教会と国家

❖聖書箇所 ローマ人への手紙13章1節~7節      ❖説教者 川口昌英 牧師

◆(序)この箇所について

①著者パウロは、義と認められた者の生き方について、原則に続いて、具体的なことを取り上げ、これを読む者に方向を示しています。本日の箇所は、そんな問題の一つ、義とされた者とこの世の権力との関係についてです。

 それについて語るに際して、パウロは、ことばでは言っていませんが、前提として、二つの極端な考えを否定しています。 一つは、当時の教会の一部の者たちに見られた、義とされた者は神の国に属しているのであり、地上的な権力に従う必要がない、ことに、異邦人、異教的な権力に従う必要がないという考えです。そういう実際の社会秩序を無視する考えを退けています。救われた者は、神の国の住民とされたが、同時に、世に遣わされている者であり、日々、生きるうえにおいて、上に立てられた権威に従うべきと言います。

 もう一つは、歴史的に誤解され、また今も誤解する人が少なくないのですが、全ての現実権力は、神によって立てられているゆえに正しいという王権神授の考えをも退けています。なぜなら、もし、全ての現実権力が神によって立てられた絶対的に正しい存在であるのであれば、4節や6節でそれらの目的を改めて、限定的に説明する必要がないのです。又、1節で言う権威という言葉は、原語では実務を担う機関、役職という意味であり、そもそも正当な権力を表すものではないからです。

 また、このところは、先週話したように、霊的真理は神に属し、この世については現実国家の権力者に与えられているという二元論を言っているところでもありません。そのように言われたこともありましたが、聖書全体から、旧約時代、王たちの不信を責めた預言者のことばや、人よりも主に従うべきと宣言している使徒4章19節~20節などからも明らかです。

 

②では何を言っているのか、社会において生きる時にクリスチャンとして突き当たる、公機関との関係という、極めて実際的な問題について語っているのです。ただ、それについて論じる場合、どうしても源流にある権力の性質、すなわち国家の本質論と関係がありますから、それらについて論じているのです。そして、そのことが義とされた者とこの世の権力の問題を考えるにあたって、非常に重要な意味を持っていますから、このローマ13章が歴史的にも重要に扱われて来たのです。 日本の福音派は議論を避けてきましたが、この箇所は、現実国家の正当性を保証しているみことばではありませんし、現実国家を絶対視する箇所ではありません。むしろ、目的論の見地から国家を相対化し、立てられている大きな目的にかなっているかどうか、冷静に批評的に見る必要があると言っているところです。大事な問題ですから丁寧に見て行きましょう。

◆(本論)パウロが伝えているもの  

①まず、パウロが伝えようとしているのは、現実の権力を絶対視しないこと、相対化して見ることです。これは、日本の福音派クリスチャンにとって非常に重要です。繰り返すように、この点において大きなあやまちをおかして来たからです。

 1節~2節のように言われていますが、これはさっきも話したように、現実の権力を不可侵のものであるとし、正当化しているものではありません。全ての現実権力は、神によって立てられた正当性を持っているということを言っているのではありません。そうではなく、義とされたキリスト者、神の国に属するようになった者は、秩序を無視するような考えではなく、現実社会においては秩序を重んじるゆえに、現実社会を治めるこの世の権力、そしてその機関にある者に従うと言っているのです。何故なら、現実権力は、3節~4節に言うごとく、「…彼があなたに益を与えるための神のしもべだからです。」このように、パウロは現実権力を冷静に見ています。現実の権力は、明白な目的のために神によって立てられていると言うのです。権力、権威と言い、日本語では権力は、実際の力を持つ者、権威は歴史的に正しいとされているものという違いはありますが、ここでは殆ど同じ意味です。パウロは、皇帝礼拝を求めるなどのこの世の権力に対して、それらに対しても、国家の目的論、本質論から考えるべきと言うのです。そして、平和を求めるキリスト者として、その現実権力、機関にある者が言っていることが正しさを守り、悪を裁いているなら、すなわち権力の目的にかなっているなら自発的に従うべきと言います。その理由として二つのことをあげています。

②一つは、これまでにも出て来ましたが、権力の本質論からです。確かに、現実権力、機関は人の上に立っていますが、それは神によって立てられた、神の下に属するもの、特に人に益を与えるための、人が神によって創造された者としての尊厳を持って生きることができるように、神によって立てられた「神のしもべ」であるからと言います。

 それらは神のしもべであり、それに添っているなら、権力、機関に従うことは、神に従うことであると言うのです。もう一つの理由は、5節「良心のためにも従うべきです。」と言われていることです。ここで言う良心の原語の意味は、共に知るという意味です。神と共に、平和を求め、平和を造る者として、そのものが目的や本質から逸れていない限り、現実権力に従うべき、従って6節~7節に言うような税金を納めることについても従う必要があるというのです。

③以上は、日本の歴史の中に浸透している、現実に権力を持っているものを絶対的に正しいとし、異論を述べることや抵抗してはならない、所謂「お上意識」と違うことが分かります。

 家庭、職場、友人などあらゆる人間関係においても、力を持つ立場にある人が、自分の願いを通そうとし、反論を許さないほど締め付ける、ハラスメントを行うなら、表面上は平和ですが、そこに属している者の人生を傷つけ、さまざまな可能性を奪い、全体を疲弊させ、死に至らしめるのです。まして、大きな存在である現実の権力、国家が、立てられている本来の目的を見失い、暴走するなら、測り知れない影響を及ぼすのです。(そういったことは歴史的に明らかです。)それゆえ、使徒パウロは、神のみことばに立つ信仰者の集まりである教会として、現実の権力に対して冷静に、本質論に立って、それが悪を裁き、社会の平和を実現しようとしているならそれに従いなさいと勧め、そうでないならば、国家が神のように振る舞うなら、神にあって愛と謙遜をもって歩みなさいと暗示しているのです。

◆(終わりに)聖書の真理のために戦った人々

 ナチスが権力を握った翌年1934年5月にドイツの福音主義教会から出されたバルメン宣言を取り上げていますが、その第五条項は、国家との関係について言っています。「神をおそれ、王を尊びなさい。」という第一ペテロ2章17節のみことばに続き、国家が立てられた目的、国家に対する教会の役割、使命について述べ、「国家がその特別の付託を超えて、人間生活の唯一にして全体的な秩序となり、従って教会の使命をも果たすべきであるとか、そのようなことが可能であるとかいうような誤った教えを、われわれは退ける。教会がその特別の付託をこえて、国家的性格、国家的課題、国家的価値を獲得し、そのことによってみずから国家の一機関となるべきであるとか、そのようなことが可能であるとかいうような誤った教えを、われわれは退ける。」と強く言っています。国家が教会的になること、教会が国家的になることを強く戒めているのです。

   現実の権力を絶対視せず、神が目的をもってたてられたものとして捉えています。立てられた権力はすべて神によって立てられた正しさを持っていると人間的に捉える危険性を警戒しています。

 

 その宣言の中心にあるのは、権力を支配する罪の力、誘惑に対して、神にあって注意すべきということです。救われ、神の国に生きる者となっている者は、現実に流されず、その本質に見抜いて、神の民として霊の目を開きながら歩むべきと言うのです。クリスチャンは、ただ内面のことばかりに注意し、社会的、ことに政治、権力のあり方に関心を持つべきではないという考えに流されてはなりません。政治的運動をせよというのではなく、社会の動き、国家のあり方についても信仰者として、権力が正しく歩むように常に関心を持っているべきだと言うのです。