鷲の翼に乗せて

■聖書:出エジプト記1918節       ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。(ペテロの手紙第一210節)

 

1.       はじめに 

 先程お読みいただいた本日の箇所では、前回のレフィディムを旅立って、シナイの荒野、シナイ山のふもとが舞台となっています。別の箇所では「ホレブ」と呼ばれるこの山ですが、かつて彼はエジプトを追われ、この付近に逃げていました。命を狙われていたのでもうエジプトには帰れない。この地で家庭も持ち、このまま骨をうずめると思っていた矢先、エジプト後で奴隷になっているイスラエルの民を導き出すようにという使命が与えられたのがこの地だったのです。このシナイ山、シナイの荒野という地を、モーセは格別な思いを持って踏みしめていたことと思います。単に懐かしさを覚えていたのではありません。彼が名前を呼ばれ、使命を受けた3章において、このように言われていたのです(12節)そのときには想像もできなかったであろうエジプトからの脱出が、いよいよ現実のものとなりました。その旅のどこにあっても「神がともにおられる」ということを実感してきたはずです。そしてその約束どおりにエジプトから導き出し、召命を受けたこの山に再び帰ってきた。その山で、再び神の声を聞くのでした。

2.       鷲の翼に乗せて 

 3節をお読みします。ある神学者によりますと、ここからイスラエルの民の歴史は新たな段階に突入する、と言われています。エジプトから脱出して終わりではない、救われて終わりではないとこれまでにも度々お話してきましたが、救われた後、神の民としてふさわしく整えることを神様はされてきたのです。右も左も分からない民に対して、神様は道標を与えておられます。昼には雲の柱、夜には火の柱があった。神がともにおられることの印であると同時に、どこに行けばいいのかを教えてきたのでした。腹が減った、のどが渇いたという民たちには、肉を与えマナを降らせ、岩から水を出したのであります。無防備で弱い民たちがアマレク人と戦う際には、モーセの祈りに応えて勝利を与え、真に力ある御方であることを教えられました。様々なことを通して神様はこの民を導き、満たし、教え、整えてこられたのであります。神を恐れ、神に頼り、神に従う群れ。そんな神の民となるように、願っておられたのですが、それがここに来て新たな段階を迎えるというのです。その中で大切になるのが「契約を結ばれる」ということでした。

 一節ずつ味わってまいりましょう。まずは4節。神様はまず、イスラエルの民たちに何が起こってきたのかを話されています。いわばこれまでの歩みを、神様の眼差しの中で振り返っておられるのでした。彼らは救いを聞かされたのではなく、目撃し、体験したのであります。いわばこの救いの原体験が、神の民にふさわしく生きるためには必要なのです。それは「鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れてきた」と言われています。自分の力で、知恵で、勇気で逃げてきたのではない、救われたのではないことは、イスラエルの民たち自身がよくわかっていたはずです。それはあたかも、大きな背中に乗せられて地上でのゴタゴタに一切とらわれずに急上昇し、運ばれるようなものだったのでしょう。一方的に神様が選んでくださり、背中に乗せてくださる。約束の地を目前にした申命記の中で、このことが再び語られています。3210-11節、主は荒野の地で、荒涼とした荒れ地で彼を見つけ、これを抱き、世話をし、ご自分の瞳のように守られた。鷲が巣のひなを呼び覚まし、そのひなの上を舞い、翼を広げてこれを取り、羽を乗せていくように。聖書の中にはこのような表現が多く出てきます。これだけでも十分かもしれませんが、イザヤ書463-4639-10節などを読んでいただければ、この運んでくださるお方はただ力強いだけでなく、ここには愛と慈しみが溢れていることに気づきます。親が背中におぶった子どもを慈しむように、運んでくれる存在のぬくもり、暖かさが伝わってくるような、それゆえに安心感で満たされる表現で描かれているのです。いずれにしても、自分の足でここまで来たわけではないのです。新約聖書にも「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、任命した」(ヨハネ15:16)とありますが、この「鷲の翼に乗せて」という表現にもその意味は込められているのです。さらに先程お読みしました申命記の言葉には、「これを抱き、世話をし、ご自分の瞳のように守られた」とあります。ご自分の瞳のように。傷つきやすい弱く繊細なものです。繰り返しになりますが、自分の足で歩いてきたものに対して、ご褒美として宝とされるわけではありません。それどころか、荒れ地にいるにもかかわらず、自分で生きていけると信じて寄る辺なくさまよっているような愚かな者を、呼び覚まし、翼に乗せてご自身のもとへと連れ運んでくださるのです。幼い子供を守りはぐくむように、この民たちを助けてくださるお方のもとへ連れてくださる。しかもそれは、連れ戻すということでした。あの、一匹の羊を探し回り、連れかえる姿を思い出します。そう考えると、これは遠い昔のイスラエルの民だけにそうされたのではなく、いつの時代にも、今日の私達に対しても注がれている神様の深いあわれみにほかならないことに気づくのです。自分で立ち返ったわけでも、自分で荒野を生き抜いたわけでもなく、ただ神の御翼に乗せていただき、神様のもとへと帰ることができる。いや現にそのようにして運ばれてきたのです。私たちが神様を見失うときでも、神様は私たちを見失わず、「ご自分の瞳のように」守り、背に乗せて運んでくださっていたのです。

 一体なぜ、この民にそこまでの愛を注がれるのでしょうか。そこには冒頭でお話した「契約」が貫かれています。ずっと昔の先祖、アブラハムに誓われた約束です。渋るモーセを立たせエジプトへと向かわせる際、神様は言われました(出エジプト6:5-8 今わたしは、エジプトが奴隷として仕えさせているイスラエルの子らの嘆きを聞き、わたしの契約を思い起こした。…わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地にあなたがたを連れて行き、そこをあなたがたの所有地として与える。わたしは主である」)。どれだけ人が忘れ、軽んじたとしても、神の側は覚え、守り続けてくださる契約、約束があるのです。それは冷たい書類のようなものではなく、愛による契約ですし、言い換えれば私たちが受ける愛はすべて、この変わらない契約に基づく愛であると言えるのです。

 

3.       わたしの宝 

 こうして救われ、運ばれてきたあなたがたに伝えることがあると、神様は言われます。5節。あらゆる民族の中にあってわたしの宝となる。宝というのは言うまでもなく高価なもの、価値あるものです。あなたはわたしにとってそうなるというのです。イザヤ書43章の有名な御言葉を思い出します。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」非常に価値がある、あなたは大切な存在、二つとない、かけがえの無い存在なのだというのです。今の時代、人の価値が低くされ、様々な能力や経歴、財産などによって値踏みされることがあります。個人が全体の益のために迫害を受けるということもあり、あるいは今後それはさらに激化していくとも考えられます。自分で自分の価値、人生の意味を見いだせない人も多くおられます。いちばん身近な家族、両親にさえ認めてもらえないどころが、著しく心身ともに傷つけられる悲惨が世に溢れています。そんな中にあって、「わたしの宝」と呼んでくださるお方がいることは、私たちにとっての大きな慰めであり希望ではないでしょうか。

 しかしここで忘れてはいけないのは、「わたしの宝となる」ためには条件があるということです。ここを意図的に読み飛ばし、耳障りのいい言葉にすることは許されません。「もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら」、「あなたがたは、…わたしの宝となる」のです。そしてこれこそが、この後20章から与えられる十戒、律法の意味なのです。「わたしの宝」、そして次の「祭司の王国、聖なる国民くにたみ」となるために、従うべき律法があたえられるのでした。これこそ、イスラエルの民にとっての新しい局面、新しい契約が与えられるということです。条件があると言われて、おやと思われた方もおられるかもしれません。神様の愛ってそんなものなのだろうか。そんなケチくさい神様なんだろうか、無条件の愛と言うではないかと思うものです。

 たしかに神様は「すべての人が救われて、真理を知るようになることを願い」(1テモテ2:4)、そのために愛するひとり子をさえ世に送り、身代わりとして十字架につけられたのです。確かに愛は注がれている。けれども、その溢れ注がれる愛に対して、受け止めようと手をのばすかどうか、その招きに答えるかどうかまで曖昧にされるようなお方ではないのです。というよりも、それを曖昧にするならば、その後私たちが受ける愛さえも曖昧なものになってしまうのです。分かりづらい表現で申し訳ありませんが、愛の神様でありますが、その愛は契約に基づく、だからこそ堅く確かな愛なのです。なんでもしていいよー、ちょっとくらい罪があってもいいよーと言われるような愛なのではない。子どもを愛するならば、その子どもが一番に望むことではなくても、道を示さなければならないし、ときに力づくでも道を正さなければならないこともあります。子の幸せを願うからこそです。自分の瞳のように愛し守っているからこそ、生きるべき道、従うべき道を示さなければならない。神様から離れていた罪は解決されなければならない。神に従うための律法があるのだから、罪をそのままにはしないで生きる方向を変えよ、悔改めよ、立ち返れと言われるお方なのです。すでに見たように、これは救いを体験した人に語られていることばです。荒野でさまよい歩いていたにもかかわらず、鷲の翼に乗せて神のみもとに運ばれ、抱かれ、世話され、瞳のように守られてきた者に対しての「聞き従い、契約を守れ」というものなのです。言い換えるならば、わたしのもとに連れて来たのだから、わたしのもとに留まり続けよといわれるのです。そのために、神に聞き従い、神にとどまり続けるために律法が与えられたのでした。

 説教の終わりでも触れますが、今はイエス様が来られたのだから律法を学ぶ必要なんてない、わけではないのです。律法が不完全だったからそれを補うためにイエス様が来られたのではなく、律法に従いえない、それゆえに、神様が本当に望んでおられる「わたしの宝」になりえない罪人を、なんとかして「わたしの宝」とするために、イエス様は飼い葉桶に生まれてくださり、苦しみを受け、十字架につけられたのです。これは決して別々のことではなく、一貫してある神様の愛と契約によるということを改めて覚えたいのです。

 

4.       『祭司の王国、聖なる国民』 

 さらに、「あなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら」6節。イスラエルの民は歴史の中でこの言葉を都合良く解釈し、あたかも自分たちは特別であり、他の民族より優れていると受けとめました。でも、そうではない。先程の「わたしの宝」というのは、神様のもとに留まり続ける、神さまと信仰者との関係を表す言葉でしたが、ここには、そんな彼らが世界にあってどのような使命を持っているかを教える言葉が使われているのです。特に今日は「祭司の王国」ということについてお話しますが、祭司とは神に仕える人です。その大切な役割には、神と人の間に立ち、執り成すというものがあります。神の律法に従い、神にとどまり続けるものは、自分が「宝」と呼ばれて満足するのではなく、人々のために祈り、神の御思いを告げ知らせ、神のみもとへと連れてくる執り成し手となるのです。これもまたアブラハムに与えられた最初の約束から一貫していることでした。「地のすべての部族は、あなたによって祝福される」。この教えはイスラエル民族と他民族を区別し、壁を作って、イスラエルが特別だと讃えられる言葉ではなく、むしろすべての壁を打ちこわし、神様から注がれる愛を広く届ける、神様と神様のことを知らずに生きている人々とをつなげるという使命を教えているのです。

 

5.       まとめ 古い契約から新しい契約へ 変わらずにあるのは神の愛 

 これらの、新しい段階を迎えたことを示す言葉をモーセは語ります(7節)。神の宝、祭司の王国、聖なる国民となるために必要なことがある。これは、人間的に考えるならばちょっと隠しておきたくなるような言葉です。聞く方にとっては耳が痛い、それよりも無条件の愛を求めるものです。けれども、「主が命じられたこれらの言葉をすべて、彼らの前に示した。」神の言葉を勝手に減らしたり、勝手に増やしたりせずに、そのままを語る。説教の際にも改めてそれを問われていました。そして民たちは、8節。しかし、「私たちは主の言われたことをすべて行います」とのことばがいかに難しいことか。自分の足でここまで来たのではない、ただ御翼に乗せて、連れて来ていただいたということを謙遜に知るならば、これもまた、主の助けなしには従いえない道であることもよく分かるのです。実際に民たちがこの後どうなったのか、多くの人がよくご存知の通り、ことごとく主の言葉に従いきれずに、罪を犯していくのです。それも長い年月が経って、ではありません。律法が与えられた同じ山で、律法のうちで最も大切な十戒に違反してしまうのでした。しかし神様は「わたしの声に聞き従い、わたしの契約を守る」ことの出来ない罪人のために、イエス様を世にお与えになったのです。律法の要求を満たし、かつ私たちの罪の身代わりとなって死んでくださるお方を与えてくださったのです。それがイエス・キリストです。そのうえで、本日の中心聖句もしました御言葉を与えてくださった。1ペテロ29節からお読みします。本日の箇所で言われていることが、ほぼそのまま、新たに言われていることに気づくでしょう。かつてイスラエルの民に与えられたこの教えは、今はイエス様の十字架によって世界中への契約となったのです。そこまでして、私たちを「わたしの宝」と呼ぼうとしてくださる、神様の深いあわれみがあるのです。自分の力ではなく、鷲の翼に乗せてこられた私たちです。その背後にはいつも神様の契約がありました。私たちは弱く、わたしの声に聞き従い、わたしの契約を守ることなんて完全には出来ないかもしれない。でも、そのために来てくださったイエス様を信じ、この御方とともに神様に喜ばれる歩みを、また今日から始めさせていただきましょう。