人生の変化

❖聖書個所 ローマ5章1節~5節     ❖説教者 川口 昌英 牧師  

❖説教の構成

◆(序)この箇所について

 パウロは、おもにこれまで人はどうしたら義とされるのかと語って来ましたが、この箇所では、義とされた者の変化について語っています。義とされていることは確かであること、そして、義とされた者に求められている生き方、神の前における立場などについて詳しく述べています。

 このように、パウロは、義とされた者の状態についてまず原則的なことを語っています。私は、この箇所は私たちが信仰生活を送るうえにおいてとても大切なところだと思っています。 

 このところにおいて、著者パウロは、神の義を受けたキリスト者は、大きく三つの点が変えられていると言います。第一は生きるうえにおいて、根本の立場、関係が変化したと言っています。(1節) 主イエス・キリストによって、神との平和を持つようになったと言います。主の譬えに出てくる放蕩息子の譬えを用いるならば、再び息子として、父親から迎えられているという状態です。第二に生きる目的が変化したと言います。「…神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。」(2節) 神の栄光を望む、神様のすばらしさが現されるようになることを望むようになったと言います。第三に現実の、生きる中心も変化していると言います。「それだけではなく、患難さえも喜んでいます。」(3節a) 義とされた者は、そのために受ける患難さえも喜ぶようになっていると言うのです。

 

 クリスチャンになった者の状態を表す有名なみことばに第Ⅱコリント5章17節(朗読)がありますが、本日の箇所は、その古いものが過ぎ去り、新しく造られた具体的状態を示しているところです。では詳しく見て参ります。

 

◆(本論)三つの変化

①立場の変化

 まず、ここで言う平和は、イエス様が誕生した時に「地の上で、平和が、みこころにかなう人々にあるように」(ルカ2章14節)、又主が十字架にかかる前に「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がしてはなりません。ひるんではなりません。」(ヨハネ14章27節)、そして、死より甦られた主が弟子たちに会った時に「平安があなたがたにあるように。」(ヨハネ20章19節)と語られているものと同じです。平和、平安と訳語は違っていますが、新約聖書が書かれた元々の言語(ギリシャ語)では同じ言葉です。

   主の誕生の時、十字架刑の時、又復活の時の中心として言われているものです。神の御子、イエス様が救い主として世に来られた目的です。そんな重要な平和、平安について、信仰によって義と認められた者は、既に平安が与えられている、人にとって一番大切な神との平和を持つ者になっているというのです。生まれながらの状態から、その人が生きている立場、神様との関係が変化したのです。

 具体例をあげた方が分かりやすいでしょう。よく知られているルカ15章11節~24節に出ている放蕩息子の譬えです。落ちぶれて我に返り、自分がしたことの重大さに気づき、あやまるために父親の元に戻った時、想像もしていなかった父親の深い愛によって赦され、再び、子どもとして迎えられた息子です。人と神様との関係を表している譬えです。

 自分の願う通りのことを行っている時には、息子と父親との関係の中に、平和、平安はなかったのです。むしろ、父のことなど頭になかったのです。思う通りの生き方をすることが大切と思っていたのです。しかし、落ちぶれて真剣に考えた時に、自分にとってそれがいかに大切なものか、思い知らされたのです。深い喜びであり、生きる力であることが分かったのです。

 そのため、自分のした行いを認め、息子として迎えられるとは少しも思わず、とにかくあやまろうとしたのです。しかし、本当に驚きでしたが、父親は帰ってくることをずっと待ち続けていた

のです。そして、変わり果てていた息子でしたが、自分から走って近づき、抱きしめ、至上の喜びを現し、再び愛する子どもとして迎え入れてくれたのです。この時、この息子の立場が変わったのです。孤独、孤立ではなく、愛する者として受け入れられ、安心、平安が与えられているのです。

 このように、主を信じて義とされた者は、神から離れていた時の孤独、孤立ではなく、愛する者とされ、この世が与えるものとは違う、真の平安、罪と死に勝利した、人として最も大切な平安が与えられているのです。この意味は大きいのです。誰が何を言おうともはや恐れる必要はないのです。

②目的の変化

 二つ目は、生きる目的の変化です。立場が変わった者は、必然的に生きる目的が変わります。2節「このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れらました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。」パウロは、別の書簡ではこう言っています。「私にとって、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ1章21節) 

 以前にも話したことがありますが、私の神学校の後輩は学生時代、酒浸りの生活をし、体を壊すような生活をしていました。心配したクリスチャンの友人が教会に連れて行きました。彼は、そこでひとり子さえも惜しまない程の神の愛が自分にも向けられていることを知り、救われたのです。その時から生活がはっきり変わりました。いつも酒に逃避する虚しさと寂しさを心のうちに抱いていたのですが、人知をはるかに超えた神の愛を知ってから、少しも飲みたいと思わなくなったのです。そして自分の人生を変えてくださった主のために生きていきたいという思いが与えられ、数年の準備の後、神学校に入り、牧師になったのです。この人は特別ではありません。本当に主の救い、平安が与えられたと知った者は、その置かれているところで生きる目的が変わるのです。例えば学校の先生は先生として、看護師は看護師として、更に親は親として、子は子として、たとえ状況は同じでも生きる目的が変わるのです。神の豊かな愛を知って、自分でも神の栄光、すばらしさを現したいと思うようになるのです。

③現状を受けとめる心の変化

 三つ目は、現実、生きる中心、力が変化することです。「そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。」と言われている通りです。3節後半から、その詳しい理由が述べられています。義とされた者の生きて行く力、中心が変わることはある意味では当然です。義とされ、立場が変わっているのです。愛されており、もはや孤立、孤独ではないのです。又生きていく目的もはっきりしたのです。そして、神にあって生きるために、みことば、御霊、教会が与えられているのです。ですから、今までは患難に会うと人生の全ての道が閉ざされたように感じ、倒れやすい者でしたが、義とされた後は、祈ることができるようになっているのです。そして、主から力を受けることが出来、すべてを委ねることができるようになっているのです。簡単に、倒されることはないのです。よく話すように、神を信じる者は、たとい四方八方が塞がれていても天の窓は常に開かれているのです。

◆(終わりに)外見的変化はなくても

 義とされた者は、救われる以前も救われた後も、外見上は同じであっても、神の前に大きく変わっているのです。身寄りのないことで苦しんでいたある人が、主を信じた時、天の父がおられることが分かって深い慰めと力をいただいたと証ししていました。又、重い病床にあった方が死を目前にして、心からの平安を告白しています。苦しい中でも立場、人生の目的、現実の生きる力が変わったことを知っているからです。

 

 それらを励まし、確かにするためにみことばがあり、御霊、教会が与えられているのです。義とされた者は、既に主からの平安を受け、罪と死の支配からまことのいのちに移っているのです。この年も、あるいはこの年こそ、与えられている恵みを深く覚えて日々を送りましょう。