試練と平安

❖聖書箇所 詩篇62篇                        ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖説教の構成

◆(序)62篇について

①62篇がつくられた時の状況について二通りの可能性があります。

   一つは、ダビデがイスラエルの王になる前、初代の王サウルに仕え、功績を上げ、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」ともてはやされ、国民の人気がダビデに向けられるようになったことを妬み、王位が奪われるのではないかと猜疑心に満ちたサウルによって命が狙われ、国のいたるところや国外まで逃亡していた時です。

   もう一つは、神に退けられたサウルに代わってダビデがイスラエルの王位につき、国を安定、隆盛させ、平安と喜びを持って過ごしていたが、綿密な計画によって国民の心を自分に向けさせた息子アブシャロムによって謀反を起こされ、追われ、家族や僅かな家臣たちと国内を逃亡していた時です。

 断定できませんが、全体的状況から63篇と共におそらく後者ではないかと考えられています。この説教では後者を想定してお話します。

②この時、ダビデは一切のものを失っています。そればかりでなく、強力な追撃隊によって今も執拗に命が狙われていました。国内の権力者のほとんどがアブシャロムの側につき、どこにも安心して身を置くところがありませんでした。直近まで国民の信頼と尊敬を集めていた王が夜の闇に隠れて荒野を逃げ回り、なんとか日々を送り、命を保っていたのです。

   国境を接していた国々から恐れられ、国民から愛され、尊敬され、多くの才能に恵まれていた、人間的には並ぶ者がないぐらいの人物が追っ手から逃れるために、何もない、昼は暑く、夜は冷える荒野の岩陰や洞くつの中に身を隠しているのです。この先、少しも光が見えない状況に追い込まれていたのです。

 

   そのような中でつくられた詩ですが、読む者は弱々しい、或は絶望している姿を感じません。驚くほど静かで平安に満たされている姿を感じます。この時、ダビデを追っていた者たちが不安や思い煩いに覆われていたと記されていることと正反対といってよいような状態です。

❖(本論)絶望の中の平安

①どうして、ダビデは厳しい状況に追い込まれていながら、平安に満たされ、すべてを委ねることができたのでしょうか。確かに、ダビデは主からイスラエルの王として特別に選ばれた人ということがあるでしょう。しかし、神から特別に選ばれた人であっても、最初の王、サウルのように現実に困難に会うとその状況に振り回されやすいのです。

 ダビデがこの時、平安に満たされていたのは彼の信仰のゆえでした。こう言っています。「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩 わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。」(1節~2節) という神への心からの信頼です。その思いは5節~7節においても繰り返されています。ダビデは、厳しい状況においても、私はひたすら神を仰ぎ、神の導きを待ち望む、神こそ、わが人生の岩、強くつなぎとめてくださる方、救いの恵みを与えてくださる方、敵の手から私を安全に守ってくださる方と言い、その方に心から信頼しますから、私は決して動揺して右往左往しない、神に期待することをやめたりしないと告白します。

 人はおうおうにして、神様を信じたはじめの頃は自我が砕かれ、全てを明け渡し、信じ、従うのですが、段々信仰生活が長くなると社会的にも立場が変わり、多くの責任を持つようになると、それらを守るように心を配りがちになります。言うまでもなく、社会の中で用いられることは大切ですが、問題は人生の中心そのものがそれらになって行き、もはや主とともに歩まなくなる

ことです。ダビデは周知のように元は羊飼いでしたが、王サウルの有力な側近となり、紆余曲折がありましたが、遂にイスラエルの王になるという普通の人の想像を越えた経験をしていますが、 しかし神に対する姿勢は、王になっても、野において羊を飼っている頃と変わりがなかったのです。後で話すように、一時、高ぶり、主の道から逸れたことがありますが、生涯の大部分、その中心は、主に信頼し、主の導きを求め、主から力、望みをいただきながら生きていたのです。それゆえ、何もかも失い、絶対的危機にあっても神にある真の平安を持つことができたのです。

②ダビデが厳しい状況の中でも落ち着き、平安な状態にいることが出来た二つ目の理由は、自分の心、あるがままをすべて主の御前に注ぎ出し、委ねていたからです。8節にこうあります。「民よ   どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。」主がともにいてくださることを心から信じて、自分の全て、讃美、感謝だけでなく、心のうちにある全て、嘆き、ときに呪いさえも告白し、いっさいを神に委ねていたのです。

 全てを神に注ぎ出すときに平安が与えられるのです。新約聖書の中で、使徒パウロもピリピ4章6節の中で語っています。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」神様を信じると告白していても神から身を隠すなら、又ある事柄しか委ねていないなら不安や恐れは残るのです。人は重荷を神に委ねようしますが、自分の中に恥ずべきものがあるから自分自身を委ねようとしないのです。ダビデは、同じ状況の時に作られたという説が有力な23篇で、良き羊飼いが羊を守っているように、神は自分のすべてを知り、たとえ死の陰を歩く時、絶望的な状況にも共にいて慰め、励まし、これからも敵や災いからも守り、祝福を与えてくださることを心から信じていたのです。

③そんなダビデの信仰は、ある経験を通して、人生において何が一番大切か知らされていたということと深い関係があったのです。

 実はその行いをするまで、主に忠実だったダビデには考えられない罪を犯したのです。欲によって部下の妻を奪い、その罪を隠すために手を尽くし、失敗に終わるや、王の立場を利用して、その夫を残忍な計略によって殺害したのです。十戒をいくつも破る罪を犯しながら、 彼は黙りました。自分がした罪が分からない訳はありませんが、人の前にも神の前にも沈黙したのです。そんなダビデに対して、神は、少しも容赦なく、罪を厳しく問われ、責めたのです。(第Ⅱサムエル記12章9節) その時、ダビデは徹底的に砕かれたのです。そして我に返って信仰を取り戻し、人生の基軸、自分の人生の中心がはっきりしたのです。生きるうえにおいて、何が最も重要であり、最も力であるのか、反対に何が人生から最も喜びを奪い、暗いものにするのか、はっきり分かったのです。その時の経験から、人間的に厳しく追い込まれても、主が共にいてくださるなら何も恐れる必要がない、私はすべてを神に委ね、安心していると心から告白することが出来たのです。

 

◆(終わりに)真の力は主にある

 この62篇は厳しい荒野に追われても平安、希望があることを伝えています。

 

   東日本大震災のことを忘れてはならないと思いますが、福島の教会の牧師夫人が震災時のことについて語っていたことが心に残っています。心身ともに激動する日々の中で、絶望的な思いに襲われましたが、ある時に弱さのうちに働かれる主(Ⅱコリント12章9節~10節)を実感、本当に身近に感じたと言うのです。すべてのものが崩れ、奪われて行く中で、揺るがされることがないものがある、それは神のことばである、中でも主の十字架と復活であるとみことばがとても身近かに感じられ、人として、一番大切なものが何か、深く教えられ、大変な中にも力が与えられたと言っています。未曾有の災害の中でそのように感じたと言うその言葉に私はとても感動し、教えらました。真の力は、持てるもの、状況にあるのではなく、神と共にある、神のことばと共にあるのです。この真の力によって新しい年、それぞれの場で日々歩む者となりましょう。