壁を取り除いたキリスト

❖聖書箇所  ヨハネの福音書4章25節~26節    ❖説教者 川口 昌英 牧師

◆(序)福音書に出てくる救われた者たち

 ①主が公生涯を送る中で救いに導いた人々のことが福音書に数多く出ています。宣教を開始されたガリラヤにおいて救われ、使徒とされた者たちの他、私たちが良く知っているのは、町にひとりの罪人といわれていた女性、取税人ザアカイ、全身が重い皮膚の病気であるツァラートにかかっていた人、38年間病気であった人、中風の人、12年間長血で苦しんでいた女性、姦淫の現場で捕らえられ、告発された女性、エルサレムの指導者の一人であったニコデモ、マグダラのマリヤ、またマルタやマリヤの姉妹、その他、当時の社会において特別に罪深いと思われていたアム・ハーレッツ、地の民と言われていた人々です。

 聖書記者たちは、律法を重視する古くからのイスラエルの指導者たちや民衆が主を否定したことと共にこれらの人々が救われたことについて詳しく記しています。それには明らかな目的と意味があります。時が満ちて父なる神が人の罪を贖うために送られた救い主は、律法を大事とされましたが、人は律法によっては罪のゆえに義と認められることができず、ただ恵みと憐れみによって救われることを伝えているのです。その恵みと憐れみを信仰によって受け入れること、自分の罪に気づき、砕かれてただ神の愛を受け入れ、悔い改める者が救われることを明確にしているのです。そして、神が与えてくださる救いは、選びの民であるイスラエル人だけでなく、律法の知識があり、行う人だけでなく、どの国籍、民族、立場であっても主をすなおに受け入れる者が救われることを告げているのです。これは、現代の私たちにとっても非常に大切なメッセージです。

②本日の箇所もそんな救い主イエスによる新しい救いを伝えている大事なところです。特にこの箇所は、何重の意味において、主の救いは広くて深いことを伝えています。

 

 まず、このところを簡潔に説明します。主は御国の福音を伝える旅路において、ユダヤ人たちが普通、通らないサマリヤの町に来て、一人の女性に話しかけています。この行為も当時の人々にとっては考えられないことでした。なぜなら、ユダヤ人(主は人としてはユダヤ人であった)がサマリヤ人に話しかけることはなかったからであり、また日中、見ず知らずの男性が見ず知らずの女性に話しかけることもなかったからです。このような異例づくしの対話の中で、主は、もともと、このサマリヤに来た本来の目的、この女性に決して渇くことがない永遠のいのちへの水を与えようとされたのです。その主に対するこの女性の返答は、非常に興味深いものです。警戒から始まり、やがてピントがずれた受けとめ方をし、そして自分の心の中を明らかにし、やがて自分の過去をも正直に言うようになっています。そんな女性に主はどのように救いを示しているでしょうか。

◆(本論) メシアの姿

①まず、この箇所において注目すべきは、主が救い、決して渇くことがない、心の奥底に永遠のいのちへの水が湧き上がるようになると告げた相手は、宮殿や豪華な屋敷に住む恵まれた人や、又律法を学んでいる学者や神殿において奉仕している祭司でもなく、人間的には何も力を持たない、希望を持たない、むしろ神の義を諦めていた人であったことです。これは、時が満ちてこの世に来られた救い主を知るうえにおいてとても大切です。

 そんなこの婦人に、主は何を伝えたのでしょうか。救い主にとって、ユダヤ人もサマリヤ人もないということです。実は、サマリヤ人は、北王国イスラエルの民の子孫であり、元はユダヤ人と同一民族でしたが、北王国を滅亡させたアッシリヤの方針により、その地に住む者たちは、異邦人アッシリヤ人との混血民族でした。そんなサマリヤ人ですから、モーセの律法を重視していたユダヤ人はサマリヤ人をひどく軽蔑し、サマリヤ人の側でもユダヤ人に強く反発していたのです。主が「わたしに水を飲ませてください。」と言った時に、サマリヤの婦人から9節にあるようなことが言われたのは、このような長い、深い対立があったからでした。

 しかし、すべての人を罪と死の支配より救うために世に来られた主、人となって私たちの間に住まわれた、すべてを造られ、すべてを治める方、父のみもとから来られたひとり子としての栄光を持つ方、満ち満ちた豊かさの中から恵みのうえに恵みを与えた方である主にとって、民族、国籍、歴史的背景は少しも関係がありません。主は、人の社会に高くそびえている壁、人が決して乗り越えることができないと思いこんでいる壁を取り除かれたのです。エペソ2章14節~15節「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」とある通りです。

②続いて、主は、サマリヤ人の中でもその生き方、過去のゆえに特別な人と思われていた婦人も又、神の愛する存在であるということを明らかにしました。この婦人は、サマリヤ人社会の中でも、それまでの生き方から人目を避けて一人だけで、わざわざ時間をずらして水を汲みに来た人でした。その理由は、4章18節から想像できます。これまで、夫が次々と5人変わった、そして今も尚、必要な手続きすら守らないで男性と同棲している女性です。どんな人なのか、聖書は詳細に記しませんが、はっきりしていることがあります。心が渇いている、しかし、一方、非常に傷つきやすい女性であることです。それゆえ、自分の過去や現在について、又、将来、神の前に立つ時について、強い不安を持っていた人であり、又人々から遠ざかって生きていた孤独な人でもあります。

 そんな人に、いやその人に会うために、主イエスは、普通の人が立ち寄らないサマリヤに来られたのです。(4節の「サマリヤを通って行かなければならなかった。」という意味は、地理的な意味ではなく、イエス様にとって、サマリヤに行かなければならなかったという意味)  そしてその婦人に、持っていた渇きがいやされ、魂のうちに泉が生まれ、永遠のいのちがわきでるようになること、そして、あなたは霊とまことによる真の礼拝者となる、罪の赦しが与えられることを伝えたのです。

 ユダヤ人からは言うまでもなく、同胞であるサマリヤ人からも、また自分自身でもどうしようもない罪人として諦めていた者に、主は、渇きが癒されること、不安に代わって平安が与えられること、真の礼拝者としての生きる喜びを示したのです。あなたは神にとって尊い、かけがえのない存在であることを伝えたのです。

 このイエス様の姿は、私たちにとっても大きな喜びです。神ご自身であり、神の子である救い主は、遠くにいる方ではない、そして、人の全てを承知のうえで愛してくださっていることを伝えているからです。

 

◆(終わりに)最もすばらしい出会い

 本物の出会いは人生を変えます。心の一番深いところに、その存在が入り、深い喜び、力が与えられるからです。この婦人はメシヤ、主と本当に出会ったのです。絶望と渇いていた心を主イエスの愛が包み、罪の赦しの喜びと新しく生きて行く力をもたらしたのです。

 主の方が一人ひとりに出会うために、この地上に来られたのです。罪人、神に背いていた私たち一人ひとりが滅びからいのちに、暗闇から光に、諦めから希望に、恐れから喜びに変えられ、神にあって生きる者となるために、神のひとり子がこの地上にお生まれ下さったのです。

 

 私も主を知る以前、救いなどないと思っていました。しかし、砕かれて素直になり、自分の姿をそのまま見た時、主イエスが神でありながら、人としてお生まれになったのは、罪の中にいる者を滅び、暗闇、諦め、不安、恐れから救い、新しく神にあって生きるためと受け入れることが出来ました。主との出会いは私の「心の奥底」を変えたのです。同じように、主は今も一人でも多くの人が主と出会い、新しい人生を送ることを望んでおられます。この方を受け入れて下さい。