上、神に見捨てられた痛みがありました。イエス様はこれまでにも何度となく神様に呼びかけてきましたが、イエス様が神様に呼びかけるとき、「父よ」と呼びかけていない唯一の箇所がここです。父と子の麗しい関係はもう無いのです。

 少し見方を変えると、イエス様は実に様々な人に見捨てられてきた、と言えるでしょう。ずっとメシヤを待っていたはずのユダヤ人、イエスの教えを聞きついてきた多くの群衆たち、エルサレムに入った時にはホザナと歌い歓迎していた人々、そして死ぬまで従いますと豪語した、ペテロを始めとする弟子たち。そんな多くの人々に見捨てられたのです。でもイエス様は、そんな見捨てた人々にはこの言葉をぶつけていません。あくまでも、「わが神、わが神」と、父なる神に見捨てられたことだけを叫んでいるのです。この神に見捨てられるということこそ、十字架の一つの大きな理由であったのです。

 「見捨てられる」という経験をされたことはあるでしょうか?日本語の辞書を開きますと、「関係を断つ、見放す、見限る。また困っていることを知りながらそのまま捨ておく」などとあります。見捨てる理由は様々でしょう。相手が失敗をした、自分にとって不都合になった、約束を破った。だから関係を断つ、だから見限る。神様から見捨てられる、関係が絶たれるというのは、救いであるお方と関係が絶たれるということでもあります。これ以上ない思い罰であると言えるでしょう。

 しかしすべての人が、神との関係を自分から絶って生きていました。神なく、望みもないものだったと聖書にはありますけれども、まさにそのとおりに滅びに向かって生きていたのです。けれども神様は、見限ることなく、いつも呼びかけてくださいます。放蕩息子や99匹の羊を置いて1匹を探し回るたとえ話では、諦めずに待ち続ける神様の姿、イエス様の姿を聞いて、私たちは安心し、嬉しくなります。先週の教会学校では、ペテロが三度イエスを知らないと言って裏切ったという箇所の話をしましたが、それでもイエス様は、そんな重大な裏切りをしたペテロを見捨てたりはしないで、かえってペテロのために祈ってくださった。こちらがどれだけ自分勝手に生きたとしても、どんなに大きな失敗を犯したとしても、しかし神様は決して私たちを見捨てない。それが私たちにとっての大きな慰めとなっているのではないでしょうか。

 けれども忘れてはならないのは、それは私たちがなにか可愛くてしょうがないから、私たちの中になにか見捨てられないだけの理由があるからではないのです。本来だったら、見限られるべき、どうしようもなく罪に汚れた存在です。何度帰ってきなさいと声をかけられても、手を伸ばされても、聞かずに手を振りほどいて更に離れていくわがままな子供のようです。でも、そんな何もわからない私たちを助けるために、十字架にかかり、父なる神に「見捨てられる」という苦しみの頂点を一身に背負ってくださった。永遠から永遠まで共におられるお方と断絶されることになったお方がおられる。罪人であるために、本当だったら「聖」であられる神様からは見捨てられなければならない私たち。そんな私たちを救うために、身代わりとなって「見捨てられた」お方が、この「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ぶイエス様だったのです。

 先週は聖餐式がありましたが、そこでいつも歌われる新聖歌49番「しみもとがも」の中に、こんな歌詞があります。「こはわがため呪いうけて/流させたまいし君が血なり」。歌うたびに、呪いという言葉の重みに胸が締め付けられる、そんな賛美です。これはわたしのために呪いを受け、十字架にかけられて流されたイエス様の血である。十字架にかけられるということは、ユダヤ人にとってはただの死刑以上の意味があり、それが「神からの呪い」なのです。律法の中には、「木にかけられるものは神に呪われる」という戒めがあります(申21:23)。旧約聖書を読んでいますと、度々、祝福を選ぶか呪いを選ぶかと問われていることに気づきますが、それはつまるところ、神を信じて神と共に生きるか、自分を頼りこの世に生きるかの決断に迫られているのです。神と共に生きるところには祝福があり、自分中心に生きるときには呪いがある。あなたがたは祝福を選び取れ、わたしのもとで、わたしとともに生きよと勧められているのです。でありながら、ここでイエス様は十字架にかけられ、神様の呪いを受けておられる。神と共に生きることが終わった、まさに見捨てられたのです。十字架にかかる必要のなかったお方、御父に見捨てられるはずのなかったお方です。けれども、罪人である私たちがその神と共に生きる、永遠のいのちの祝福を受けるためには、私たちの身代わりとなって御子が見捨てられるということが、どうしてもなければならなかったのであります。

 この時のイエス様の苦しみを想像することは簡単ではありません。というより、潔く、できないと言ったほうが良いでしょう。罪人であり、神から離れていた私たち、見捨てられて当然だった私たちには、創造の前から父とともにおられ、三つにまして一つなるお方が引き裂かれるということの痛み、苦しみは想像できるはずもないのです。けれども、その十字架上で見捨てられる意味は、私たちのためであったということを忘れてはいけません。周囲を覆う闇以上に、イエス様の感じられた絶望は私たちのためであったということを、この受難週に改めて覚えたいと思うのです。

 イザヤは預言しました。有名な53章です。本当は全部を読めばいいのですが、特に4-5節をお読みします。まず4節、まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。人はこの十字架の意味、イエス様は「見捨てられた」と叫ぶ意味がわからないのです。だからこそ十字架の周りにいた人々は、更にイエスの苦しみを長引かせようと酸いぶどう酒を飲ませようとしたり、それはエリヤを呼んで助けてもらおうとしているなどと勘違いをするのです。「十字架から降りてみろ。そうすれば信じよう」とさえ言っています。どこまでも罪に鈍感であり、救いが与えられていることに気づけない罪人の姿がここにあるようです。しかし彼らだけでなく、十字架の意味を、イエス様が父なる神様に見捨てられた意味を、どれだけ私たちは重く受け止めているでしょうか。呪いを受け、肉を割かれ、血を流されたその苦しみは私達のためである。イザヤ535節、しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。ここに愛があるのです。「神はその独り子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(1ヨハネ4:9-10)子供の頃、教会学校でよく歌った「両手いっぱいの愛」という賛美を思い出します(新聖歌483)。「ある日イエス様に聞いてみたんだ、どれくらい僕を愛しているの?これくらいかな、これくらいかな。イエス様は黙って微笑んでる。」歌いながら、これくらいかな、これくらいかなと両手でジュスチャーをつけます。二番でも同じで、やはりイエス様は、そんな私たちを見て優しく微笑んでおられます。けれども三番で答えてくださる。「ある日イエス様は答えてくれた。静かに両手を広げて、その手のひらに釘を打たれて、十字架にかかってくださった それは僕の罪のため ごめんねありがとうイエスさま」私たちの両手じゃ到底表しきれないイエス様の愛は、その両手の傷にもっとも大きく表されています。十字架上での叫び、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びに、あふれる愛が込められています。目に見える愛を求める私たちですけれども、しかし神様は、私たちの思い描く愛とは対局にあるような十字架によって、真実の愛を示された。それはなかなか言葉で説明しきれるものではないかもしれません。

 

2.       人々の反応 

 さきほど、十字架の近くにいた多くの人々はこの叫びの意味がわからず、誤解したとお話をしました。けれどもマタイは、そのような人だけではなかったことを書き残しています。マタイ27:54、百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れていった。「この方は、本当に神の子であった」皮肉なことに、この叫びやイエス様の十字架を見て、その真実がどこにあったのかを最初に悟ったのは、イエスを歓迎していたユダヤ人や、イエスに従ってきた弟子たちではありませんでした。ローマの軍人、仕事としてその場にいた人たちです。聖書の知識なんて殆どなかったでしょう。それでも、イエス様の十字架を見て、この御方がどなたなのかを知ったのです。少し前に、「あなたは生ける神の御子キリストです」と告白したペテロはそこにいませんでした。どれだけ立派な知識があったとしても、逃げ出したり誤解したりする一方で、この十字架のもとで、この十字架にかかられたお方を見上げるときにのみ、救いの道は開かれるのです。

 

3.       まとめ  

 「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びから、イエス様の十字架の意味を改めて見てまいりました。この言葉は本当に悲しみに満ち、絶望感がひしひしと伝わってくるものであります。けれども、それは私たちの罪の身代わりとなって叫ばれた叫びであった。バッハが作曲したマタイ受難曲の中に、まさにこのエリ・エリ・レマ・サバクタニという御言葉が出てきます。そして一連の聖書の言葉が歌われた後の合唱部分では、この後歌います「血潮したたる」という賛美のメロディーが登場し、この叫びに応答する形で歌われます。「いつか私が世を去るとき、どうか私から去らないでください。私が死の苦しみを受けるとき、どうかお姿を顕してください。私の心が激しい不安に締め付けられるとき、あなたがうけた恐れと痛みの力で、私から恐れを取り除いてください」イエス様の十字架は私たちに平安をもたらすものです。その苦しみと、十字架によって与えられた恵みを深く覚えつつ、この受難週の時を過ごしましょう。