狭い門から入りなさい

■聖書:マタイの福音書713-14節    ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。(ヨハネの福音書146節)

 

1. はじめに

 「狭い門から入りなさい」と言うイエス様の呼びかけの言葉を本日は聞いてまいります。「狭い門」、14節では「いのちに至る門」と言いかえられていますが、門から入り、道を通って、いのちに至る。つまりこれからの過程を描いている言葉ということができるでしょう。私たちはどこから入り、どこを経て、どこに至るのか。その過程が本日の箇所では明らかにされています。

1.       山上の説教の結び 「決断」 

 わずか二節しかない本日の箇所ですが、実はこれまでの山上の説教全体にも深く関わっていることですので、山上の説教全体を見ておきたいと思います。有名な「山上の説教」は5章から始まり、本日の7章で終わります。場面はガリラヤの風薫る丘、だったのでしょうか、大勢の人が集まり、声がよく響くこのところでイエスの話に耳を傾けていました。冒頭は驚くべき言葉で始まります。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。悲しむものは幸いです。その人たちは慰められるからです」心の貧しさ、悲しむことなど、普通ならば避けたいもの、幸いどころか、不幸であると嘆きたくなるようなものです。ましてや10節、「義のために迫害されているものは幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」と、およそ嬉しい・幸せなはずもない迫害でさえ「幸いである」と言われているのです。ここには私たちの常識とか当たり前と思っていることの逆転があります。「価値観の転覆」という言葉を私は学生時代に聞き、強烈に覚えているのですが、まさに私たちが乗っていた舟が大きな波を受けてあっけなくひっくり返るように、大きな衝撃を受けるのです。イエス様の山上の説教は、当時の人々、そして今日の私たちにそんなインパクトを与える教えなのでした。

 この山上の説教を特徴づける言葉が、すでに冒頭から言われていました。8つの幸いの最初と最後は、「天の御国はその人たちのものだからです」という言葉が置かれていますが、これこそが時代を越えて地上に生きているすべてのものに衝撃を与える、価値観を転覆させる言葉なのです。言い換えるなら、このイエス様の説教は、天の御国に生きることの幸いを語り、天の御国に生きるとはどういうことなのかを教えている、そんな説教なのです。もちろん信仰をもったからと言って、急に天に上げられるわけではありません。今日は洗礼式がありますが、神様を信じて救われたと言っても、水から出たら急に天にあげられていくのではなく、明日からも同じ地上で、同じ職場、同じ家庭、同じ人間関係の中で生きていくのです。すでに洗礼を受けた私たちもそうです。けれども、依然として地上にありながら、しかし天の御国の約束が与えられ、さらに地上にありながら御国で生きるように生きられる、いやそのように「地の塩、世の光」として、幸いを握りしめながら生きなさいと言われているのです。

 実はこれまで、旧約聖書の時代にも、神の民として生きるためのガイドラインはありました。それが「律法」です。親は子どもを愛しているからこそ、間違った道に行かないよう、いのちを失う道へ行かないよう、歩むべき道を指し示す。律法はその役割を持っていました。しかし、それは人の罪を際立たせるものとなってしまったのです。いやそこで悔い改め、主の前にひれ伏せば良いものを、それをねじまげて、人が人をさばくための道具になっていたのでした。神様が律法を与えられた理由は、神のみこころを教え、神様が喜ばれる生き方、祝福を注がれる生き方ができるように与えられたのに、人はその罪のゆえに律法によって苦しめられるのです。そんな人間のために、イエス様が来られたのでした。17節「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。」律法によってではなく、律法を成就するために来られたお方によって、神の民の生き方、天国の生き方が示されたのであります。しかしそれは、律法の言葉以上のことを教えるものだったのです。有名な言葉を拾い上げるならば、38 節、「『目には目を、歯には歯を』と言われていたのをあなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬を向けなさい。」ハンムラビ法典などでも知られる復讐法とも言われるこの教えです。同等の損害を与える、というものです。しかしイエス様がいわれるのは、今日ではあまりにもお人好し、バカが付くほどの「許す」姿勢です。さらに43節「『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい。」許す、どころか、その敵を愛し、そのために祈るというのです。生まれながらの私たちでは到底できるはずもないこと、考えもしないことでしょう。そんなことをして何になると罵られるでしょう。けれどもイエス様が教える、御国の生き方はこのようなものなのです。続く6章ではどのように祈ればよいかを教えられ、本日の箇所7章では「さばいてはならない」と対人関係について教えられています。そしてこの山上の説教のまとめのような12節に続くのでした。「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。」これは黄金律と呼ばれる教えで、先程もお話したように、この山上の説教の一つの結論のようになっています。「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。」人にしてほしくないことはしてはいけない、ということは私たちもよく聞きます。消極的な人間関係の教えです。迷惑になることをしない、人が嫌がることをしない。子どもたちでもそのように教わります。しかしイエス様はそれを積極的に、愛の行いとしてするようにと言っておられるのです。そしてそれこそが「律法と預言者」つまり、旧約聖書全体が教えていることであると伝えるのでした。イエス様がこのような表現をされている箇所は他にもあります。有名なのは、同じくマタイの福音書2235節以下。神を愛し、人を愛すること。その愛は、すでに見たように愛してくれる人を愛するだけでなく、自分の敵をさえ愛する愛の教えです。

 私たちはこのような教えを見るときに、私には難しい、これは人には出来ないと結論に急いでしまいます。確かに、そのとおりかもしれません。生まれながらの人では、この御国の生き方を教える山上の説教はずいぶんかけ離れた教えであるように感じるのです。洗礼を受けたからと言って、すぐにその様に生きられるようになるのではないということは、すでに洗礼を受けられた人ならばひしひしと思い知らされるのではないでしょうか。けれども、この説教の中には、そんな私たちがどうすればいいのかも語られています。黄金律の直前、おそらくここに至るまでに見てきた様々な、私たちにはとうていできっこないと思えるようなことについても、「求めなさい。そうすれば与えられます」と言われるのです。7節から。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも求める者は受け、探すものは見出し、たたく者には開かれます」それはなぜかといえば、私たちの側になにかの優れた力があるからではなくて、11節「あなたがたは悪いものであっても、自分の子どもたちには良い物を与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。ですから、人からしてもらいたいことはなんでも、あなたがたも同じように人にしなさい。」必要なものは神様が与えてくださるのだから、私たちは神から受けた愛をもって、人を愛することができる、この地上にあって、御国の生き方ができるのです。

 このような教えを聞き、人々は当然驚きました。72829節。イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。しかしイエス様が求めておられることは、この説教に驚くことや、こんなすごい教えを聞いたんだと人々にただ伝達することではなく、まずあなた自身が「狭い門から入りなさい」ということ、御国の幸いと御国の生き方を聞いた者の応答であり決断なのです。

 

2.       広さとはなにか、狭さとはなにか  

 長くなりましたが、このような山上の説教であったことを覚えて、本日の箇所をもう一度お読みします。イエス様からの、決断を求める呼びかけの言葉として聞きましょう。狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出すものはわずかです。一読して、広い門、広い道は滅びに至り、狭い門、細い道はいのちに至るということが対照的に描かれていることに気づきます。別の箇所でイエス様は、救いに至る人は少ないと語られる場面でこの言葉を話しておられますから、この狭き門とは救いに至る門であると言って良いでしょう。イエス様ははっきりと、このどちらかしかないと言われ、そのうちの狭い方を選びなさいと勧めておられるのです。

 狭き門と聞きますと、私たちはなにか競争率が高いとか、多くの障害があるということをイメージします。だから、自分はその門に入ることができないと考えてしまうのです。しかしこれまでの説教で語られてきたことは、私たちの内にはそんな力なんてない者であっても、父なる神は、ご自分に求める者たちには良いものを必ず与えられるという確信が貫かれていました。ですからここでも、その道は険しいから自分の力でその門を通れるものはわずかだ、とは言っていないのです。狭い門を見出すものが僅かだと言っているのです。多くの人は目にも留めない、そんな生き方なんて求めない。しかしそこにこそ、いのちに至る救いの門、救いの道はあるのです。「探しなさい。そうすれば見出します」と言われていたすぐ前の言葉を思い出します。私たちは、私たちに良くしてくださらないはずがない父なる神に信頼し、すがりつづけ、叩き続けることが求められているのです。ここに、イエス様がこれまでお話になってきたことが示す御国の生き方であるのです。だれも殴ってくる敵に対して、おとなしく逆の頬を出すことなんかしません。それどころか、叩かれる前に叩くということが当たり前のようになっています。敵を愛し、敵のために祈るどころか、自分の隣人さえ愛することが出来ず、そのために祈ることも出来ず、自分のことにだけ思いが集中している。そんなことはないでしょうか。しかしそれは広い門であり、広い道。生まれながらに背きと罪の中に死んでいる者たちが、方向転換することもなくそのままに生きていく道であります。幸いであると言われる、祝福された御国の生き方はそこにはないのです。

 

 一方で狭い門、細い道とはどのようなものでしょうか。14節、「その道もなんと細いことでしょう」とありますが、この細いというのは、なにか幅が狭くて通りづらいなぁ、程度のものではありません。もともとの言語でこの言葉を見ますと、そこには圧迫されるというような意味が込められていることに気づくのです。この言葉が使われている第二コリント4:8には「私たちは四方八方から苦しめられますが」ということばがあります。四方八方から苦しめられる。まさにこの道を生きる私たちには多くの困難が襲いかかり、もうどうしようもない、為す術がない、八方塞がりだと立ち尽くしてしまうようなことさえあるのです。また別の箇所、やはり第二コリントの7:5には、マケドニアに着いた時、私たちの身にはまったく安らぎがなく、あらゆることで苦しんでいました。外には戦いが、内には恐れがありました。とあります。あらゆることで苦しんでいた、これが細いと訳されている言葉ですが、その苦しみは外側の戦いだけでなく、内側の恐れもあり、外から内から締め付けられる、圧迫されるそのような苦しみであり、そのような狭さ・細さなのです。信仰の歩みは狭い門を見出し、その門をくぐって終わりではありません。そこから続く道もやはり狭く、細く、多く押しつぶされそうになることがある。

 ではなぜ、そんなどう見ても楽ではない道を通るようにとイエス様は言われるのでしょうか。

 それは、それこそが「いのちに至る」道であり門だからであります。その道中どのような苦しみや痛みがあっても、四方八方が塞がれ、外から内から私たちを逼迫する力があっても、なお余りある「いのち」の祝福があるからこそ、この門を通り、この道をゆけと言われるのです。罪の世にあって、御国の生き方をしているならば、圧迫があって当然です。むしろなにもないときに、広い門を通り、広い道を行く人混みに流されていないか、改めて見直す必要があるのかもしれません。

 

3.       まとめ  

 では狭き門から入り、細き道をゆく。とはどうすることなのか。イエス様の言葉を思い出します。中心聖句にしましたヨハネの福音書14:6。別の箇所には、わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。ともありますから、見出すものは少ない狭き門に入り、憧れる生き方とはかけ離れた細き道をゆくというのは、イエス様を信じ、イエス様と生きていくことだと言えるのです。その先にいのちが約束されています。先程、道の細さをお話するときにその苦しみを表す箇所を述べました。でもその苦しみは、苦しみのままでは終わらないのです。「私たちは四方八方から苦しめられます」が、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。門であり道でありいのちであると言われたイエス様を信じ、この御方に従ってまいりましょう。