私はここに立つ

❖聖書個所 エレミヤ1章11節~19節          ❖説教者 川口 昌英 牧師  

◆(序)この箇所について

 本日は、エレミヤ書を通して、信仰者と世の人々の関係について教えられたいと願っています。

 始めに、エレミヤという人物を知るために、エレミヤが主に召された場面を見ます。このところは、主が「エレミヤ、あなたは何を見ているのか。」と尋ねたことに対し、エレミヤが「アーモンドの枝」また「煮え立っているかま」と答えている場面です。どちらも、母国にこれから起こることに注目していることを表しています。参考までに、イスラエルでは、アーモンドは日本の梅のように春の到来を告げる樹です。主は、エレミヤが他の偶像礼拝を続ける者たちのようではなく、まことの神の民であること、砕かれた霊によって、神を慕い求めて生きていることを認め、預言者としての使命を託したのです。

 

 私は、この場面は、世に生きる信仰者としての大切な姿勢を明らかにしているところだと思います。主が用いようとされている存在を示しているからです。主は立場や能力ではなく、その姿勢、たかぶらず、偽らず、罪に砕かれて、主を真に恐れている者を用いようとされておられるのです。それは、旧約時代、新約時代、そして現代の個人、教会も同じです。そのような者を主の器として用いてくださるのです。

◆(本論)エレミヤと妨害者

①エレミヤが若くして預言者として召され、その働きを始めたのは、55年間に渡ってユダを治め、国中に偶像を溢れさせ、みことばの働き人を迫害し、神の民としての生き方を混乱させたマナセの後、神の約束に立ち返ることを訴え、改革しようとしたヨシヤ王の治世でした。

 国を真剣に変えようとしたヨシヤの改革は、諸外国との厳しい関係が続く中であり、また当のヨシヤがエジプトとの戦いの中で命を落としたことにより、さらにアッシリアにかわってバビロンが勢力を拡大し、ユダに脅威を与え、国内が不安定になったことにより頓挫しました。

 エレミヤは、このように母国が内外ともに大混乱していた時に、二十歳頃に神のことばを人々に語る預言者として召されたのです。そして、ほどなくして、母国ユダは、バビロンの攻撃を受け、首都エルサレムが陥落し、国のおもだった人々が遠くバビロンまで捕え移されるという国が崩壊する自体になったのです。

 エレミヤは、そんな激動の中、人々に罪を容赦なく、又徹底的に指摘し、悔い改めるように迫りました。5章20節~31節(朗読)。 民たちを裁き、責めるようなことが多く、エレミヤ自身苦しみましたが、勇気をもって、主のみことばを少しも割り引くことなく語り続けたのです。

   人々の罪を容赦なく指摘し、悔い改めを迫ることは、他の預言者にも共通していますが、エレミヤが際立っているのは、罪を指摘し、悔い改めるように迫っただけでなく、国民からするならば、とうてい受け入れがたい内容を語るように命じられ、語ったことです。敵国バビロンに降伏することが神の御心であること、そして捕囚された者たちに対しては、その地にあって、家を建てて住み、畑を耕し、家庭をつくれということ(29章4節~6節)を語ったのです。明らかに裏切り、売国の行為として受けとめられるようなことを語ったのです。 

②そんな人々を怒らせるようなエレミヤとは反対の人々、自分こそが主に召されたと主張し、民たちに大きな影響を与えていた自称預言者、偽預言者たちがいました。 彼らは、有力者であり、むしろエレミヤよりも信頼されていました (エレミヤ書20章1~2節、28章1~4節) 。彼らは、エレミヤが言うようなことは何も起こらない、母国ユダは決して滅びない、バビロンに連れて行かれた者たちもすぐに帰って来る、何も恐れることはないと民たちに語りました。主からのことばではなく、自分たちが願うこと、民が聞きたいと思っていることを人々に語ったのです。

   心地よいことばでしたが、それらは、偽の預言でした。主は次のように言っています。「わたしの名によって偽りの預言をする預言者たちが『私は夢を見た。夢を見た。」と言ったのを、

わたしは聞いた。いつまで、あの預言者たちの心に、偽りの預言があるのか。…彼らの先祖が、バアルのゆえにわたしの名を忘れたように、彼らはそれぞれ自分たちの夢を述べ、わたしの民にわたしの名を忘れさせようと、たくらんでいるのか。夢を見た預言者は夢を語るがよい。しかし、わたしのことばを受けた者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。麦はわらと何のかかわりがあろうか。」ー主のことばー(エレミヤ書23章25節~28節)。 

 ③このように、エレミヤが語ったことは、偽預言者たちや民衆からの反発により、国民から激しい迫害にあっています。そのため底なし沼に投げ入れられるなど、何度も命が危ない場面に立たされています。けれども、彼は過酷な取り扱いを受けながら主からのメッセージを変えることなく、忠実に語り続けました。主は生きておられ、偶像に流れ、罪を貪る者を必ず裁かれるという主からのメッセージ、神の民とされている自分たちが主のみこころに背くならば、主も又自分たちに対して裁きを下すと言われていることを語り続けたのです。

 エレミヤは、人が自分をどう思うか、大勢の人の意見がどうかということに流されませんでした。エレミヤの生きる力となっていたのは、アブラハム以来の祝福の約束(創世記12章1節~3節)、律法が与えられている「宝の民、聖なる国民、祭司の王国」の民として生きることでした。人間的知恵を用いて、いかに現実をうまく生きるかではなくて、神のあわれみ、恵みを受けた者として、神に誠実に生きることであったのです。そうした姿勢の持ち主でありましたから、苦難の生涯でしたが、主もまた彼とともにあり、彼は、主に用いられたのです。

◆(終わりに)信仰者とこの世

 教会は、主イエスが自分の救い主であることを告白する者たちの集まりです。主によって喜びと平安、希望が与えられた、人生が変えられた者たちの集まりです。そう言った意味では世から取り分けられた人々の集まりですから、自分たちだけで固まりやすいのです。しかし、私たちは、世に遣わされているものであることを忘れてはなりません。この世界は、神が創られた世界であり、そのすべてについて裁く権威を持つ方がおられ、同時に、その方は一人ひとりを深く愛しておられ、悔い改めて神のもとに帰るように待っておられることを伝える責任が与えられています。

 前にも話したことですが、日本のクリスチャンの姿について悩んでいた老牧師が語ったことを忘れられません。マタイ28章18節~20節の説教の中でこのように話されています。この箇所は、ご承知のように、大宣教命令と言われているところですが、老先生は、この主イエスの命令の中心は、「行って、あらゆる国の人々を弟子とすること」であると強調します。すなわち、信じた人が知識を得たり、不安がなくなったり、幸福感に満たされることで終わるのではなく、その人が本当の弟子、主に倣い、主に従う人になることであると言うのです。

 このような理解に立って、日本のクリスチャンについて次のように言われています。「私は伝道者でありますから多くの求道の友と接して来ました。このことは、喜びであり感謝であります。ところが、それらの方々の少なからざる人たちは、自分の安心、自分の慰め、自分の幸福を願いながら洗礼を受けますが、そこから一歩も出ようとしていないのです。なるほどそれらの方々は、洗礼を受けます。主イエスの教えにも耳を傾けます。けれどもその人の最大の願いと目標は、自分が幸せになることであり、自分が満足し、自分の心が安らかになることです。そこから、はみ出すようなことは致しません。あくまでもその限りにおいて洗礼を受け、教えを聞くことを致しますが、それ以上のことはしないということになるのです。」

 

 聖書を通して、主が望んでおられることと違うと語るのです。罪の中で苦しみ、平安も希望も持てなかった人が、福音を知って救われ、人生が変えられたのに、他の人に伝えないで沈黙するならおかしなことではありませんか。ご承知のように、人々の心は、以前の私たちと同じように頑なであり、現代も偽預言者のような姿が溢れています。私たちは、エレミヤのように、ただ、神は、どんな状況になっても、悔い改めて、神のもとに帰れと伝えようではありませんか(31章3節)。