ともに重荷を負う民

■聖書:出エジプト記18章         ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。…あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。 

コリント人への手紙第一121227

 

1. はじめに

 久しぶりの出エジプト記からの説教となります。この箇所の準備をしながら、「今日、この地で生きる私たちに対して、神様は何をお語りになっているのか」ということを大切にしてきました。そんな中で、教会総会を前にして、「教会」とはどういうところなのかを考えたいと願っています。

 先月の役員会では、教会のビジョンや課題について話されました。その中である方は、「教会には様々な人々がいて、バラエティ豊かで多様性がある。でもその土台には、みことばからブレない説教(者)の存在が大切である」と言ってくださいました。本当にそのとおりだと思います。まさしく本日の箇所では、教会の土台には礼拝があり、神の御言葉があるのだということ、その上で神の民は整えられていくのだということを教えられたいと願っています。

2.       イテロの助言 

 本日は18章の中でも後半部分を中心に見てまいりたいと思います。エジプトの地で奴隷になっていたイスラエルの民。次々に驚くべき神様の力を目の当たりにし、ついには海を割って乾いたところを歩きエジプトの地を出てきたのでした。そこには少しの疑いようもないくらい、決定的に神様が働かれたのでした。その事が書かれているのが有名な14章でしたが、しかし出エジプト記はそれで終わらないということをこれまでにも度々お話してきました。あえて強調して言うならば、全部で40章ある出エジプト記は14章での解放以降こそが大切なのであります。救い出された神の民が、完成に向けて整えられていく道のりであると言えるでしょうか。救われて終わりではない。様々な苦しみや縛り付ける鎖から解き放たれて終わりではないのです。神様に生み出され、神様によって贖われ取り戻された民が、神様にあって行きていく、神様を中心に生きていく。それが出エジプト記から始まり、レビ記、民数記、申命記と呼ばれるモーセ五書で与えられる律法によって明らかにされていくのでした。すでに見てきました14章以降でも、右も左も分からない民に対して、神様は道標を与えておられます。昼には雲の柱、夜には火の柱があった。腹が減ったのどが渇いたという民たちには、肉を与えマナを降らせ、岩から水を出したのであります。無防備で弱い民たちがアマレク人と戦う際には、モーセの祈りに支えられて勝利することができた。様々なことを通して神様はこの民を導き、満たし、教え、整えてこられたのであります。神を恐れ、神に頼り、神に従う群れ。そんな神の民となるように、願っておられるのでした。そういうことを踏まえながら本日与えられた箇所に目を留めますと、ここでは神の民の「組織」が整えられていくということが言えるのではないかと思うのです。いわば土台が固められたあとに建てられる上モノ、建物です。神の民としての土台は、すでにこれまでにも、救いの出来事とその後の様々な出来事を通して整えられていましたが、その上で民たちをより神の民にふさわしく整えるための秩序が作られていくのでした。

 本日の箇所、事の始まりはこうです。13-16節。「神のみこころを求めてモーセのところに来る」民が大勢いたのでした。何か事があると、とあるだけですから、具体的にどんな問題があったのかはわかりません。けれども、宗教上の問題、神学的な論争なんてものではおそらくなかったでしょう。そうではなくて、日常にあった様々な問題だったのではないでしょうか。それら一つ一つに対して、神様がどう思われるか、神様が喜ばれる決断はどうであるのかを知りたいと願い、モーセのところに来ていたのです。「神のみこころを求めて」やってきた民たちを「さばく」モーセ。ここで「さばく」と言われていることに注目したいと思います。この言葉は、士師記などで多く見られます(まだ政治上の王が存在しない時代、神様はさばきつかさと呼ばれる人をお立てになり、民を導かれました)。もともとは裁判の言葉で良いか悪いかを「さばく」わけですが、それは裁判官の個人的な感情・裁量で行うのではありません。法律に照らしてなされるものです。神のみこころを求めてやってきた民たちに対して、モーセは「神の掟とおしえ」を知らせていたとありますから、裁く基準となる法律は、神のことばであるといえるのです。この民たちがいかに生活の中心を神様においていたのか、そのことを求めていたのかということがわかるのではないでしょうか。「神のみこころを求めて」という言葉は直訳では、神を求めて、ということです。WWJDWhat would JESUS do?イエス様だったらどうするだろうか、ということを考えて生きることを励ますことばがでありますが、これこそ神の民としてのあるべき姿と言えるでしょう。神に救われ、神に導かれ、神に満たされ、神に守られていた民たちのあるべき姿です。

 しかしその素晴らしい求めに対して、モーセ一人がすべてに答えていたということが、イテロが気づいた問題だったのです。17-19節。「このことは、あなたにとって荷が重すぎるからです。あなたはそれを一人ではできません。」モーセはこのしゅうとの言葉をどのように聞いたのでしょうか。がっかりしたり悔しくなったりしたでしょうか。もしかしたら、これは自分が果たさなければならない使命であると自分を奮い立たせてここまでやってきたのかもしれません。私たちもそうですが、そんなときになにくそ!と思うことがあります。しかし、この群れが神様に喜ばれる群れとなるために、それは必要なことだと謙遜に受け入れたのだと思うのです。やってきたばかりの、しかも異邦人であるしゅうとの言葉だと聞き流したりせず、自分が握っていたものを離したのでした。神様もまた、後には70人の長老を立てイスラエルの民を治めるようにと命じておられますから、単なる人間的な効率を求めてのことではなかった。一人の特別に力ある者がいればいいわけではないのです。時に私たちは自分の考えに凝り固まって、自分がやらなければと多くを勝手に背負い込んでしまうことがあります。私もそうです。教会の奉仕であってもそうなってしまう。その結果、疲れ、ヘロヘロになってしまう。私が握りしめていたものを手放すことで、神の民はますます豊かにされていくということもあるのだと、この箇所を備える中で強く思わされます。神の国は一人の力で引き寄せるものではない。約束の地へ至る旅は一人の努力で前進するのではない。互いに補い合い、支え合っている人々がともに整える必要があるのです。必要な助けはすべて神様から与えられる、ということはたしかにあります。働き人には必要な力が与えられる。それはそのとおりでしょう。けれども、聖書が教えているのは、一人のスーパーマンがすべてを取り仕切ればいいというものではありません。本日の箇所でも、他の箇所でもそうです。それぞれの役割はあるものの、それをともに負っていくことが求められているのでした。19-22節。

 

 イテロがモーセに提案したことは2つです。一つはモーセが神の前で民の代わりとなり、様々な事件を神のところにもっていくということ。もう一つは、民全体の中から、神を恐れる、力のある人達、不正の利を憎む誠実な人たちを見つけ、長として民の上に立たせるということです。

 1つ目の神の前で民の代わりとなるというのは、とりなし手となるということです。これはモーセに与えられた、モーセにしかできない役割です。彼は多く神様の前に出ていきました。それは時に辛く、逃げ出したくなるようなときでも、神の前に出なくてはいけない使命でもあった。印象的な場面があります。モーセ不在時に、民たちは金の子牛の像を作るという事件がありました(出32章)。偶像礼拝です。目に見えない神様を不満に思い、自分たちの手で神を形作ったのです。それを目撃したモーセは激怒します。しかし、モーセは言うのです。「あなたがたは大きな罪を犯した。だから今、私は主のところに上っていく。もしかすると、あなたがたの罪のために宥めをすることができるかもしれない。」そこでモーセは主のところに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯しました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら—。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」(出32:30以下)この覚悟がモーセにはありました。民の代わりとして、神の前に立つということの重みを担っていたのです。あるいは、その点に集中したと言ったほうがよいでしょうか。そして、その特別な使命があることを、民たちは知っていたからこそ、そんなに重い使命を背負っているモーセの重荷を軽くするために、モーセとともに重荷を負うことを受け入れたのでした。

 2つ目の提案は、モーセの重荷を軽くするために、群れの長を立て、小さな事件を裁かせるということでした。ここでも神の民が大事にすべきことが教えられています。選ばれた長たちの特徴でまず挙げられるのは「神を恐れる」ということです。恐れは礼拝の心に無くてはならないもの。天地万物を造られた神の前で、造られたものに過ぎない自身を知った人は、ひざまずき、ひれ伏し、神を礼拝するのです。つまりここでは、具体的な能力、知力よりも、神の前にへりくだる礼拝者であるかどうかが問われているのでした。「神のみこころを求める」民たちに対して、「神を恐れる者たち」がさばく。その恐れを持って、「神の掟とおしえ」、すなわち神の言葉を生活の中心に置き、神の民を整えていく。本日の箇所は、客観的に見れば、神の民が組織だっていくという場面ですけれども、その随所に、信仰が輝いているということに気づきます。いや、それがなければ駄目なのです。

 

3.       ともに建てあげる喜び、整えられていく民 補い合い育っていく教会 

 本日の箇所を私たちはどのように聞くでしょうか。神様の力をもらっているから疲れない、わけではありません。モーセでさえそうでした。私たちも同じではないでしょうか。私は本日の箇所を備える中で、すべての人に向けて「あなたはそれを一人ではできません」と言われていますし、「彼らはあなたとともに重荷を負うのです」と呼びかけられているのではないかと感じています。神の御心はなにかを求める日々の信仰の歩み・決断・選択にしても、様々な奉仕にしても、時に自分が握りしめていることによって押しつぶされそうになるときがあります。けれども、私たちは「ともに重荷を負う民」として整えられることが求められているのです。中心聖句を、第一コリント12章にしました。長い箇所ですが、お読みします。1212-27節。「神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました」「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです」。教会とは何かを考える際、大切なことばが並べられています。この後にはそれぞれの賜物がありますが、時にそれは多くの分裂を生む結果にもなります。コリントの教会も多くの問題を抱えていた。だからこそ、パウロはキリストのからだは一つであり、それぞれの部分が無くてはならない、かけがえの無い存在であることを伝えるのです。それは人の努力によってできるようになるわけではありません。私は、この第一コリント12章の後に、有名な13章が置かれていることに大きな意味があると思うのです。すなわち、愛がなければ、どれだけ立派な賜物を持っていても無意味であると。その愛をもって、ともに重荷を負うように召された教会はキリストのからだとして一致していく。それぞれの賜物はそれぞれが握りしめていたときよりも更に豊かに用いられていくのです。

 モーセは確かに偉大な指導者です。出エジプトの要のような役割を担っていた。しかし、その召しの最初はどうだったのでしょうか?アロンが与えられなければ、口下手な彼は立ち上がることができなかったかもしれない。アマレクとの戦いに際して、肉体の衰えによって両手を上げて祈り続けることができずよろめいたとき、彼を支えた人々がいたのです。

 

4.       まとめ 

 本日は、救いの土台の上に立てられる神の民の組織や秩序についてみてまいりました。すでに触れたことでくどいようですが、このイテロの提案の土台にあったものも最後に見ておきたいと思います。18章の前半部分を見ますと、モーセのしゅうとイテロは、イスラエルの民たちがエジプトを出たとのニュースを聞いてやってきたと書かれています。モーセの妻、そしてモーセの二人の息子を連れてやってきたのです。8-12節をお読みします。ここでイテロは、神の救いのわざを喜び、神への全焼のささげ物といけにえを携えてきました。つまり、ここにも礼拝があったのです。それを民たちと神の前で食事をしていた。本日の働き方改革の提案の土台には神様への礼拝があったことがいまお読みした箇所からわかります。教会の土台にあるのは、いつも神の救いを喜び、神様の栄光を表す礼拝なのです。

 その土台の上に立ってことをなすならば、この民は、約束の地に向けての旅を続けることができるのだとイテロは結びます。本日の箇所に戻り、23節。もし、あなたがこのことを行い、神があなたにそのように命じるなら、あなたも立ち続けることができ、この民もみな、平安のうちに自分のところに帰ることができるでしょう。民たちが帰るところは、まだ見たこともない約束の地です。普通だったら不安しかない状況であります。しかし「平安のうちに帰ることができる」。平安というのは「シャローム」という言葉が使われています。今年の中心聖句、イエス様が言われた「安心して行きなさい」と同じ響きを持っているようです。神を恐れ、神を礼拝する民たちは、ともに重荷を負い、一つのからだとして安心して歩んでいく。そして、どんな困難な中にあっても、天国の希望を持って生きることができるのです。礼拝が終われば、それぞれの場所に遣わされていきます。一人ひとりは弱く、疲れやすく、何もできないと思っていても、ともに重荷を負いながら、神の民としての地上の歩みを続けていく。それぞれの場所にあって神のみこころは何かと求め、神に喜ばれる神の民を形成していく。そんな教会を建てあげていく一人ひとりであるのです。