苦境を超えるもの

❖聖書個所ピリピ1章12節~26節      ❖説教者 川口 昌英 牧師

◆(序)この箇所の背景

 この箇所は、ユダヤ・カイザリヤで裁判を受けていたパウロが皇帝に上訴したことにより、遠くローマに移送され、獄、実態は自費で借りた家で足に重い鎖をつけられ、兵の監視のもとに置かれていた時に 、自分の人生について語っているところです。本日は20節、21節を中心として、苦境を超える生きがいについて教えられたいと願っています。

 このところにおいて、まず伝わってくるのは、パウロのはっきりとした生きる目的、願いです。自分がどんな場合にも恥じることなく、どんなに厳しい状態にあっても、大胆に語るべきことを語り、生きるにしても死ぬにしても、自分の身によって、キリストがあがめられることを願っていると言います。十字架刑を受けて死に、甦られ、罪の贖いをなしとげて下さったキリストのすばらしさが人々に伝わり、人々が主を心から愛し、従うようになることが私の切なる願いであり、望みであると言います。

 

 ここには、自分が認められること、評価されること、労苦していることが知られることすらありません。ひたすら、人を愛し、人に対して救いのわざを成就してくださったイエス様の憐れみと恵みが、この身によって現されることを願っているというのです。「私にとって生きることはキリスト」とは、キリストとともに、キリストのためにという意味です。

◆(本論) 人が変わる理由と人生が変わった人

①何故パウロは、厳しい状況の中、20-21節にあるようなことを語ることができたのでしょうか。

 言うまでもないことですが、キリストによって、最も大切な神の義を与えられていたからです。後半の3章8節~9節それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくたと考えています。それは、私が、キリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つのです。」と言っている通りです。

 この神の義が与えられているということが、人にとって、どれほど重要なことであるかは、いくら強調してもしすぎることはありません。どんな人も変える力です。

 義とされたことは、まず私たちの生きる中心が変わったことを意味します。今まで、創造主である神から背を向けて、自分を基準して生きて、自分の砦の中にいましたが、今は、神のもとに迎えられ、受け入れられ、神の子どもとされているのです。

 それは、人間にとって一番の問題である罪、本来、神のかたちとしていのちが与えられていながら、背き、人としての根本の姿を見失っていた状態から回復していることです。そして意識的あるいは無意識のうちに、欲を遂げたり、自分を守るために、さまざまな罪の実を結んでいた生き方、他の人を傷つけたり、孤独や死後の裁きへの恐れなどによって生きていた状態から救いだされ、新しく造られた者となり、神の子として迎えられ、天の御国の希望、また終末における復活の約束が与えられたことを意味します。

 この義が与えられていると、いくら他の人から攻撃されても、又自分の内側からお前のような者は神にふさわしくないという疑う声が出て来ても、混乱したり、慌てたりする必要がないのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださり、救い主を与え、罪を贖ってくださったからです。

 主ご自身の約束であり、主が、ご自分の愛と犠牲によって、私たちにこの義を与えてくださっていますから、パウロは、ここにおいて、私にとって生きることはキリストと言い、

そして、それゆえ、人が恐れる死ぬことも益ですと言うことができたのです。

②瞬きの詩人と言われた水野源三さんのことをよく話しますが、水野さんは、小学校四年生の時に赤痢による高熱のために、脳に障害が残り、手足が動かなくなり、話すこともできなくなり、食べることも含めてすべてを家族や他の人にやってもらうしかないという状態になりました。

 古い時代でしたから、受け入れる施設も整っていず、学校にも行けず、ただ、家にいるしかなかったのです。コミュケーションの手段は、顔の表情であり、家族が持つ五十音の表の言いたい字が来た時に瞬きをして、その字をつなぎ合わせるしかなかったのです。それまではとても活発な利発なこどもだったのですが、一挙に生活が変わってしまったのです。そんな水野さんのところに一人の牧師が訪ねてきて、聖書を置いて行き、何度も水野家を訪ねたのです。そうするうちに源三さんは、家族にページをめくってもらい、聖書を読むようになったのです。その時の様子について、源三さんの伝記によるとこう書いてあります。「源三は渇いていた。生きるために水を求めていた。いのちの水は、源三の心に注がれた。…源三は、日増しに明るくなり真剣に求道しだした。するとそれまでの、暗く投げやりだった態度が一変した。1950年12月源三は洗礼を受けた。善行を積んだからではなく、神の一方的な恵みによって罪が赦される。和解の福音を受け入れることで、人は新しく生まれ変わる。この奥義を信じ受け入れた源三の心は軽くなった。顔つきも変わった。いつもにこにこして、弟妹が口を揃えて、~ほんとに源ちゃんはパッと変わった。~というほど劇的な変わりようであった。」

 それから多くのクリスチャンや牧師との交流をし、18才の時から詩を作り始めました。これまでにも何回か紹介しましたが、有名な詩を紹介します。「キリストのみ愛に触れたその時に キリストのみ愛にふれたその時に 私の心は変わりました 憎しみも恨みも 霧のように消え去りました キリストのみ愛にふれたその時に キリストのみ愛にふれたその時に 私の心は変わりました 悲しみも不安も 雲のように消え去りました」もう一つ「遠い遠い昔 病に呻く人に 主が語られた御言葉を 私へのものとして今聞かせ給え 遠い遠い昔 孤独に悩む人に 主が示されたあの愛を 私へのものとして今受けさせ給え 遠い遠い昔 罪に苦しむ人に 主が与えられた救いを 私へのものとして今受けさせたまえ」水野さんは、主の福音を知ってから本当に変えられたのです。 

 二千年前のパウロも水野さんも、そして今主を知る者たちも苦境にまさる本当の希望に生きるようになるのです。

 

◆(終わりに)始めの信仰、教会

 私は日本社会では、クリスチャンは高い倫理を求められている存在だと思います。清い、敬虔な生活、全ての人を愛し、赦し、不安、恐れを口にしない、死に対しても微笑んで天国の希望を告白して静かに最後を迎えるというイメージです。そんなふうにならなければならないと思っている人が多いのです。 

 本当はそうでないのです。キリスト教の中心は、今日話してきたように人に求めることにあるのではありません。神に背いた人を、神が最高の犠牲を払って愛した、人は、神にある永遠のいのちを受けている存在であることを明らかにした信仰なのです。

 

 終わりに水野さんの詩をいくつか紹介します。「焚き火の温かさは 焚き火に手をかざしたその時に はっきり分かりました 焼き芋のうまさは 焼き芋を食べたその時に はっきり分かりました キリストの愛は キリストを信じたその時に はっきり分かりました」もう一つ女性宣教師という題です。「カナダから はるばると 遣わされてきた 女性宣教師 信州を愛し 福音を語り続けて 三十年 秋風に揺れる 野菊のように キリストの香りを 優しく放ち 美しく老いてゆかれる」水野さんは、自分の人生もまた他の人の人生も主にある人生は、この世の平安ではない、神の平安に満たされると言うのです。