想像を超えた導き

❖聖書個所 ローマ人への手紙5章1節~5節                ❖説教題 「想像を超えた導き」

❖説教の構成 

◆(序)大いなる変化

 実際に苦難に会う時、すべての人が忍耐する者になる訳ではありません。又忍耐する時、誰もが練られた品性、従順な、主にふさわしい性質を持つようになるのではありません。更に従順な素直な態度を持ち続ける時、みんなが希望を持つようになるのではありません。ですから、始めの苦難そのものを避けたいと思っている者が多いのに、何故、神のことばはそれとは反対に、義とされた者は苦難さえも喜ぶと言うのでしょうか。

 1節~2節、先月この箇所を見ましたように、生きている立場や目標、中心が変わったことがあるのですが、本日は、使徒の一つの告白に注目したいと思います。「知っているからです。」(4節)という言葉です。義とされた者が苦難さえも喜ぶのは、「苦難が忍耐を生み出し」「忍耐が練られた品性を生み出し」「練られた品性が希望を生み出す」ことを知っている、実際に経験しているからだと言います。なお、聖書でいう知っているという言葉は、単に知識としてだけではなく、実際その通りであると経験しているという意味です。

 

 社会的に活躍している人でも、苦難に出会うと自暴自棄になったり、人を恨んだり、無気力になったりすることが珍しくない中で、義とされたクリスチャンは、その人自身は弱くても、苦難の中にあっても耐え忍び、待ち続け、そして整えられ、やがて主から希望をいただくことができるようになっている、それゆえ苦難さえも喜ぶと言うのです。どういうことでしょうか。今、信仰生活を送る私たちにとっても大切なことですから詳しく見て参りたいとと思います。

◆(本論)義とされた者が味わっていること

①義とされ、救われた者が苦難さえも喜ぶのは、罪が贖われ、救われた者にとって苦難は、ただの苦しみで終わらないことを知っているからです。聖書を読んで行くと、苦難は信仰者にとって非常に大きな意味を持っていることが分かります。苦難によって訓練を受け、成長しているのです。(申命記8章5節、詩篇119篇71節) 苦難によって自分自身を見つめ、今まで気づかなかったことに目が開かれ、生き方の中身が問われ、悔い改め、生きる方向が変わり、静まり、耐え忍ぶ思いが与えられているのです。

 個人でも団体でも苦難を知らない、経験しない者は高ぶり、自分を誇ります。しかし、自分の知恵や経験によってどうにもならない苦難に出会う時、これまで自分の力に頼っていたこと、誇りとしていたことが砕かれ、自分の中心を深く見つめさせられ、そして主により頼むようになり、耐え忍ぶ、忍耐する者になります。多くのキリスト者は、そういう経験をしています。

 聖書の言う忍耐はただ我慢することではありません。我慢は自分を抑えているだけです。その人自身の中心は何も変わらないのです。しかし、聖書に出てくる神の義を知った者は、苦難の中で忍耐する、主に取り扱われ、自分の生き方、中心が深まり、主を見上げるようになるのです。

②第二は、その忍耐を通して練られた品性になることを経験するからです。上に見ましたように、主にある者にとって忍耐は、ただ自分を抑え、我慢することではありません。忍耐の時というのは、これまでと見るものが変わる時です。これまでは、問題や、状況や廻りの人々ばかりを見ていたのですが、忍耐の時というのは、むしろ、自分の姿を素直に見て、足りなさ、弱さを認め、神を見上げる、主との深い交わりの時です。多くの人々が病気や挫折などの忍耐の時を通して、主と近くなり、練られた品性になっています。

 よく話すように、イスラエルの第二代目の王、ダビデは、生涯の中で何度か絶対絶命の状態に追い込まれるという経験をしています。そのうちの一つ、多くの国民の心を巧みに自分に向けさせた息子アブシャロムによって、謀反を起こされ、家族や僅かな手勢と共に厳しいユダの荒野を逃げるという生活を余儀なくされていますが、ダビデは、その時、ただ怒りの思いや悔しさや憎しみを抑える我慢ではなく、主にある忍耐の時を過ごしています。

 苦しみの中で、人生の中で何が最も大切であるか、主から取り扱われて、練られた品性、従順、主にふさわしい性質を持つ者になっているのです。その時に造られた詩篇が多く残っています。詩篇の中で最も有名な23篇もこの時の詩ではないかと言われています。(朗読) 厳しい忍耐の時でも、神ご自身が神を愛する者とともにいてくださることを知るうちに、品性、ものの感じ方、考え方、行動が練られたもの、キリスト者、キリストのしもべにふさわしい姿になっているのです。

③続いて、練られた品性、主にある者にふさわしい姿になる時に、真の希望を持つようになるのです。これについて考える時、私はパウロが自分の病気のことで非常に砕かれた時のことを思い起こします。有名な第二コリント12章9節、10節です。(朗読) ここにおいて、パウロは、必死に主に祈ったのです。しかし、主は、その祈りに対して、わたしの恵みはあなたにもう十分である、むしろ、主の恵みは人が弱い時に完全に、言うことがないように働くと示されたのです。それを受けて、私は自分の弱さを誇ると言い、そして、私は弱い時にこそ、私は強いと言っています。

 弱さを通して、一人子さえも惜しまずに与えてくださった神の愛をこれまで以上に深く知り、どのようなことがあっても決して奪われることがない希望、罪の赦し、主がともにおられること、死は全ての終わりではなく、主のもとに迎えられるという希望を確信するようになっているというのです。砕かれた、練られた品性になり、人間的なものではない、いうことができないような豊かな恵みが与えられていること、真の希望を持つようになっているのです。

④そして、最後に、練られた品性の者が確信するようになる希望について、バウロは、私たちに与えられている聖霊によって、神の愛が既にはっきりと豊かに注がれている、示されていますから、決して失望に終わることがないと明言します。この注がれているという言葉は、人から見た場合、神の側が愛を一方的に、既に私たちの中心を満たすように注いでくださっているという意味です。それゆえ、今、与えられている希望も、砂漠の中の蜃気楼「逃げ水」のようなものではなく、確かな、消えないものだと言うのです。また聖霊によって」と言われていることも大切です。人の側からではなく、聖霊なる神の働きによって、既にはっきりと神の愛が注がれているゆえにその希望は確かであることを明らかにしているからです。

◆(終わりに) ここに立って歩む者に

 たびたび話しますが、高名な評論家が、日本社会の考えの特徴として、この世でのあり方を重視する現世主義、過去のことよりも今を重視する現在主義、そして帰属している集団を優先する集団主義、又その中で互いに競い合う競争主義があると言っています。真理よりもこの世の現実、過去よりも今、個よりも集団、更に集団の中での競争、自分の地位上昇が人々の生きる基準、目的になっているというのです。そうした考えに対して、いろいろ捉え方があるでしょうが、私は共感できるように思います。こんな日本社会ですから、救われ、神のことばを土台として生きようとしているキリスト者は当然、患難、衝突、葛藤を経験するのです。

 そういう日本社会、文化との葛藤による苦難だけではありません。生きている限り、人として出会う苦難もあります。自分や家族、親しい者の病気、死、挫折などです。

 

 こう考えて来ると、この国でキリスト者として生きることには、苦難が多いように思います。しかし、聖書は、主にある者には確かな希望があると言っています。神に義とされ、根本の立場が変わり、又本日見て来ましたように、さまざまな苦難があっても、最後には主にある希望を信ずることができるからです。驚くべきことです。しかし、事実なのです。苦難に襲われても自暴自棄にならないで、主の御前に静まる時を持ちましょう。そうする時、主は私たちが思いもよらないような、主がともにいてくださるゆえに想像を超えた真の勝利に導いてくださるのです。