救いの重みを受けとめた人々

❖聖書個所 第一テサロニケ1章1節~10節    ❖説教題 「救いの重みを受けとめた人々」

◆(序)標語社会

 私たちの文化においては、何に関しても標語を作ることが珍しくありません。それは、何でもまとめて凝縮する日本文化の特徴の一つだと思いますが、問題は、そうすることによって、事柄を単純化し、あまり突き詰めて考えないことです。例えば一人のいのちは地球よりも尊いと言われます。しかし、600万人にものぼるユダヤ人や障害者を虐殺したヒットラーのような人間のいのちについてもそう言えるのかというと、ことはその標語のように単純ではないのです。

 

 いきなり、こんな話をしたのは、このように問題を単純化してしまうことは、本来は神のことばを中心とするキリスト教会の中にも入り込んでいるからです。宗教改革の柱であり、プロテスタント教会のしるしである「聖書信仰、信仰義認、万人祭司」のうち、「聖書信仰」をとりあげますと、それが具体的に何を意味するのか、科学や歴史との関係はどうなのか、現実社会での生き方はどのようなものか、さらにはその聖書の意味を誰がどのように決定するのか等さまざまに考えなければならないことがあるのですが「聖書信仰」と言うとすべて分かっていると片付けてしまうことです。私たちは、自分の信仰のためにも、また他の人々に証しするためにもシンプルなことばによって思考停止になってはならないのです。

◆(本論)宣教の教会という意味

①そのようにしてしまうことの一つに「宣教の教会」という言葉があります。特に福音派の教会では主イエスの大宣教命令(マタイ28章18節~20節)でもあることからよく口にします。時には、教会が教会である証明、教会の生命線と言われることもあります。救いの恵みをいただいている者、教会の一員であるなら、無視できない大事な言葉です。しかし、問題はその中身です。それが何を意味し、それにふさわしい教会となっているかです。

 この場合、その意味するのはトラクト配布をしていることや伝道集会を行っているなどの教会のブログラムのことではないと思います。それらは大切ですが、中心ではないと考えます。それらは宣教の教会であることが現れた事柄であり、中心は一人ひとりの信仰、真に救いを知り、主の恵み、愛、希望に生かされているか、そしてそれゆえに、この福音を伝えようとしているかです。私たちは「宣教に生きる教会」という看板を掲げて、あるいはトラクト配布などを行っているからといって、自分たちは宣教の教会であると考えてはなりません。大切なのは標語ではなく、教会に属する一人ひとりの信仰の実態なのです。

②そんな教会の模範的例として、テサロニケ教会への書簡を取り上げるのは、聖書に出てくる教会の中で、この教会は宣教の教会というビジョンと実態が一致していた教会だと思うゆえです。

 パウロは彼らについて、8節「主のことばがあなたがたのところから出て、マケドニヤとアカヤ全土に響き渡った。」と言っています。あなたがたによって、主のことば、福音が自分たちの州だけでなく、隣の州の人々にまで響き渡った、非常に印象的に伝わったといいます。教会の規模とかどんな教師がいてどんな人々が集まっているとかではなく、主のことば、そこに集う人々が主のことばによって生まれ変わり、神の民として生きている姿が隣の州まで響き渡り、人々に深い印象を与えたといいます。後半を見ると、この教会の人々は、召された者や再臨のことについてしっかりと理解していなかったことが指摘されているように足りないところもありましたが、その信仰と宣教に生きる、福音を伝えるということに関しては注目すべき姿を持っていたのです。

③何故、テサロニケ教会は真に宣教の教会であったのでしょうか。それについて、まず彼らの置かれていた状況が良かったからと思う人がいるかも知れませんが、実際は反対でした。使徒の働き17章に、テサロニケに福音が伝えられた時のことが記されています。それによると、自分たちの信仰とは違う、十字架の死と復活が自分の罪のためであったと受け入れるだけで救われると信じる者たちが増えていることに対して、怒りと妬みにかられたユダヤ人たちから激しく迫害され、また元々の街の住民であるギリシャ人たちからも不安がられたとあります。この教会の人々を取り巻く状況は良いどころか、むしろ厳しいものでした。

 このように、彼らから主の言葉が出てマケドニヤとアカヤに響き渡ったのは、決して周りがキリスト教に好意や理解を持っていたからではありません。このことは私たち、キリスト教に厳しい日本に生きる者として覚えておきたいのです。私たちは、おうおうにして自分たちの宣教が進まないのは、取り巻いている状況のゆえだ、人々の心の深いところにある考え方のせいだと思うのですが、本当はそうではないことをテサロニケのクリスチャンたちの例が示しています。彼らは、激しい憎悪と妬みを持ったユダヤ人と警戒の目を向けていた異邦人の中で福音に生き、福音を証しするいのちある教会として成長したのです。

④では、この教会から隣の州まで主のことばが出たと言われた真の理由、信じた者たちがまことの神を信じ、偶像を拝む生活から離れ、主イエスの福音を喜び、キリスト者として忠実に歩むようになった理由は何だったのでしょうか。鍵となるみことばがあります。2章13節「こういうわけで、私たちもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。」使徒パウロによって書かれた書簡の中で他に例がないほど褒められているテサロニケ教会の最大の特徴は、彼らのはっきりとした信仰でした。救いの重みをうけとめていた姿、主のことばが信じる者一人ひとりの心の奥底に宿り、生きるエネルギーとなっていたことでした。

 具体的に言うならば、彼らは、まず罪をはっきりと認識しました。人との比較ではなく、また自分が生きている社会の文化によってでもなく、自分は、すべてを造られ、治めておられる神に背いて生きているという認識を持ったのです。いのちを与え、生かし、愛しておられる神に背き、本来いるべきところから外れて生きている使徒たちが伝えている罪人であることに気がついたのです。そして、そんな罪人のために、神ご自身であり、神の御子である方が、律法を学び守るといった人間の力ではどうにもならない罪や死のために、十字架の死まで受けてくださり、復活し、新しいいのちを与えてくださったこと、その主によって本当に義と認められ、神の子とされていることを堅く信じたのです。また、信じる者に聖霊がともにいてくださること、そして今は主のみからだである教会に属し、神の国の住民とされていることを深く知ったのです。

 それは例えばルカ19章の取税人ザアカイのように自分の人生の中でこれらのことを深くはっきり経験したのです。福音を知る以前は、自分や自分たちを中心とする以外の生き方はないと思っていたのですが、使徒たちが語る主のことばを聞いたときに、大切なことに気づいたのです。見えることばかり求めていたことから、自分を覆い、自分の人生をリードしている見えないもの、罪に気がつき、これからはその罪と支配の中で生きるのではなく、本来の、神によって創造され、愛されている者として、神との深い交わりの中で生きることを心に決断したのです。

◆(終わりに)最も大切なのは、一人一人の信仰の姿勢

 私は日本のような土壌において、組織がしっかりして、互いの交わりが充実することは教会が成長するうえにおいて重要だと思っています。しかし、それよりも大事なことがあります。一人ひとりの主との関係です。人との比較ではなく、本当に自分が罪人であることに気づいていることです。そしてそんな者であるにもかかわらず、御子が十字架によって罪と死の支配から救いだしてくださったことを知り、心から喜び、感謝し、これからはその神によって生きようとしていることです。

 

 それこそが宣教に生きる教会です。私たちには言葉にならないほどの恵みが与えられています。素直に神の愛を受けとめ、そして信頼して生きて行きましょう。その姿勢にキリストの香りが伴い、周りの人々に届くのです。それは、この世に流されない歩みです。神は私たちに既にそのような人生を与えてくださっているのです。主を喜び、主とともに歩みましょう。