あなたはどこにいるのか

■聖書:創世記38-10節      ■説教題:『あなたはどこにいるのか』

■中心聖句:神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたはどこにいるのか。」

 (創世記3章9節)

1. はじめに

 一年の終わりの礼拝と考えて、中心聖句を改めて覚えたいと願い備えてまいりました。しかし、この箇所を読んでいく中で、今日は一年の最後の日曜日であると同時に、クリスマスの翌週であるということが大きな意味を持っているように感じています。本日の箇所、最初の罪を犯した人間たちへの呼びかけの先に、イエス様の誕生があるということの恵みを覚えるのであります。また今日も、御言葉から教えられてまいりましょう。

2. 最初の罪と人の堕落

 本日の箇所が置かれている創世記3章というのは、聖書全体を見ても極めて重要な章です。人に罪が入った、その最初の場面です。あたりまえのことながら、この出来事がなければ、その後の救済の出来事はありませんし、先週ともにお祝いしましたクリスマス、イエス・キリストが世に来られることもなかったのです。よく話されることですが、聖書の中で罪がなかったのは最初の二つの章だけであり、あとは罪を犯した人間の救済の物語、神様がいかに人間を愛し、救おうとしておられるのかの歴史なのです。

 本日与えられているこの8節からの箇所をきちんと理解するためには、この前の部分も簡単に見ておきたいと思います。蛇が女をそそのかし、神様が食べることを禁じていた唯一の木の実を食べてしまうというところです。善悪の知識の木の実を食べたアダムとエバは、蛇が言ったとおりに目が開かれました(5,7節)。しかし、果たしてそこに幸せがあったか、愛のお方である神様のようになったかというと決してそうではありませんでした。彼らが開かれた目で見たものは、互いが裸であること、そしてそれを見た彼らは隠そうとするのでした。言ってしまえば、神様が良しとされたその状態、造られたままの姿が、あたかも悪いこと、恥ずべきものとしたのです。この隠す、隠れるというのは、本日の説教の一つの鍵になるかと思います。つまりそれは、そのままでは「良くない」から隠すのです。神様が女を造られるとき「ふさわしい助け手」として造られました(2:18)。よくお話することですが、これは、半歩下がって夫を補助する存在、ヘルパーという意味ではありません。「ふさわしい」とは、顔と顔を合わせて向き合うことを表す言葉ですし、「助け手」とは、時に神様を「私の助け」と呼ぶ事があるくらい、相手を本当に生かす存在であることをあらわす言葉です。いずれにしましても、神様が、この人しかいないと与えてくださった掛け替えの無い相手です。男が一人のときには「良くない」と言われ(2:18)、男と女とがいて初めて神様は「非常に良い」と見られたのです(1:31)。しかし罪が入ったとき、エデンの園で唯一、その顔と顔を合わせ存在だった夫と妻は、きちんと向き合うことができなくなってしまったのです。神様が良いとされたものを、彼らは「良くない」と、まるで自分自身が神のようになったかのように判断したのです。そんな目で、彼らが作った覆いはいちじくの葉ですから、やがては朽ちてしまうようなもろくお粗末な覆いです。それでも覆わずにはいられない。隠さずにはいられない。それほどに二人の関係は、かつてのすべて満たされていた状態から離れていた、壊れてしまっていました。それはこの後、12-13節を読んでもわかることですが、罪を犯した原因を自分であるとは認めずに、他者のせいにするということもまた、彼らの愛し合うために造られた関係が壊れてしまったことを教えています。

 それに続いての本日の箇所です。もう一度8節をお読みします。「そよ風の吹く頃」、というのがどのくらいの時間かはわかりませんが、罪を犯し、互いの目を気にしはじめてから少しの時間が立っていたのかもしれません。その間彼らは、今までは味わう必要のなかった罪責感を感じていた。腰を覆うそれが何よりの証拠となって自分自身に迫っているのでした。決して幸福、満たされている平安で安心な心とは違うことは、私たちが過ちを犯してしまった時に感じる感情とそんなに遠くはないでしょう。それはどんどんと膨れ上がり、不安は大きくなります。自分たちではどうしようもないものなのです。そんなしばらくの時を経て、彼らは、神である主が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。悪いことをした子どもが、親の足音を聞いてビクッとすることがあります。主が来られた、主は近くにおられる。それを表す音を聞くということは、これまでは大きな喜びでありました。「神が近くにおられる音を聞いた。それで、御顔を避け、身を隠した」という順接は、本当だったらふさわしくないものです。けれども、もう人にとって神がおられることは喜びではなく恐れになってしまったのです。安心ではなく不安になってしまった。悪いことをした子どもが親の顔色をうかがい、必死に何かを隠そうとしているのは、ある意味で可愛らしいものでもあります。でも彼ら自身は至って真剣です。真面目に隠そうとしている。そしてこのときのアダムとエバも真剣でした。彼らが隠れたのは園の木の間。その木々を造られたのは他ならない神様です。先程のいちじくの葉と同様、愚かで馬鹿らしいことを人はして、隠れた気持ちになっているのでした。自分たちがしてしまったことの意味が、よくわかっていたのでしょう。でも、彼らはそれを正直にごめんなさいとは言えないのです。11節。主は言われた。「あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか。あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか。」神様の問いかけは、あなたは禁じられた木から食べたのか。という質問です。それに対して人は言った。12節、「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木からとって私にくれたので、私は食べたのです。」質問に対する答えだけでしたら、最後の「私は食べたのです」だけでいい。けれども人はそれだけでは満足せず、女が私にくれたのでと人のせいにするのです。向かい合い、生かし合う存在だったはずなのに、なんと変わってしまったことでしょう。先ほどから子供の話をしていますが、大人だって悪いことをしてしまったときそれを隠します。問われても、なんとか言い逃れをしようとする。自分を正当化したり、しょうがなかったとしたりするのです。自分をよく見せたい、そんなに悪くないと思い込みたい。しかもただ女のせいにしただけではなく、「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が」と言って、神様の責任でもあると言っているのです。責任転嫁、と呼ばれるものです。人や神様の責任にして、だから自分は悪くないと思うのです。いや、そうでもしなければ自分を肯定できないのではないでしょうか。「御顔を避け、身を隠す」。先程は人と人との関係が壊れてしまったとお話しましたが、愛の交わりの中に造られた神と人との関係もまた損なわれてしまっています。もっと言えば、裸であることに気づきそれを恥じたとき、神様が造られたままでは良くないと感じてしまったその時には、すでにこの神様との関係が壊れてしまっていた。だからこそ、人と人との関係も壊れてしまったのです。お互いをお互いのまま愛することができなくなってしまい、隠さなければ、ありのままでは向き合うことができなくなってしまったのです。

 

3. 主の問いかけ「あなたはどこにいるのか」

 そんな彼らにとって9節、私たちに年間聖句として与えられた神様の呼びかける言葉は、どのように聞こえたのでしょう。神である主は、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」神様は彼らの居場所がわからずにこう呼びかけておられるわけではありません。すべてをご存知の上でこのように声をおかけになるのです。10節、彼は言った。「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。」彼を支配していたのは、恐れでした。神との関係が壊れ、人との関係が損なわれてしまった人間。繰り返しになりますが、神のようになることを求め目が開かれた先にあったのは、幸福感などではなくて、恐れであった。人は多くのものを恐れます、死を恐れ、病を恐れ、老いを恐れる。孤独を恐れ、材祭を失うことを恐れ、人の目を恐れる。裸であるのを恐れるというとき、それは、神様が造られたままの姿では不十分である、何かが欠落していると言っているようなものです。もう十分とはどこまで立っても言えない、そんな満たされない渇いた存在となってしまったのでした。そんな彼らにとって、「あなたはどこにいるのか」という呼びかけは、自分の罪を指摘する恐ろしい言葉のように聞こえるのではないでしょうか。私はこの箇所をそのように読んでいました。みなさんはこの「あなたはどこにいるのか」という問いかけをどのように一年間聞いてこられたでしょうか。礼拝の最後、祝祷のときにも毎回この御言葉が読まれます。しかし、実は私は祝福の言葉としてこれを祈ることができず、年間聖句が掲げられてから最初の12ヶ月は、別の言葉でお祈りしていました。

 でも一年を通してこの御言葉に向き合う中で、この呼びかけのもつ響きが変わってきたように思います。「あなたはどこにいるのか」。すべてを見透かした上でその罪を指摘しようと目を凝らす、意地悪な神様の言葉ではなく、御顔を避け園の木々の間に身を隠すような愚かな人間が帰ってくるための呼びかけであるように思えてきたのです。いや、知識としては知っていましたが、それが自分自身を呼ぶ優しい言葉として、私、山口契を呼ぶ呼びかけとして届いてきた、といったほうがいいかもしれません。

 

4. 一匹の羊を探される神様の愛と熱心       

 神様はいつも失われた人を探しておられます。最初に、聖書の大部分は罪を犯した人間を連れ戻そうとする神様の救いの歴史だとお話しましたが、神様は途中で見捨てたり、諦めたり、滅びるままに任せたりはせずに、絶えず「あなたはどこにいるのか」と呼びかけ、「ここにおります、ごめんなさい」と帰ってくるのを待っておられる。神様から隠れ、自らを隠していたところから出てくることを待っておられるのです。黙示録には、との外に立って叩き続けられるイエス様の姿が描かれています(3:20)。そんなイエス様のたとえ話も思い出すでしょう。一匹の迷子の羊を探し出し連れ戻すために、他の九十九匹の羊をそのままにして探し回られる。あるいは勝手に親子の縁を切って家を飛び出していった息子を、戸口に立って待ち続けてくださる。その神様の深い愛があるのです。なんとかしてこの壊れてしまった関係を直し、ご自身のもとに、本来の居場所に連れ戻そうとする熱心が、すでにこの「あなたはどこにいるのか」という呼びかけに現れているのです。すべてをご存知の上でなお呼びかけてくださることこそ、私たちへの深い愛と熱心なのです。人間の罪によって砕かれた関係が回復する。糸口がここにある。自力では神様に立ち返れない、それどころ御顔を避け隠れようとする私たちです。愚かにも隠れている気になっている。そんな私たちが帰れるのは、ただこの、神様の側からの呼びかけがなければならないのです。

 こういう事を考えながら、クリスマスを過ごしていますと、クリスマス、イエス様が世に生まれてくださったことこそ、この神様の、なんとかして罪人を連れ戻そうとされる愛と熱心の現れにほかならないと思わされたのであります。私たちを本当の居場所に連れ戻すために、イエス様は来てくださったのです。子どもの帰りを待つ父なる神様。そこに至る道となるための十字架を負ってくださったのです。御顔を避けていた罪人は、イエス様の十字架の血潮によって主の御前に立つことができるようにされたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの捧げ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ4:10

 

5. おわりに

 そしてこのようなクリスマスの意味を考えるならば、やはり今日は、ただ一年の最後の礼拝というだけでなく、クリスマス、私たちのために生まれてくださった御子と歩み始める第一週目と捉える必要があるのではないでしょうか。世間はクリスマスが終わればあっという間に年末・年始モードに切り替わりますが、インマヌエル「神が私達とともにおられる」という名前のお方が生まれたのは、生まれて終わりではなく、この御方とともに生き始めるスタートだったはずです。そのことをしっかりと覚えつつ、この時を静かに過ごしたいと思うのです。「あなたはどこにいるのか」と呼びかけられる神様の声を静かに聞きたいと思います。この呼びかけの先に私たちの主イエス・キリストは来られ、私たちのための十字架を負い、私たちが父なる神のもとに帰るための道となられました。このお方の深い愛がこの一年も豊かに注がれていたことを感謝します。暫くの間、深いあわれみが注がれたことを思い巡らす、黙祷の時を持ちましょう。その後にお祈りをいたします。