私たちの志

■聖書:ピリピ人への手紙212-16節     ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。(ピリピ人への手紙213節)

 

1. はじめに

 新しい年の最初の主日礼拝では、説教題にもあるように、「私たちの志」について御言葉から聞くときを持ちたいと願っています。「志」という言葉を日本語の辞書で調べますと、最初に出るのが「ある方向を目ざす気持ち。心に思い決めた目的や目標」とありました。ただ単に「思う」という漠然としたものとは違っていて、その思いがある方向性をもっているということがこの語からわかるのです。新しい年のはじめ、私たちの信仰の先人が歩まれた道を覚えつつ、改めて私たちの目指すべきところ、進むべき道の方向を定めてまいりましょう。

2. キリストの従順  

 このピリピ人への手紙はパウロの獄中書簡でありながら、喜びがいたるところに散りばめられている書簡であるとされていますが、本日の箇所にもその喜びが溢れているようであります。少し背景を抑えておきましょう。まずはこの手紙を受取るピリピの教会の人々とはどの様な人々だったのでしょうか。本日の箇所はこのような呼びかけから始まります。12節、こういうわけですから、愛する者たち。手紙を受け取るピリピ教会の人々に対して、パウロは「愛する者たち」と語りかけます。この呼びかけはそんなに多いものではありません。ある重みを持ってこの言葉を使っていると言えるでしょう。このピリピの人々について、パウロはすでに1:3以下で述べています。この辺の数節を読むだけでも、パウロがどれだけこの人々を愛しているのか、慈しんでいるのかが伝わってくるのではないでしょうか。パウロにとってのピリピの人々というのは、どの様な行いをしたかにかかわらず、その存在自体が神様に感謝を捧げる理由になる人々なのです。と言いますのも、このピリピ教会が建て上げられたということは、パウロにとって当たり前ではない、格別に大きな喜びであったからであります。

 使徒の働き16章にパウロがピリピを初めて訪れたときの事が描かれています。16章は使徒の働きでも大きなポイントとなる箇所で、福音が海を渡りヨーロッパに伝えられた最初の場面が記されている箇所なのです。マケドニア人が叫ぶ幻を見たパウロは、マケドニアに渡ること、そしてマケドニアの人々に福音を述べ伝えることこそが、自分の使命であると確信します(使徒16:10)。ピリピはマケドニアの中でも今日のギリシャに位置する町で、当時もマケドニアの主要都市として栄えていました。不思議な幻によって疑いようもなくすすべき道が示された。神の召しと信じて、意気揚々と海を渡ったのではないでしょうか。しかしその地で、彼らは、町をかき乱しているとして牢屋に入れられてしまうのでした。彼らは衣を剥ぎ取られてムチで打たれ、足に木の足かせをはめられます。幻を見て、使命に燃えて新たな一歩を踏み出したパウロにとって、これは大きな失望であり、落胆ではなかったかと想像できます。しかし、話はそれでは終わりませんでした。この牢獄の中でも神様の不思議なご計画とわざがあり、その牢獄の看守とその家族が救われるのでした。この家族は「神を信じたことを全家族とともに心から喜んだ」とありますから、ピリピ教会の心には、最初から喜びが満ちていたということができるでしょう。このピリピ宣教のはじめから、投獄という決して喜ばしいとは言えない、順調とは言えない出来事がありました。宣教の結果を見ても、何百人、何千人と救われたわけではなく、何組かの家族が救われたに過ぎません。しかし、明らかに神様のみわざとしか思えないやり方で産み落とされたのが、このピリピ教会だったのです。パウロにとってはたしかにここでも神様が働かれているんだということを確信した。それが、このピリピの教会の誕生だったのだと思うのです。だからこそ、パウロは優しく「愛する者たち」と呼びかけるのでした。

 しかしそんなピリピ教会も問題を抱えていたのでした。教会の内部に不一致があったということが、この手紙を書いた直接の理由でした。だからこそ、本日の箇所につながる2章の冒頭部分でこのようにパウロは訴えています。ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい。愛する者たちが引き裂かれそうになっているのを、パウロは黙って見過ごせませんでした。冒頭でもお話したとおり、彼はこの手紙を牢獄の中で書いています。でもその事を嘆いたりしてはいません。自分のことよりも、この神によって生み出された「愛する者たち」が互いに愛し合って一つになることを願い、それが何よりの喜びであると言っているのです。思いを一つにしてという言葉、これは今までの聖書の訳ですと「志を一つにして」と訳されています。それぞれがてんでバラバラに進むのではなく、進む方向を一つにして、神様が指し示す方向へと進んでいってほしいと願うのでした。

 そのために、「へりくだり、他人を顧みる」ということを訴えているのです。そして、ピリピの教会、そして今日の私たちが行うべきその「へりくだり」がどのようなものなのか、6-11節イエス様のへりくだりと顧みから教えているのです。自らを低くし、死にまで、それも十字架の死にまで従われたイエス様の従順は、単に人間関係を円滑にするためということではありません。そうすればうまく生きられるから、というわけではないのです。それは神様に従順であったということにほかなりません。神様に従順であったから、どこまでもへりくだられたのです。そしてそれは他者であり罪人であった私たちを顧みる、愛の行動でありました。それを受けて、本日の箇所は「こういうわけですから」とつながるのでした。こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。そのキリストの従順にならい、生きる先にこそ「自分の救いの達成」があるというのです。繰り返しになりますが、イエス様の従順は、単に自らを低くして他の人々に仕えるということ以上に、真の神様に従うということでした。神様に従順であるからこそ、へりくだり、他者のために生きられたのです。あの十字架の前夜、わたしの願いではなく、みこころがなりますようにと祈るイエス様は、ご自身のすべてを神様に差し出しているのです。それがすべての人のための十字架となり、すべての人を真に生かすための犠牲となったのでした。あなたがたも、そのイエス様の後に従いなさいというのです。そしてイエス様がその従順とへりくだりのゆえに高く上げられたように、あなたがたも救いの達成を目指しなさいと言われるのです。

 神様に従順であるということ、また、その先にある救いの達成がどういうことなのか。少し飛ばして、14節以降でパウロは言葉を変えて教えます。すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。不平を言わず、疑わず。なかなか難しいものです。疑い、不平ばかりを言う自分の姿を私たちは様々なところで目撃します。救われた後でもそうなってしまうことは聖書の中でも多く書かれている。あの出エジプト、神様の偉大な救いのわざを見た直後でさえ、人々はつぶやきました。与えられたものに満足できないのです。神様が示される道よりも、もっと良い道があるように思ってしまう。まるでアダムとエバが、神のようになることを求めて禁じられた木の実に手を伸ばしたように、人は神様に与えられたものに満足できずに、自分を神として生きたがるものなのです。それは疑いと不平にほかなりません。それ故に約束の地に入れないということもあった。

 

3. 曲がった邪悪な世代のただ中にあって

 しかし、すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行うということは、単に罪人を縛り付けるためのものではありません。その先に神様が喜ばれる姿、もう少し言えば、私が私らしく生きられる本当の姿があるのです。15,16節前半をお読みします。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。ここに、神様が喜ばれるお姿、自分の救いを達成する者の姿があります。これはイエス様を信じ、救われた人々に対して語られていますから、すべてのクリスチャンが目指すべき姿であると言えるでしょう。イエス様と出会い、イエス様を信じて終わりではない。洗礼を受けて終わりではない。そこから救いの達成・完成を目指しての歩みが始まるのです。イエス様とともに歩み始める新しいスタートであります。この2つの節には本当に様々なことが書かれていますが、その中の一つ、16節にあります「いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝く」ということを今日は覚えたいと思います。

 パウロを通して神様は、この世界がクリスチャンにとって生きやすい世界だとはいっていません。それどころか、曲がった邪悪な世代という物々しい言葉を使っています。イエス様自身、弟子たちを遣わすときには、それは狼の中に子羊を送り出すようなものだと言っています。誘惑は多く、この曲がった時代の流れの中で私たちの歩みも右に左に捻じ曲げられそうになることがあるのです。それを否定してはいません。ただ、それにも負けないでまっすぐに神様のみ前を進むために必要なものを、神様は与えてくださっている。それが「いのちのことば」です。「いのちのことば」とは何でしょうか。まず聖書の言葉、神の言葉と見ることができるでしょう。イエス様もまた、荒野でサタンの誘惑にあわれたときには、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」といわれて、私たちが神の言葉で生きる、神の言葉でいのちが与えられるということを教えておられますから、この御言葉がいのちの糧であると言えるでしょう。しかし私たちは、日々の食事ほどにはこの御言葉の糧、いのちのことばを必要とはしていないかもしれません。改めて、新しい年のはじめに、私たちを心に生かすものは何なのかを覚えたいと思います。

 このいのちのことば、それは聖書の言葉でありますが、でもそれだけではないように思います。その後の世の光として輝くということと合わせて覚えるならば、このいのちのことばとは、イエス様ご自身であるとも言えるのです。イエス様のご生涯の中で、弟子たちのうちの多くのものが離れ、もはやイエスと共に歩もうとはしなくなった、という出来事がありました(ヨハネ6:66)。世の曲がった時代にあって、イエスの言うことが信じきれなくなった、もうついていけなくなったのでした。弟子たちの中にも、ある意味でイエスにつくものと離れるものとの分裂があったわけです。イエス様は十二弟子にもお尋ねになりました。「あなたがたも離れていきたいのですか」私たちも度々この声を耳にするかもしれません。それほどに世の誘惑は大きく、私たちは未だ完成とは程遠い、弱さをもっているのです。しかしペテロは言いました。「主よ、私たちは誰のところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」これはヨハネの福音書にある記事ですが、この福音書の始まりは、イエス様ご自身がことばであることが言われています。神の言葉である聖書を読み、このいのちのことばそのものであるお方とともに生きることこそが、世の曲がった時代に流されずに生きる秘訣であるのです。更にヨハネは同じく福音書の最初で、この御方は光であると言っています。ことばであり、いのちであり、光であるお方。この御方とともに生きるときにこそ、私たちは曲がった世の邪悪な世代のただ中にあったとしても、世の光として輝くことができるのです。決して私達自身が光るわけではなくて、私たちのうちに行きて働かれるお方が輝いてくださる。ピリピ教会、そしてパウロ自身を含めたすべてのクリスチャンがどこを目指していくのか、それを明らかにしているのであります。

 

4. 「志を与え、事を行わせてくださる神」

 改めてピリピ教会の誕生のことを思います。御言葉を伝えたのはパウロでしたが、その救いは明らかに神様によるものであることをパウロは知っていたのです。だからこそ、13節において「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」と述べているのでした。冒頭でもお話しましたように、「志」とは「ある方向を目ざす気持ち。心に思い決めた目的や目標」と説明されます。私たちは多くの志を持ちます。特にこの一年の始まりの時には多くの目標を立てるでしょう。人生のプランも自分で定めていると思っている。でも、本当にどこに向かっていくのか、生きる方向は、神様が与えてくださっているのです。私たちが罪人であったとき、私たちは自分が望む方向を行き、神のみ顔を避けて生きていました。なんのために、どこに向かって生きているのかもわかっていなかった。しかし神様によって、そしてイエス様が従われた十字架が私のためであると知ったのです。そして私たちが生きる方向が定められ、志が立てられたのです。

 

5. おわりに

 いのちのことばである聖書、そして私たちがともに生きるイエス・キリストを与えてくださった。この年も、この御方に信頼して歩んでまいりたいと思います。葬儀に際し、教会の55周年記念の証集を読んでいました。この記念誌にはお二人のお証はありませんでしたが、それでも兄弟姉妹の証を読ませていただき、改めて、神様がお一人お一人に与えられた素晴らしいものを感じておりました。タイトルは「これまでも、これからも 〜私たちの原点」。イエス様と出会い、イエス様の十字架を信じ、私たちの新しい人生が始まりました。多くの先人達が歩んでこられた道を私たちもまた歩んでおります。同じ神様に与えられた志、目指すべきところが私たちにはあります。私の志、私たちの志。この年も、神様が立ててくださったこの道をともに歩んでまいりましょう。